探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 山家氏

2014-02-15 23:55:29 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

    ・・・  諏訪神家一族は府中に反抗 ・・・

 ? 山家氏・の場合 ・・・

 

山家城だが、美ヶ原高原の山麓に位置する。今でも松本から美ヶ原温泉の脇を通り高原へのバスルートがある、その道の途中にある。

 

山家城の読み方だが、クイズで読み方を問うても、既に旧知でもなければ、正解者はいないだろう。山家城の読みの正解は、”やまべじょう”である。古くは、山家を”やんべ”と読んだのかも知れない。
城の頂付近は、美ヶ原高原で、地続きに霧ヶ峰に通じており、霧ヶ峰は諏訪神族の神領であり、神事の祭礼の地であった。また、城の東北方面に、三才山があり、ここも諏訪神族の”聖なる地”であった。山家氏は諏訪神族の一員であり、鎌倉期よりこの地方の地頭として居を構えていた。
そこへ、建武の新政で、軍功を上げた小笠原氏が守護として府中に乗り込んできたわけである。前北条と親戚付き合いをした諏訪神族と、その前北条を倒した幕府側は、当然仲良くやれるはずがない。府中小笠原と諏訪神族山家氏は、常に小競り合いがあり、後大きな衝突が数回あったと見て良い。この不安定さは初期の守護・小笠原の基盤を脆弱なものにしていた。

 

参考:山家氏の居城のあるところは、”やまべ”(=山家)の名前から、いつしか”山辺”と呼ばれるようになった。現在では、山麓の上の方を”入山辺”、麓の方を”里山辺”と呼ぶ。その時、誰も読めない”家=べ”を、”辺”に置き換えたのだろう。

 ・・山家城(中込城)跡・(転記)

 

山家城  やまべじょう/やんべじょう
別  名: 中入城
区  分: 山城
築 城 者: 山家氏
築 城 年: 鎌倉末期
主な城主: 諏訪神族山家氏(山家光政)、折野山家氏(折野昌治)
遺  構: 主郭、石垣、土塁、空堀
城  域: 南北約500m×東西約300m
長野県史跡: 山家城跡
住所:松本市入山辺8318

専門家に拠れば、鎌倉後期のこの石垣は、他に類を見ないという、”見事なもの”らしい。平城に、優美な城郭を戴く礎の石垣は、この後、約250年を待たないと出てこないらしい。


・・・山家城は、その遺構は非常に充実。信州を代表する山城。城址入口は徳運寺の東南300mほど、北に小道に、道路脇に山家城の案内板。そこ上に城の案内板。・・・山家城は別名中入城。鎌倉時代末期に構築。室町時代は山家氏が領していたが、 小笠原氏が守護として来た時に配下に加わった。小笠原氏本城の林城の支城。大規模な改修あり。山辺谷最深部、松本平東側の上田、佐久方面の出入り口の要害。信玄の侵攻で落城。

 

案内板・・・
鎌倉時代末に地頭の山家氏が築城したと伝えられる。
山家氏は、元弘元年(1331)に徳雲寺を創建した諏訪系の神為頼の子孫が山家氏を称した。
文明12年に小笠原氏にそむいたため、小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで山家氏は諏訪氏の支援を受けたがこの戦いで後諏訪山家氏は滅びている。その後、永正2年(1505)頃小笠原氏の同流である折野薩摩守昌治(折野山家氏)が播州から来てこの城にいたといわれている。天文19年武田信玄の府中侵攻のさい自落した。
この城は、遺構が大変見事に残っており秋葉神社のあるところが古く、主郭は東西約20メートル、南北約23メートルで周囲の土塁を取り巻く石垣は戦国時代末期の松本平の石垣技術の到達点を示している。この部分は天正10年以降に大きく改修されたと推察される。
長野県を代表する山城として県史跡に指定されている。
平成18年3月 ・・・長野県教育委員会 、・・・松本市教育委員会


 山家城の歴史・・・ 

戦国時代の松本を代表する豪族の山家氏。発祥は鎌倉時代からのようです。・・・鎌倉期、諏訪神氏系の山家氏が、この地の「山辺」の地頭と伝えられている。・・・山家氏は名字と地名を見ればわかるように、現在の松本市入山辺(いりやまべ)を根拠としていましたが、近くに住む小笠原氏とは仲が悪く、諏訪氏の一族の家です。
・・・文明七年(1475)、小笠原氏から本拠地を追われた山家光政は諏訪信満に太刀を送っています。この年5月、当時の山家城主山家光政が、小笠原長朝に攻められると、光政は諏訪大社の神長官であった守矢満実を頼った…との記述があります。【守矢満実書留】・・文明12年(1480)9月20日の条には『この日小笠原民部大輔(長朝)の敵として、仁科・西牧・山家同心なすの間、民部大輔、山家に寄せ懸け城櫓を責めらる。山家孫三郎討死なす。口惜しき次第なり』と記述されており、小笠原氏が山家城を攻めは明らかですが、この戦いで山家氏が損害を被りましたが、滅亡したとは思えません。永正2年(1505)、小笠原氏一族の折野薩摩守昌治が播州明石より移り、小笠原貞朝に属して山家城を守備し、山家氏を名乗ったようだ。
・・・山家氏は、信玄が攻めてくるといち早く小笠原氏から離反しました。天文17年(1548)7月19日の塩尻峠の合戦の際、山家氏は三村氏などと共に信玄に味方し、小笠原氏敗軍の原因の一端を作りました。・・・天文19年7月、信玄の軍が府中の小笠原氏を攻めた時には、本拠地の山家城も15日に自落しました。しかし結局信玄 に味方したようです。天文19年(1550) 七月、小笠原長時勢として折野山家氏は武田軍に挑んだものの自軍が劣勢と見て、武田方に身を翻し、武田方として永禄4年(1561)「川中島の戦い」で戦功を挙げている。天文23年正月20日、信玄は山家松寿斎に大村(松本市)の百貫文の所領を安堵します。武田の統治時代は、山家氏は武田家に協力して領地を拡大した模様です。
・・・天正10年(1582)武田氏滅亡後、小笠原貞慶は徳川家康に安曇・筑摩の旧領安堵を貰って林城などの改修を行ってます。この時小笠原氏を裏切った山家氏は、小笠原家から冷遇され、山家城は小笠原氏に接収されたようです。天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡で、戦国乱世の時代が終わり、山家城は廃城になったようです。 

鎌倉期から続いた、諏訪神族の山家氏は、北条残党・あるいは南北朝の南朝の豪族として、幕府側の府中小笠原家に抵抗を続けましたが、永正2年(1502)頃ついに滅亡しました。名跡を継いだのは、別の系流の幕府側折野山家氏です。ここからは府中小笠原の家臣となっています。府中小笠原の林城を防衛する山城の支城として機能し始めています。武田軍に侵攻された時は、ほとんど抵抗せずに武田軍の配下になっています。その武田家も滅亡して信長の時代を経て秀吉の時代になり、小笠原家の系流の長時の三男・貞慶が府中に復活します。小笠原氏を裏切った折野山家氏は、ここで滅亡します。

未完・・・

 

 



 





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