小学校5年生まで、京都鴨川の三条大橋付近に住んでいた。いたずらをした時など「おまえは三条大橋の下に捨てられていたのを拾うてきた子や」と親からよく言われた。
家のすぐ近くに鴨川が流れており、並行して琵琶湖の水を京都に供給するための水路「疏水」があった。鴨川は水遊び場と魚とり場、疏水は泳ぐところにと使い分けていた。
疏水で泳ぐ時は、家からふんどし(今で言うTバックスタイルの水着)に素足で、真夏の太陽でお好み焼きの鉄板のように焼けたアスファルトの上を、「エリマキトカゲ」よろしくぴょんぴょんとびはねて行ったのを懐かしく思い出した。
先日、テレビで2012年が疏水完成100周年だと報道していたので、懐かしくなり久しぶりに訪ねてみることにした。
蹴上(けあげ)周辺を散策したが、かろうじて市立動物園(当時は岡崎動物園)と疏水の一部が残っているくらいで、あの頃あゆ釣りを楽しんだ水門などは跡形もなかった。ただ、インクラインと呼ばれるケーブルカー式の木造船運搬車両が船と共に保存されているのがうれしかった
また、当時通っていた「新洞小学校」の標識を見つけ、受け持ちだった怖い先生の名前を想い出している自分の心は、50年以上も前のその頃にタイムスリップしていた。
そして、子供の頃よく泳いだ「疏水」に行ってみると、水門があり流れも速かったそれは存在せず、京阪電車の線路に置き換わっていた。でも、鴨川はほぼ当時と変わりなくたおやかに流れており、石を積み上げて作った魚取り用の囲いが川面にダブった。
わが家のあった場所にも行ってみたが、お寺だけはあったものの京都特有の、通りの両側にある小さな路地はすべてなくなっており、当然のことながら当時を思い出させてくれるような物はなにもなかった。
鴨川だけが歓迎してくれていたようだ。