探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 二木氏

2014-02-22 00:06:25 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

                  ・・ 宗家と庶流 ・・

二木氏

 二木氏 三階菱 (清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝大井氏」からの引用による ・・・『 』内引用


『信濃国安曇郡住吉庄は、その昔院御領であった。鎌倉幕府滅亡後の建武二年(1335)八月、北条高時の遺子二郎時行が諏訪氏らの後援を得て挙兵し、東国はおおいに乱れた。これに対し、足利尊氏は鎌倉を征討して、北条勢を一掃した。世にいわれる「中先代の乱」である。この合戦に、小笠原貞宗は尊氏に従い、信州各郡の北条方の武士を征討した。その軍功によって、尊氏から住吉庄の地頭職を与えられた。・・・その住吉庄の一郷に二ツ木郷があった。貞宗の四男小笠原七郎政経は、興国六年(1345)八月の天龍寺供養に際して、尊氏の随兵として名をあらわした。この政経が住吉庄内の地頭職を分与され、二ツ木郷に居を構えた。その後、世代を重ね小七郎貞明に至って、二木を家号にしたという。・・・とはいえ、『溝口家記』によれば、二木氏は安曇郡西牧の地に割拠し、その苗字は天文十九年(1550)十月の野々宮合戦後に、小笠原長時が二木氏の居城中塔城に篭城したとき、重高らの忠節に対して「二木之名字被下」れたことに由来するとみえている。・・・いずれにしろ、貞明は、永享十二年(1440)の結城合戦に際し、小笠原政康に従い、その先陣を勤めたという。以後、二木氏一門は、小笠原氏に従って戦乱の時代を生き抜くことになる。』・・・この中のように、歴史的な矛盾があることも確かだが、二木家の存在自体は複数の書で担保されている。

中塔城
 
城名  : 中塔城、中洞山城、小室山城とも
城の種別: 山城、標高1250m、比高450m
築城時期: 不明(天文年間?)
築城者 : 小笠原氏(?)
主要城主: 小笠原氏、二木氏
遺構  : 曲輪、堀切
住所  : 長野県松本市梓川梓~安曇野市三郷小倉

長野の山城の中でも高所に位置し、安曇野一帯を治めていた豪族・西牧氏の本拠である北条城の詰の城として築城されたようである。西牧氏との関係は解明されていない。


歴史

戦乱のなかの二木氏


『天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の福与城を攻撃した。小笠原長時は妹婿の藤沢頼親を援けるため軍を発したが、戦かわず兵を退いている。天文十七年(1548)上田原において村上義清と晴信が戦い、晴信は大敗した。村上勢の大勝により村上・小笠原・仁科・藤沢の四家は連合して、下諏訪に討ち入った。・・・この諏訪討ち入りに際して、二木豊後守重高、弟の政久、同六郎宗末らの二木氏一門が従軍した。そして諏訪郡代板垣信形の館を囲み開城の交渉の時、仁科道外が戦線を離脱した。仁科氏が諏訪支配を目論んだのに対して、長時がその要求を拒んだことによるという。』・・・間もなく、晴信が甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田軍は塩尻に攻めて合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。この塩尻峠の合戦には、二木一族は弟政久、宗末らがいて長時軍に就いて武田軍を迎え撃ったが、合戦の大詰めになってから、この時は、二木一族は、武田晴信方に寝返り、長時敗戦の主因を作ったといわれる。・・・翌十八年晴信は村井に陣を布いた。一方、長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。この敗戦で、三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、二木一族、犬甘、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。・・・『天文十九年になって府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し安曇郡に入り、氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らが小笠原軍に参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県の自城が攻められることを恐れ、戦線離脱し川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。両軍は野々宮において会戦したが、この時は小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。

