★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

春のものとてながめくらしつ

2018-10-18 23:42:36 | 文学


起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ

「起きもせず寝もせで」という状態は恋する男でなくとも身に覚えがあるであろうが、これは結構つらい。特に雨がしとしと降っているときなどは……、と思うのであるが、これは「伊勢物語」の第二段にある歌である。――昔、この第二段を読んだときには、作者は、歌から逆に設定までさかのぼって行ったのだろうと思った。鬱々とした男から雨の降る風景へ移り、「うち物語」った夜の情景にさかのぼり、人妻でもあるその女、その心の良さ、そこからみた彼女の容姿、更に女の住んでいるところは人が少ない西の京で――というのも、今の平安京にはまだ人家がまばらな頃で……、と言った具合に。

わたくしもその頃は思春期であったので、そんな世界が広がる感じを期待していたのであろうが、今思えば、広い都で雨音を聞きながら不眠に苦しむ男に同情させられ、周りはどうだっていいかな、とも思うのであった。

しのぶの乱れ限り知られず

2018-10-17 23:56:17 | 文学


確か予備校の時だと思うが、俵万智の『恋する伊勢物語』を名古屋の本屋でみつけて少しめくってみたところ、その躁的な何かに動揺した。大学は國文だったので、中古文学を愛する同級生達を沢山目撃したが、伊勢・源氏を好きな人たちは、宮澤賢治が好きな人たちともひと味違い、何か恐ろしい感じがするのであった。非常に素朴なとらえ方かもしれないが、萬葉集が好きな人たちとは話をする気が起きるのに、中古の人たちにはちょっと遠慮してしまう感じである。わたくしはずっとそれを「あさきゆめみし」的世界――つまり乙女チックな感性のせいだと思っていたのだが、どうも、中古文学好きと近代文学好きは同族嫌悪的な何かがある気が最近はするのであった。

今日は、病院で少々手術を受けたので、ベッドで『伊勢物語』の初段のことを思い浮かべていたのである。

初冠の男が奈良の春日に狩りに行った。そこで「いとなまめいたる女」を「かいまみ」することになる。俵万智は、ものすごい勢いで、「恋の必修科目よ!ラブレターはっ」みたいなことを書いていたと思うが、思うに――、古都できれいな姉妹を覗いちゃった、みたいなのは、わたくしが例えば高松の郊外の神社で「神仏習合の痕跡を見つけたぞやっほぃ」とかうきうきしているのに近いのではなかろうか。

思ほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地惑ひにけり

俵万智のいう「恋」も、確かに環境や風景の影響をうけるとはいえ、もっとくだらない理由が必ずくっついている。初冠の男だから、そんなことにも気づいていないのであろうか。と、そんなことはどうでもいいとしても、

春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず

初冠のくせにまったく上手いもんであるが、元の源融の歌(陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに)の方がさすがに恋の相手に対する押しつけがましさがすごい。これに比べると「すり衣しのぶの乱れ限り知られず」の若々しさというか、元気良さが際立つのであった。とはいえ、わたくしは、まだまだ垣間見におけるしつこさが足りないと思うのであった。近代のぞきと物の動揺と言えばツルゲーネフである。

――秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気に見える人の眼のごとくに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。[…]少女はブルブルと震えた。物音は罷まぬのみか、しだいに高まッて、近づいて、ついに思いきッた濶歩の音になると――少女は起きなおッた。何となく心おくれのした気色。ヒタと視詰めた眼ざしにおどおどしたところもあッた、心の焦られて堪えかねた気味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、にわかにハッと顔を赧らめて、我も仕合とおもい顔にニッコリ笑ッて、起ち上ろうとして、フトまた萎れて、蒼ざめて、どきまぎして、――先の男が傍に来て立ち留ってから、ようやくおずおず頭を擡げて、念ずるようにその顔を視詰めた。
 自分はなお物蔭に潜みながら、怪しと思う心にほだされて、その男の顔をツクヅク眺めたが、あからさまにいえば、あまり気には入らなかった。

――「あひびき」(ツルゲーネフ・二葉亭四迷)

確かに、こういう文章を読んでいると、伊勢の話者が「昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。」と締めくくっているので、なるほど近代の文弱たちは覗いているうちに、風景だか少女だか何が何だか分からなくなってしまったのだな、早く和歌でも作りゃ良かったのだと思えてくる。しかし、初冠の男も歌を送っただけで――あるいは創っただけで満足して帰った可能性も高いと思う。

