鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

イエス逮捕は先送りされていた

2022年06月11日 | 永続確信のための聖書解読

 

 イエスはエルサレム神殿だけに居続けたわけではない。 

 

 故郷のガリラヤ地方(地図で言うと上の方にある)にも帰って教えるし、途中のサマリアという村にも立ち寄って宣教をした。 

 

 また、エルサレムでヤバくなると、ヨルダン川の東側ギレアデ地方にも逃れて時を稼いだ。 

 

++++++ 

  

 そうした状況でのエルサレム滞在だったが、神殿広場でのイエスの教えは、他の地域での説教よりも根源的なところをついていた。 

  脚なえを歩かせた時には、こんなことを言っている。 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事もおこなうことができません。」 

 「父がなさることは何でも、子も同様におこなうのです」 

  (ヨハネの福音書、5章19節) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 

 ~イエスの教えが普及した時代の我々にとっては、この発言は珍しいことではない。 

 父、子、聖霊を神とする三位一体論だ。

 だが、当時の状況はそんな甘いものではなかった。 

 

 <文句なしの「石打ち」刑> 

 

  ユダヤ教は、創造神の完全一神教だ。 

 イエスはその本山で、神を「父」と呼び、自分を「子」といった。 

 

 もうこれはとんでもない律法違反で、石打ちでの処刑に値する。 

  「石打ち」とは、こぶし大の石をみんなで投げつけて骨を砕いて殺す集団処刑だ。 

  

<奇跡には創造主が共に> 

 

 だが、イエス逮捕は先送りされていた。 

 

  ユダヤ教には同時に「奇跡をおこなう人には創造主が共に働いておられる」という思想があった。

 これもまた大鉄則だったのだ。 

 

 旧約聖書でのモーセの奇跡もエリアの奇跡も「神が共にいたからできた」という理論だ。 

 

 その奇跡を、イエスはもっと大がかりに、高頻度で行っていた。 

 この面では、会議でも高僧たちはイエスに一目置かざるを得なかった。 

 

 二つの思想が彼らの中でせめぎあっていた。 

  イエスの逮捕が先送りになっていたのは、

単に、神殿でのイエス人気によるという、

そんな浅薄な理由だけではなかったのだ。 

 

(続きます) 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イエスを支援した富豪たち  | トップ | 「無償の愛」は人の心を打つ  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

永続確信のための聖書解読」カテゴリの最新記事