小笠原氏に節を尽くす


しかし、既に大勢は定まっていて、長時は勝運の見込みがないとして自害をしようとした。これをみて、二木重高は諌止して二木氏の中洞の小屋に逃れることを勧め、重高もそれに随った。以後晴信は中洞小屋に攻め寄せたが攻略しきれず、天文二十二年まで、二木一族は長時を守護して武田方の攻撃を防いだ。・・・その間武田氏の信濃攻略は着々と進み、伊那郡の諸武士のほとんどが武田氏に降り、国外に退去するものもあり、松尾、下条両家も長時を援軍できず、村上義清も川中島に去っていった。・・・長時は万策尽き、二木一族の守る中洞小屋を去って、越後の上杉家を頼ることに決した。二木氏一門は、長時の深志回復戦となった前述の野々宮合戦から、越後の上杉氏の許に流寓するまで、重高は一門を挙げて物心両面にわたる援助を長時にしたのである。・・・重高の嫡子は重吉で父と同じく豊後守を称した。天文十四年(1545)伊那郡に侵攻した武田晴信に対抗した藤沢頼親を援軍した小笠原長時に従って初陣を飾った。以後、父の重高とともに長時のために尽力したが、武田氏の府中制圧後は、晴信に許されて一族とともに二木郷に居住した。・・・天正十年(1582)織田信長によって武田氏が滅ぼされると、深志城再入部の本懐を抱いて西牧の金松寺に至った小笠原貞慶の許に、二木重高は子の重次、弟の盛正ら二木氏一門の者を引き連れて参向した。しかし、貞慶が深志城入城を果たさないままに上方へ退去したため、重吉はこの時深志城主となっていた木曽義昌に娘を人質に出してその被官となった。・・・信長が本能寺で横死すると、越後勢の後援を得て深志に入部していた小笠原貞種を、弟の盛正らと画策して攻略し、貞慶の深志復帰を実現に導いた。天正十一年(1583)、西牧氏を討滅した貞慶から西牧領の代官職に任命され、翌年貞慶による麻績城攻撃に際しては、松本城の留守を命じられた。麻績城攻略戦において、貞慶は麻績城主下枝氏を援けた上杉軍の前に大敗を喫して窮地に陥った。・・・松本城を守備していた重吉は貞慶を救うべく策をめぐらした。・・松本の市井人と近郷の農民数千を集め、用意した紙旗を持たせて援軍に見せかける奇略を弄した。・・これで、漸く貞慶を死地から脱出させることに成功したという。その後、重次は旗本足軽大将格に、天正十二年頃には千見城在番衆に、任命されたことが『岩岡家記』に記されている。

その後の二木氏


その後も、二木氏は小笠原氏に仕えて、二木豊後守、草間肥前守綱俊は、犬甘半左衛門久知と並んで、小笠原家の城代となり、三職も務めた。天正十八年(1590)貞慶の跡を継いだ秀政は下総古河三万石を賜り信濃国を離れた。このとき、秀政は安曇郡西牧の材木を伐り出し、新封地に搬送した。その奉行は二木氏が務めたことが記録に残されている。』

武田信玄の信濃併呑によって、いったんは滅亡の憂き目にあった小笠原氏は、当主長時が長尾景虎を頼って越後へ、ついで上方の三好氏を頼って亡命生活を続けていた。京都へ上る際、長時は二木一族に対し、信濃に残って小笠原家再興の種となってもらいたい、と託したのであった。この二木一族の活躍と忍従こそが、のちの近世大名小笠原氏を誕生せしめたといっても過言ではない。・・・戦国の世が終ってみれば、武田氏はわずかに旗本として家名が残ったきり。対するに小笠原氏は府中・松尾の二流ともに大名に列し、それなりに隆盛した。その運命をわけたものは何なのか。特に府中小笠原の存続には、この二木家の役割が大きく貢献する。