ありたき事は、まことしき文の道

2018-10-16 23:10:14 | 文学


昨日『吉原徒然草』というのを少し読んだが、いまのところあまり面白くなってこないので、わたくしも普段からあまりふざけている場合ではないなと思って反省した。第百三十二段「まづしき者は財を持て」など、貧乏年寄りを馬鹿にしていていやだねえ、と思った。パロディの本性からして、案外説教くさくなるのも当然なのであるが、面白く説教するのはなかなかに難しいものである。

それはともかく、元の「徒然草」にしてからが、なんとも時々「うるせえ」といいたくなる。

ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ。

「手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ」とか、学生の飲み会サークルにいそうなキャラクターではないか。そろそろわたくしも真面目に勉強することにしよう……

汝が云ふ所実に愚かなり

2018-10-15 23:37:46 | 文学


最近は、思想を、世の中の「全体性」に対する、論者の感覚的な馴致の度合いと不可分な形で考える傾向が強くなっているような気がするが、――常識の問題として、それはロマン主義的に、いやナルシスティックになるものでもあろう。大衆やモノたちの味方のふりをしようとも、結局は「イイネ」ぐらいの認識に墜落しているものだ。本人はまだ孤立しているつもりでいるのだから笑わせる。

『宇治拾遺物語』の最終話は、よく知られているように「盗跖孔子に与ふる問答の事」というリアルな話である。

柳下恵は尊敬された人らしいけれども、弟は名の知られた盗跖という悪党であった。どうしようもないワルであったが、よくある一匹狼(その実、はぐれただけの狼)ではなく、何千人のもの仲間を引き連れていたという。孔子があるとき、兄貴に「どうしてやつをほおっておくのですか」と聞くと「だって、人の話なんかきかんでしょ、やつは」と答えた。人にウンと頷かせることに世界一の快感を覚えていた孔子は、「わたくしがやつを説得するぜ」と出かけていった。しかし、孔子は一生に一度の動揺を覚えながら逃げ帰ってくることになる。

孔子を出迎えた盗跖は

頭の髪は上ざまにして乱れたる事蓬の如し、目大きにして見廻転す、鼻を吹きいからかし牙を噛み髭をそらして居たり

であって、ほぼ人間ではなく人獣だった。このお方が

昔尭舜と申す二人の帝世に尊まれ給ひき、然れどもその子孫世に針さすばかりの所を領らず、また世に賢き人は伯夷叔齊なり、首陽山に臥せりて飢ゑ死にき、またそこの弟子に顔回といふ者ありき、賢く教へ奉りしかども不幸にして命短し、また同じき弟子にて子路といふ者ありき、衛の門にして殺されき、然かあれば賢き輩は遂に賢き事もなし、また悪しき事を好めど災ひ身に来らず、誉めらるるもの四五日に過ぎず、謗らるるものまた四五日に過ぎず、悪しき事も善き事も長く誉められ長く謗られず、然かれば我が好みに随ひて振舞ふべきなり、汝また木を折りて冠にし皮を持ちて衣とし世をおそり公におぢ奉るも二たび魯に遷され跡を衛にけづらる、など賢からぬ、汝が云ふ所実に愚かなり

と捲し立てたのだから迫力がある。この人獣、決してバカではなく、孔子に言い負かされるいつもの平凡な君主達より単純に学があったのではなかろうか。むかし一応勉強のために『論語』も読んでみたがよくわからないことも多かった。そもそも表面的な意味の分からない部分もあった。だから、上の挿話を読んで孔子の言っていることは所詮、君子向けの徳治主義のきれい事だった、といった判断をしたいわけではない。しかし、いつの世でも、上の人獣のようなせりふが勝利することも真理なのである。理念は常に負ける運命にある。いつも勝利するのはプロレタリアートでも資本家でも盗賊みたいなやつで、彼らには生命力と知性がある。そもそも孔子やキリストは煉瓦の焼き方や道路工事の方法を編み出しておらず(シランけど)、ため池を作りまくったお大師の方が「世の中の役に立」っていたわけである。かえって、思想は95%の世の中の生成を助けないかもしれない。しかし、あとの5%と、生成のあとの崩壊過程で破滅から人々を救うのが……思想で、あったらいいけどね……。思想はいつも破滅一歩手前で生命を得る。そうして、シンパを従えるとすぐに滅び、言葉だけが、次の機会を狙って、長い眠りにつく。

