では、本文を始めますね。
<教典のある宗教>
宗教には、教典のないものと、あるものとがあります。
大きな岩を拝んだり、大木を拝んだりする宗教は通常原始宗教といわれますが、
これなどは教典なしで宗教活動をしています。
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われわれ日本人が慣れ親しんでいる神道、これも教典のない宗教です。
神殿を拝むとき、柏手をどう打つか、とか、榊の木をどちら向きに捧げるかとか、
拝礼を何度どのようにするかとかを述べた本はありますが、
これらは教典には入りません。
教典とは、拝む神はどんな神か、どんな属性を持った方か、といった、
神についての理屈を述べたところのある書物です。
こちらの宗教は原始宗教に対比して「高等宗教」といわれることが多いのですが、
筆者はこの呼び方を好みません。
ちなみに、神とは「見えない影響者」と言ったらいいでしょう。
見えなくて意識を持った存在を、霊と言います。
神は見えない意識体なのです。
いずれにせよ、キリスト教はこのうちの「教典のある宗教」です。
<聖書は特異な宗教経典>
さて、世の中に宗教の教典は多々あります。
そのうちで、キリスト教の教典である聖書は、なんともユニークな性格を持っています。
どういうことかというと、通常の教典は教祖が語った教えを記したものです。
豊かな霊感に恵まれた一人の人物が、出現します。
この人が様々な霊的経験をもとに人々に教えを語り、病の癒しも行います。
これが教祖です。
彼の死後、弟子たちがその教えを後世に残そうとして書き残します。
通常、宗教経典はこうして出来上がります。
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ところがキリスト教の教典である聖書は、これらとは大きくかけ離れた生い立ちを持っている。
聖書は旧約聖書と新約聖書とからなっています。
まず、旧約聖書についてみますと、著者は20人以上います。
この人たちは、いずれも飛び抜けて霊感に恵まれています。
教祖として自分独自のの宗教を興そうと思えば出来る、超霊感者です。
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なのに、みな「万物を創造した神」と自称する存在から送られる幻を、霊感受信して言葉で記録しているのです。
彼らはそれを創造神からのメッセージと信じて、バトンタッチするかのように受信し記録しております。
(これをどう考えたらいいかについては後述します)
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記録が作られた期間は紀元前1500年頃から400年頃までの1100年間の長期にわたります。
著者はみなイスラエル人です。
古代イスラエル民族に、そういう超霊感者が1100年にわたって周期的に出たのです。
平均すると50年に一人くらいの割合になるでしょうか。
そしてイスラエル民族もまた、それを創造神からのメッセージ受信記録と信じて、みんなで保存してきたのです。
<超霊感者を預言者という>
旧約聖書の聖句は、この幻の受信記録を基盤にしています。
超霊感者たちは、受けた幻を大枠として、その中に自分が直接見聞できた歴史事実も書いている。
その部分は受信記録そのものではありませんので、全てが霊感受信記録というわけではありませんが、
それも受信記録を大枠として理解され解釈されて書かれていますので、一言では霊感受信記録と言っていいでしょう。
そしてこれら超霊感者たちは預言者(prophet)といわれています。
受けた啓示を「言」葉にして「預」かる「者」という意味です。
ですから今時に言う「予」言者とはちがいます。
こちらはもっぱら先のことを予言する人ですから、混同しないようにすべきです。
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なお、正確に言うと、超霊感者の全てが預言者ということにはなりません。
霊感者には、それを言葉にして書き留めることをしない人もいるのです。
アブラハムという人などは、超霊感者そのものですが、彼は受信内容を言葉にしてはおりません。
けれども彼もまた預言者と呼ばれています。
まあ、ざっくり言えばそれでもいいわけです。
(「キリスト教の正しい学び方」 第2回 完)
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