逸話・・・二木家と三村家


◆二木一族は大日方上総の口利きで、信玄から二木の地を安堵され、そこに還住していた。ところが猜疑心の強い信玄はこの一族に心を許さなかった。折しも小笠原時代から二木一族とは犬猿の仲だった洗馬の三村氏が事あるごとに信玄に讒言した。
「二木は小笠原長時を飛騨まで呼び寄せ、主家の再興をはかっております」
◆信玄は三村の讒言に激怒し、二木一族のおもだった者に対し、甲府へ出頭するよう命じた。疑いをかけられた二木一族は急遽、一族会議を催した。「甲府へ行けば必ず殺される。いっそ中塔城へ籠城し、一戦交えようではないか」と勇ましい意見を吐く者もあったが、二木重高はこれを制した。
重高「それでは一族の全滅は火を見るより明らかである。甲府へ出頭し、精一杯の申し開きをし、運を天にまかそうではないか」
◆結局、一族は重高の意見を採り、おもだった者たちが甲府へ出仕した。が、意外にも甲府では三村氏との対決の場が用意されていた。信玄は山県昌景に二木一族謀叛の真偽を、三村氏と二木氏の対決によって究明せよ、と命じていたのである。
◆宿敵三村氏との対決の場には重高が臨んだ。重高は「旧主長時の居所さえ知らないのに、どうして信濃へ引き入れることができようか」と潔白を主張した。信玄は物陰に隠れて訴訟のなりゆきを聞いていたが、結局、二木氏を断罪することは躊躇せざるを得なかった。二木一族は処刑を免れ、在所へ帰ることを許されたのであった。
◆ところが、二木氏を訴えた三村氏のほうが武田家への叛意を抱いていた。三村氏の拠る筑摩郡に叛乱が勃発した時、信玄は「重高に図られたか。張本人は二木一族に違いない」と口惜しがった。
◆一方、三村の乱に「これぞ、汚名返上の好機」と二木重高らは深志城へ赴き、武田家への忠節を示すため、入城して三村と戦いたい旨を城将馬場民部に伝えた。馬場も信玄同様二木を疑い、城へ入れることを拒んだ。
重高「ご覧のとおり、女子供を連れており申す。これは武田家へ差し出す証人でござる」
馬場「主命がないかぎり、むやみに城へ入れることはでき申さぬ」
重高「いたしかたない。入城の許しが出るまで野宿いたそう」
◆城外の馬出しで女子供を含む二木一族は一夜を明かしたと聞き、さすがの馬場も折れて、城へ入ることを許したのであった。信玄はその報告を聞いて、不思議そうな顔をしたという。おのれの判断力が、ついに人の至誠を見抜けなかったことへの忸怩たる思いが去来していたのだろうか。権謀をもって興った武田家は滅び、至誠を貫いた二木家は生き残る。だが、「小笠原家再興」の大命題のためには、憎き敵将信玄の信任をも勝ち取れ、という二木重高の至誠こそは最大の権謀と言えなくもない。
◆二木一族は武田家の信頼を勝ち得、その滅亡後も信濃で活動を続け、ついに小笠原家再興を実現させるのである。慶長十六年(1611)、小笠原秀政は二木寿斎に命じて、その苦闘の歴史を記録に残すように命じた。それに応えて成ったのが『二木家記』である。二木寿斎は重高の嫡男であった。

