八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

糸島昔話 持衰=白髭=航海に長けた集団=水崎家

2009-04-07 21:21:29 | シーパラダイス

 

本日は!

持衰(じさい) の話。

 

弥生時代、

航海に長けた集団がいた。

その名を 持衰 という。

 

 その行来、渡海して中國に詣るには、

 つねに一人をして頭梳らず蝨を去らず、

 衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、

 喪人の如くせしむ。

 これを名づけて持衰と爲す。

                         (魏志倭人伝)

 

持衰 とは喪服を着た人という意味らしい。

 

 

同じく航海に長けた

白いあごひげをもった 白髭神 がいた。

 

白髭神 は住吉神社系の航海安全の神である。

 

神功皇后が異国退治の折、

水先案内として船首に立ち先導したという。

 

 

また、

 

今津の 水崎家(五ヶ浦屋) の由緒として

次の文書が残っている。

 

 

 「我が祖先、神功皇后宮、三韓を征伐し給う時、

 航海術に勝れたるを以って、朝鮮渡海の水先を仰せつけられ、

 是を水先氏の端緒とす。

 

 降って文治・建久(一一八五~一一九八年)の頃、

 高祖城主原田次郎種直御用船を今津湾を以って

 繋留場と定められ候につき、当主水先平九郎召し出され、

 水尾指しの役目を拝し、濱崎浦の中央に居住し、

 士分の籍に列し、船手頭となる。居住地後に殿の坂と言う。

 

 其の後、天正年中、原田落城の後、

 廻船数艘所有し、航海営業罷りおり候ところ、

 文禄年中、太閤秀吉公朝鮮征伐の節、召し出され

 当主吉十郎大いに其の功を称せられ、氏を水崎と改む。

 

 続いて黒田長政公御入国の上御手船数艘御相預け相成り候間、

 当主小兵衛五ヶ浦に分配して、五ヶ浦は大坂御銀主御登米を始め、

 江戸御参勤御用物一切運送請負い御用達致し、

 右五ヶ浦を廻船浦と唱え、廻船所有者集会所と

 定め候につき、五ヶ浦屋屋号となる。」

 

 

航海に長けた集団として

  

持衰=白髭=水崎家 

 

という関係が推測できる。

 

 

この推測に符合するように 

古代では、石斧の産地、海上輸送の拠点

近世では、水崎家の五ヶ浦廻船の拠点となった

今宿今山(夷魔山) の頂には・・・・

 

ひっそりと

白髭明神 の祠が残っている。

 

Shirahige

 

 

 

 

 

 


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