一般の人は、労働してお金を得る。
得たお金で家を買う(建てる)。
このプロセスのお金と消費を取っ払えば、
家を建てる労働をする。
というシンプルな話になる。
私はそういう話が好きだ。
(ブノサーマ・ラ・ハカータ)
今、自力建設をしている
自邸『54帖の中庭』は、
建築作品というより、
行為の表現 というべきか・・・・
行為の表現 を模型でどう表現するか?
ということで、
頭によぎったものは、
京都文化博物館に展示してある
羅城門建設風景の模型(1/30)。
表側が完成した羅城門になっていて、
内側は建設途中の模型になっている。
昔、この羅城門模型には感動したなあ。
平安時代の民の息づかいがムンムンと感じられた。
そんなムンムンとした感動をめざして、
自邸『54帖の中庭』の模型を作った。
自画自賛の安っぽいハリボテ感。
ムンムンとした心地よい虚無感。
しかしなぜ、
自邸『54帖の中庭』に
一遍上人が登場するのだろうか?
寺をもたず、宗派をたてず、
衣食住への執着を捨て、
捨てようと思う自分の心さえ捨て、
「我が屍は野に捨てよ」と言う一遍上人・・・・
常に暗示的に、
私の中に一遍上人が居るのだが、
その辺のところは、
危なっかしいので、
今は深く考えないようにしている。