参照 松本の発祥・・・

四方赤良  ・・・四方赤良の余談集2 ・・・『其之 63』H17.12.1~H18.1.1

私こと小僧丸・・・小笠原貞慶のこと
天文14年(1545)私こと小僧丸は、大膳大夫信濃守 小笠原長時の3男として生まれました。林の御館(松本市)という山城の麓にある屋敷に暮らし、私には守護の息子として前途洋々の人生が待っていました。しかし、私が5歳の天文19年(1550)、父長時が宿敵 甲斐国の武田信玄に塩尻嶺の合戦で大破し、次々と城が落とされ、生まれ育った林の御館を離れることになりました。馬にゆられて梓川に沿った長い道中を進み、二木豊後守が籠もる中塔城(旧梓川村)に兄や叔父達と入りました。父はそこで武田信玄に徹底抗戦していましたが、それまで従っていた者達が次々と裏切り、無念から切腹しようとしましたが二木に止められ、剃髪して湖雲斎と名乗り、天文21年(1552)大晦日、中塔城を捨てて、北信濃の高梨殿を頼って草間(中野市)へ行きました。そもそも武田は小笠原家とは同族であるのに、何故これほど争わなければならないのでしょうか。「鎌倉の時代、逸見源太清光の2男武田信義と3男の小笠原遠光は兄弟。お互いに甲斐守護と信濃守護を朝廷から受け、累代別々にこれらの地を治めてきた。」と、父は常々口にしていました。・・・天文23年(1554)父は領土回復をあきらめず、弟の小笠原信定殿が武田と戦っている伊那郡の鈴岡城(飯田市)へ向かいました。私達は危険であると言われ、高梨殿を通じて上杉謙信殿の春日城下(上越市)で暮らすことになりました。上杉殿は私達のためにしきりに信濃へ出兵されて武田と戦い、母はいつも感謝の気持ちを忘れてはなりませんと私に言っていました。ある時、父のいる鈴岡が落ちたと知らせがありました。父は三河を経て伊勢国の外宮御師を務める榎倉武国殿という方に厄介になっているとの便りがあり、無事で安堵しました。・・・弘治元年(1555)父が同族である三好長慶という方を頼って、都で落ち着いたとの知らせがあり、私達も向かうことになりました。長慶殿は近畿一帯の覇者で、私達はその領土内の摂津国芥川城下(大阪府)で生活することになりました。父は100貫の領地をもらって、三好家や将軍足利義輝さまに弓馬の師範をしていました。・・・それから3年後の永禄元年(1558)、私は元服して名を小笠原喜三郎と改めました。時折、信濃において上杉殿と武田が激しく争っているとの話が耳に入ってきましたが、生まれ故郷に帰れる日はまだ遠そうでした。父はまだ諦めていないようでしたが、私はすっかり都の生活が気に入ってきました。そしてまもなく、父から秘伝の小笠原礼法を伝授され、私も公家や各地の武将との交流が増えてきました。そんな折、ご縁で日野大納言様の息女を嫁に迎えることになり、幸福に暮らしていました。しかし、都での生活が10年も経とうとした永禄7年(1564)、三好長慶殿が死亡し、我々は家臣であった松永久秀の下に置かれることになりました。彼は足利義輝さまを殺害したり、東大寺を焼くなどし、三好一党内は混乱していました。そのような中で、永禄11年(1568)昨今著しく勢力を広げてきた尾張国の織田信長という者が軍勢を率いて入京してきました。私は三好義継殿に従って桂川で初めての合戦に臨みましたが、叔父の小笠原信定殿が討ち死にするなどして破れ、芥川城も落ちました。母は織田方へ捕らえられ、私は父や叔父の貞種殿などと共に多聞山城(奈良県)に立て籠もりました。しかし、これ以上戦っても勝ち目はなく、三好義継殿や松永久秀殿も織田殿へ従ったので、我々も降伏しました。私は子も生まれ、妻の実家である日野殿とのご縁もあるので京都に留まり、父から伝授された礼法を織田の各将などへ師範していました。そんなこともあって、私は信長殿を通じて従5位下右近大夫という栄誉に叙位されました。・・・それから4年後の天正元年(1573)、武田信玄が死んだとの知らせが私と父のもとに届きました。このことに父がどれほど喜んだことか、父は思案の末、織田殿との縁を私に任せ、自身は深志を取りもどすために再び上杉謙信殿を頼って、越後へ向かいました。