本日は!
持衰(じさい) の話。
弥生時代、
航海に長けた集団がいた。
その名を 持衰 という。
その行来、渡海して中國に詣るには、
つねに一人をして頭梳らず蝨を去らず、
衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、
喪人の如くせしむ。
これを名づけて持衰と爲す。
(魏志倭人伝)
持衰 とは喪服を着た人という意味らしい。
同じく航海に長けた
白いあごひげをもった 白髭神 がいた。
白髭神 は住吉神社系の航海安全の神である。
神功皇后が異国退治の折、
水先案内として船首に立ち先導したという。
また、
今津の 水崎家(五ヶ浦屋) の由緒として
次の文書が残っている。
「我が祖先、神功皇后宮、三韓を征伐し給う時、
航海術に勝れたるを以って、朝鮮渡海の水先を仰せつけられ、
是を水先氏の端緒とす。
降って文治・建久(一一八五~一一九八年)の頃、
高祖城主原田次郎種直御用船を今津湾を以って
繋留場と定められ候につき、当主水先平九郎召し出され、
水尾指しの役目を拝し、濱崎浦の中央に居住し、
士分の籍に列し、船手頭となる。居住地後に殿の坂と言う。
其の後、天正年中、原田落城の後、
廻船数艘所有し、航海営業罷りおり候ところ、
文禄年中、太閤秀吉公朝鮮征伐の節、召し出され
当主吉十郎大いに其の功を称せられ、氏を水崎と改む。
続いて黒田長政公御入国の上御手船数艘御相預け相成り候間、
当主小兵衛五ヶ浦に分配して、五ヶ浦は大坂御銀主御登米を始め、
江戸御参勤御用物一切運送請負い御用達致し、
右五ヶ浦を廻船浦と唱え、廻船所有者集会所と
定め候につき、五ヶ浦屋屋号となる。」
航海に長けた集団として
持衰=白髭=水崎家
という関係が推測できる。
この推測に符合するように
古代では、石斧の産地、海上輸送の拠点
近世では、水崎家の五ヶ浦廻船の拠点となった
今宿今山(夷魔山) の頂には・・・・
ひっそりと
白髭明神 の祠が残っている。