八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

行為の表現? と 一遍上人?

2014-09-03 01:17:24 | イケン!

  

 一般の人は、労働してお金を得る。

 得たお金で家を買う(建てる)。

 このプロセスのお金と消費を取っ払えば、

 家を建てる労働をする。

 というシンプルな話になる。

 私はそういう話が好きだ。

          (ブノサーマ・ラ・ハカータ)

 

  

今、自力建設をしている

自邸『54帖の中庭』は、

 

建築作品というより、 

行為の表現 というべきか・・・・ 

行為の表現 を模型でどう表現するか?

 

ということで、

頭によぎったものは、

 

京都文化博物館に展示してある

羅城門建設風景の模型(1/30)。

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表側が完成した羅城門になっていて、

内側は建設途中の模型になっている。

 

昔、この羅城門模型には感動したなあ。

平安時代の民の息づかいがムンムンと感じられた。

 

そんなムンムンとした感動をめざして、

自邸『54帖の中庭』の模型を作った。  

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自画自賛の安っぽいハリボテ感。

Adsc_1573

 

ムンムンとした心地よい虚無感。

Aimg_4943

 

しかしなぜ、

自邸『54帖の中庭』

一遍上人が登場するのだろうか?

 

寺をもたず、宗派をたてず、

衣食住への執着を捨て、

捨てようと思う自分の心さえ捨て、

「我が屍は野に捨てよ」と言う一遍上人・・・・

 

常に暗示的に、

私の中に一遍上人が居るのだが、

 

その辺のところは、

危なっかしいので、

今は深く考えないようにしている。

 

  


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