既に50も過ぎていたので、あちらで無理をしないかと心配でしたが、上杉殿は父を賓客として500貫もの領地を与えてくださいました。越後での父は、越中国や関東まで出かけて反武田の工作をし、私は織田殿が信濃へ出兵してくださるように嘆願し続けました。そんなかいもあって、天正3年(1575)三河の長篠で武田軍が織田殿に大破し、いよいよもって深志へ帰れる日が近づいてきたように感じられました。しかし織田殿はすぐには信濃へ出兵せず、ただ待つ日が続きました。・・・天正6年(1578)、上杉謙信殿が突然死亡しました。そして、その跡継ぎを巡って争いが起こり、宿敵武田の影響力が上杉家まで及んできたので、父は越後に居られなくなり、天正7年(1579)会津国の芦名盛氏殿を頼っていくことになったと知らせがきました。父は星味庵という場所で暮らしていましたが、しばらくすると私を都から呼び出しました。6年ぶりに父と再会しました。父は70近くになり、随分年をとったと感じました。父は私に家督を譲ると言い、400年続く小笠原家の家宝や旗印を与えられました。そして私は、名を小笠原貞慶と変えました。・・・天正10年(1582)3月、織田殿の軍がいよいよ信濃へ進軍しているとの急報が会津に届きました。かねて織田殿から「信濃へ出兵せよ」との催促があったので、私は父を会津に残し、さっそく譜代の者を引き連れて30年ぶりに信濃へ出陣しました。上杉と武田は同盟していたので、越後口からの入国は厳しく、飛騨国まで迂回してようやく安曇郡の金松寺へ入ることができました。しかし、既に武田家はことごとく滅び、深志一帯は織田軍に制圧されていました。さっそく上諏訪の法華寺に滞陣していた信長殿へご挨拶に出かけたのですが、何故かお目通りが叶わず、さらに深志は木曽義昌へ与えられたことを知って大変落胆しました。しかたなく妻と子がいる都へ戻り、父に合わす顔もないので酒びたりの生活をしていましたが、7月の夜都で騒ぎがあり、信長殿が本能寺で討れました。誰もがその後継を巡って大きな戦が起こると言っており、私はこの機会にかねてから懇意にしていた徳川家康殿を頼って三河へ行くことにしました。・・・岡崎城(愛知県)に着くと、信濃進出を狙う徳川殿は私を喜んで迎えてくれました。家来の石川数正殿へ私の世話を命じられ、「既に深志の木曽義昌は上杉軍(景勝)に攻撃されて逃げ去り、上杉軍に担ぎ上げられた叔父の小笠原貞種殿が治めている」と、話してくださいました。徳川殿の勧めもあって出兵の準備をしていると、有賀と平澤という者が、二木一族と征矢野の書状を持って私のところへやってきました。二木は私に「深志へ来て領地を回復してもらいたい」とのことで、ひとまず溝口・犬甘・平林など譜代の15人と共に伊那郡へ向かうことにしました。鈴岡城は武田によって破却されていたので、既に徳川殿に従っていた一族の下条頼安がいる吉岡城(下条村)へ入りました。すると伊那郡の旧家臣達が兵を引き連れて集まり始め、父と流浪の日々を送った箕輪の藤沢頼親も兵を率いて参陣してきました。私はこれらを引き連れて北上し、塩尻に布陣して小笠原の旗印を高々と掲げました。すると父の家来だった筑摩郡や安曇郡の者達が次々と集まってきました。彼等はみな上杉の傀儡となっていた貞種殿に不満を持ち、父の深志入りを待ち望んでいたとのことでした。そして兵も集まったので、いよいよ深志城の小笠原貞種殿と上杉軍を攻撃しました。城の抵抗は激しく、鉄砲で箕輪の者共が多く討死しましたが二の丸まで落とし、やがて私がいることを知った貞種殿が、総領家に反抗するわけにはいかないと、城を明け渡してくれました。・・・こうして7月18日念願の深志回復を果たすことができました。私は長い都生活において、これからの時代は商売がものをいう時代だと確信しました。武田が築いたこの深志城を中心に、富んだ城下町を整備することを決意しました。私はこれを記念して、家臣一同へ宣言をしました。「今後、深志を改めて松本と号す」

 




 
 


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