私は、生きていることが思想だとかいう境地には達したくないのである。どうせ間違っているような気がするからだ。いまは特に危険なご時世だ。大衆のことを忘れずにいようと試みているうちに自分がそもそも大衆であることを忘れてしまうような気がする。この場合、大衆を馬鹿と言い換えてみると異様に分かりやすい気がするにもかかわらず、そこは断然、大衆でなければならない。馬鹿は馬鹿という同定なんか簡単なことであるが、そこでの自己満足を避けるために大衆の概念は必要だったのである。

菅原神社を訪ねる(香川の神社183)

2018-10-14 22:42:10 | 神社仏閣


菅原神社は香西南町。宇佐神社の近く。神社名の石碑と金比羅燈籠(嘉永六年)とその後ろには……



社稷五大神。この形のものは初めて見た。香西のあたりも「社稷五大神」の名前を用いる圏内であろうか……?



鳥居は平成十七年のもので新しい。

  

牛さん。



注連石と拝殿。



本殿。



『香川県神社誌』には、「古今名所図会」の引用があった。

菅公土人平賀某に賜ふ所の神影を奉齋し、里人小祠を営みて崇敬せしが、後阿野、香川二郡の領主香西氏これを崇敬し、香西中島の南面に社殿を造営し神影を遷して累世厚く崇敬せりと云ふ。名勝図絵には、神影は平賀某に賜ふ所にして後中村天満宮に納め、その後神像をつくりて當社に納む。當所は顯然たる菅公の旧跡なれば村民の信仰厚しと云へり。中島の南面とは香西氏の天神廓の中にして、現今の字西打小字天神の地なり。


そういえば、香川県の菅原神社/天満宮の実態を考えたことがなかったな……



そうですか、と言いたげな牛さん。



香西氏の城が、近くの宇佐神社あたりにあったのであるが、天正十年の長宗我部の侵攻でこの神社あたりも激戦があったらしい。



境内社あり。

顔の見えない極楽往生

2018-10-13 23:38:22 | 文学


「仁戒上人往生の事」(『宇治拾遺物語』)は、極めて学識豊かな仁戒が俄に道心を起こして寺を去ろうとしたのであるが、あまりに優秀だったので、引き留められてしまうところから話は始まる。仁戒はなんとかして寺を去ろうと、女の所に通ったふりをしたりしてだめな修行者を演出するのであるが、そのあふれでるすごさに結局は尊敬されてしまうのであった。まったく、こんな人物になってみたいものである。われわれの大概は、偽悪だとかいって言い訳をしても、ホントの小物ぶりがかえって露わになってしまい、最近などは病気扱いにされかねない。そして、本当に病気だったりすることもあるからやっかいだ。

それはともかく、仁戒は、ある郡司に尊敬され、「ご臨終にお会いしたいです」と言われ「それは簡単です」と言ってのけた。ある日、郡司の家に仁戒がやってきた。部屋からは良い香りが漂っている。なかなか起きてこないので、部屋に行ってみると、往生していた。

暁香ばしかりつるは極楽の迎へなりけり、と思ひ合す、終りに逢ひ申さんと申ししかばここに来たり給ひてけるにこそ、と郡司泣く泣く葬送の事もとり沙汰しけるとなん

尊敬する人たちの率直さになんだか極楽の匂いまで感じられるが、――仁戒の何がすごかったのか結局よく分からない。死ぬときが分かるとか、そういうことがすごさの本質ではないことは明らかではないか。それにしても、優秀そうな人の自由を組織が奪ってしまうことはよくあることである。そして、その人が本当に優秀かどうかは、組織を飛び出したり道心を起こしたりすることとは関係がない。

そういえば、この僧はどのような人相をしていたのであろうか。本文からはそれはわからない。芥川龍之介のやったことは案外、説話にそんなあからさまな事象を付け加えていくことだったのかもしれない。確かに、観相学をはじめ、顔は近代ではやっかいな問題だ。このまえ、大山顕が自撮り写真批判に対して「優生学の匂いを感じてしまう」と言っていた。

わたくしは、自撮り写真には極楽往生の匂いがすると言いたい。

犬と詭弁

2018-10-12 23:39:16 | 文学


「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」(『宇治拾遺物語』)は、道長の犬が活躍する話である。道長が法成寺を建てて参っていると、彼の飼っていた白い犬が突然喚きだし、道長の着物の裾を引っ張ったりするので、何事かと安倍晴明を呼んだ。すると、道長を呪う物が地中に埋めてあるという。掘ってみるとやはりあった。清明が紙で白鷺を作って呪い主を探索させると、道摩法師の仕業と分かった。堀川左大臣顕光から頼まれたのだという。法師のせいではないということで彼は許され追放された。

顕光公は死後に悪霊となりて御堂殿辺へは祟を成されけり、悪霊左府、となづく云々、犬はいよいよ不便にせさせ給ひけるとなん

権力闘争に敗れた悪霊左府と犬が対比されているところがいかにも……。ちゃんと清明のライバルも追放され、犬野郎だけが重宝される。

ところで、久しぶりに荒木良造の『詭弁の研究』(1932)をめくっていたら、すごい呪いの言葉に出会った。妄語、小理屈、アイロニー、ファラシー、旋毛曲がり、贔屓の引き倒し、などの修辞に関する言葉に対して、「呪うべき此等の言葉よ、[…]汝等の存在は邪魔になる、今日を限りに旗を巻いて此の地を去れ!去れ!!」と書いてあるのである。この箇所は、香西秀信氏の本にも引用されていたように思うが、――とにかく詭弁を避けようとして正義の論理を心がけると、だいたいつまらないことになるのはある種の常識である。昔の左翼崩れとか、エビデンスおたくとかの人たちもそうであるが、彼らが歳をとってくると案外、論理や証拠の代わりに、名誉や金にその根拠を与えてしまうこともある。

比喩は確かにたちの悪い物があり、いまはそれが横行しているが、だからといってそれを批判する者が正しいとは限らないのが面白い。荒木も「一犬虚を吠ゆれば万犬実を伝ふ」を用いて、「国際連盟の満州に関する認識不足」を説明していた。荒木氏は論理によって間違えたのであろうか。わたくしはそうは思わない。呪い(感情)によって間違えているのである。道長は正しかったのかもしれない。

「闘いの真実」の上演

2018-10-11 23:40:27 | 映画


近くの映画館で「1987、ある闘いの真実」を観てきた。韓国映画である。

われわれは忘れがちであるが、韓国はついこの前まで軍政であって、民主化運動は軍事政権と戦わなくてはならなかった。学生時代、韓国人の知り合いには徴兵制度や、全斗煥時代の話を良く聞いたが、こちらは韓国の歴史を殆ど何も知らずにそれを聞いているのであまり実感がなかった。体感であるが、われわれ以降の世代の中国や韓国の歴史に対する無知はちょっとひどい。これでグローバリズムも何もあったもんじゃないし、まず戦争責任やらの問題を積み残している(というより、この問題はどこの国でも消える事は絶対にない。そういうもんなのである。)くせに、あまりに関係国の事を忘却しすぎなのである。これではさすがに現実的にまずいのではないか。

今回の映画は、1987年の民主化運動(というより革命的騒乱)を描いたもので、この前やってた光州事件のタクシーの運転手の主人公映画(題名忘却)の続編みたいに観ると面白いのでなかろうか。全斗煥時代の一人のソウル大生の拷問死が引き起こした運動が話の中心だが、当時韓国は完全な統制報道なので、拷問死が報道される事自体に大変な困難を伴うのである。だから、検死をした医者、手続きに執心する検事や、兄弟を学生運動でなくした看守、教会の神父や寺院の僧に至るまで、自分の権限を逆手にとったりしながら、徐々に世間に真実を流出させてゆく。面白いのは、彼らが殆ど法に触れずに自分の仕事をきちんとしながらぎりぎりのことをやっているということである。故に逆に権力の側は、不法な手法に手を染め続けるしかなくなって行く。日本ではおそらく、こんな権力の統制も効いていないが自分の仕事を厳格にやるわけでもないので、なんとなく不正がだらだらと社会全体を環流し続けていることになるわけだ。

この映画を締めているのは、反共部隊のリーダーである男(パク所長)である。彼は脱北者で、共産主義政権に家族を虐殺された過去を持つ鬼のような愛国者である。彼も彼の職責を完璧に果たす。日本の自称右がだめなのは、こういう雰囲気がみじんもないところだ。

韓国映画をそんなに観ているわけではないが、デモのシーンなどを描かせるとすごくいつもうまい。シーン自体もうまいが、そこに持って行く盛り上げ方がうまい。今回も――、最初は、パク所長とチェ検事の一騎打ちという感じで、ほとんど暗黒小説の趣である。実にマッチョで男臭く気取っているのである。民主化のリーダー(キム・ジョムナム)を守ろうとする男はださくても男気のあるタイプであるし、メディアの連中も一昔前の日本の新聞記者みたいな描かれ方で、「最高の絵を撮ってこい。撮るか死ぬかだ」みたいなノリなのだ。――確かにここまでは面白いけれども制度内での膠着状態が感じられる。しかしながら、中盤以降、八〇年代のファッションを身にまとった(ここは日本の流行と同じ感じだから妙なリアリティがあるが)大学生の男女が登場し、最後のトリガーをひくことになる訳である。女の子の方は、キム・ジョムナムに手紙を運搬したりと影では大活躍しているのであるが、運動に主体的に参加しているわけではなかった。しかし、男子学生が催涙弾で死んだ報道をみた女の子が悲しみのあまり走り続け、ついにデモ隊の中心に加わるところでクライマックスがくる。最後のデモのシーンは、まるでミュージカル映画「レ・ミゼラブル」の最後みたいでドラマチックすぎると思えた(と同時に、1987年の騒乱自らが何を見出しているのかが明らかである)が、いずれにせよ、最後の女の子の駆けてゆく感じがすごくデモの高揚感に非人間的なスピードと人間的な感情をあたえている。

と、かように解すると堅いのであるが、――あからさまに言えば、この女の子に、今売り出し中の「キム・テリ」というびっくりするほどの美少女を使っているので、あざとさを感じる暇もないっ

この映画は、ほぼ史実を描いているようなのだが、パンフレットの監督のインタビューによると、この事件にふれることはかなりタブー化されていたようだ。なぜだろう。日本では、最近1968ものみたいな本が寧ろ流行している気がするくらい、――やっぱり彼らは墓にまでもってくつもりはなかった、という感じであるが――。それはともかく、現実にはいろいろ語りにくい様々な事情があるのであろう。だから、この映画も当時の分析というよりも、現在の〈希望みたいなもの〉の表現なのだろうと思う。案外、日本と同様、真実を明らかにするということが民主主義の肝であることが忘れ去られ、表面の政治的対立のなかで情報操作に明け暮れるていたらくになっているのではなかろうか。そして、韓国も日本も、三十年、四十年前の動乱を再現する条件はいろいろな意味で失われつつある。むろん、韓国と日本の違いは大きいが、やはり似たところに困難があることも忘れるべきでないような気がするのであった。

特権的=魔往生

2018-10-10 23:21:27 | 文学


「念仏の僧魔往生の事」(『宇治拾遺物語』)は、魔往生という語感が何となく好きだったので、再読してみたが、ひでえ話であった。

美濃国の伊吹山にひたすら念仏を唱えていた聖がいたのだが、案の定というか、幸運というか、「明日来るぞよ」という声を聞いた。

やうやう閃くやうにするものあり、手を摩りて念仏申して見れば仏の御身より金色の光を放ちてさし入りたり、秋の月の雲間より顕はれ出でたるが如し、さまざまの花を降らし白毫の光聖の身を照らす、この時聖尻をさかさまになして拝み入る、数珠の緒も切れぬべし、観音蓮台を差し上げて聖の前により給ふに紫雲あつくたなびき聖匍ひ寄りて蓮台に乗りぬ、さて西の方へ去り給ひぬ

スピルバーグなら入念に撮影してくれそうな場面である。数日後、弟子達が山の方にいってみると、木の梢に聖が縛り付けられている。下ろそうとすると、「わたくしを殺そうとするひとがいる」と叫ぶ。しかたがないので、連れて帰ったが、正気に戻らず聖は死んだ。語り手は、天狗の仕業だ、と結論づけている。

で?とわたくしは思う。こう言う話にだまされて勉強を怠り、還相だかなんだか知らんが、自らを省みられなくなる人は多いわけである。現実に降りたつもりが大概降りるところは自分の過去の趣味であり、これは案外自己同一性を確かなものにするから、人と戦うのには便利なのである。世の中戦わなくてはならないことも多いし、若者たちは未熟である。腹も立ってくるわけであるが、――しかし、その前に考えるべき様々な問題を先人たちが膨大に書き残しており、それを参照しなくてはならない。その必要性を納得するには、結構時間がかかり、大学でも、みっちりソクラテス的な訓練をうけないとそこまではなかなかいかない。わたくしが、学生運動に対してちょっぴり疑問だったのは、本を読んで議論しただけでも何かが意味として納得されるわけでもないのに、のみならず、行動の意味の方に過剰に意識を傾けて果たして精神のバランスは大丈夫か、ということである。木に縛り付けられたのに気づかないほど幻想をみる境地に達してしまった僧は、勉強しすぎでこうなったのではなく、念仏という行動を重視したところが気に掛かる。バランスを崩してまで行う行為は意味を逸脱しないと存在出来ないのである。こういう人は、正義とか男の生き様を理由にしてコモンセンスというものを無意識に無視するしかないというかなりきつい当為に縛られることになる。

高校の時に、唐十郎の「特権的肉体論」を読んでいたら、石川淳の戯曲をけなしてて、「石川淳よ、山の手と縁を切れ。」とあった。わたくしは石川淳にかわって「うるせえな」と思った。今読むとどうか分からないが、当時もわたくしは、唐の文章の中に、木に縛られた肉体をみたと思う。

夢を盗んで出世の巻

2018-10-09 23:37:22 | 文学


「夢買ふ人の事」(『宇治拾遺物』)は、夢解の女のところに来た国主の長男の夢を、国司の息子が盗ってしまった話である。国主の長男は大臣になれる夢を見たらしく、それを女に語っていた。そこで、それを盗み見ていた国司の息子が

夢は取ると云ふ事のあるなり、この君の御夢我に取らせ給へ、国守は四年過ぬれば帰り上りぬ、我は国人なればいつもながらへてあらんずる上に郡司の子にてあれば我をこそ大事に思はめ

と言ったわけである。考えてみると、昨今の本当の奴隷的な人間であるならこんな事もいえないのであろうが、案外さらっと言ってのけた。これが重要だったに違いない。科学の世界でも、一回「できるぞ」ということを誰かが言うことが重要らしいが、文学でもよく「おれはすごいぞ」と言っているうちに大物になってしまったやつがいる。全く思い出せんが、誰かいるだろう。それはともかく、この郡司の息子は実際に、中国に派遣され、いっぱしの知識人となって大臣に出世した。最初の国主の息子は夢を盗まれたのでだめだった。たぶん夢が自然に湧いて出たみたいな感覚でいたために受け身だったのだ。それに比べて、盗人息子の方は、盗んだものを実現せねば格好がつかぬ。

いま学生が抱く夢とやらも、たぶん内発的な動機に頼っているからだめなのだ。誰かの動機を盗めば良いのである。考えてみたら、いま現実でもネットでもやたら威張り腐っているやつは大概誰かの動機を盗んだやつである。

亀と昆虫学者

2018-10-08 23:55:53 | 文学


「亀を買ひて放す事」(『宇治拾遺物語』)は、浦島太郎のような劇的な話ではない。亀を助けた人が酒池肉林を味わうわけでもなく、乙姫に会うわけでもないからである。あるとき、五十貫を持って宝を買いに行かされた息子が、途中で五匹の亀が船から首を出しているのをみたので、どうするのと聞いたら、殺して物を作るそうであった。で、頼み込んで五十貫で亀たちを買い、放してやったのである。そのあと、亀で五十貫を得た人は船がひっくり返って死んでしまった。息子が家に帰ってみると、親が

黒き衣きたる人同じやうなるが五人各十貫づつ持ちて来たりつる、これそなり

と言うのだった。

結局、五十貫が返ってきただけで、なんも儲けになってないじゃないかと思ったそこのあなた

GO TO HELL

わたくしが愛読している伊藤玉美氏の本では、この奇跡は、助けた本人ではなく、複数の人間に、――家族に見せる必要があったのであり、その奇跡の事実性こそが重要だったと書かれてあった。そうかもしれない。わたくしは、この話によって話者が読者の倫理を試しているように思えてならないが、過剰な反応かもしれない。

しかし、わたくしは、亀を売ってしまった男のことも一応考えてみる必要があると思うのである。もしかしたら、彼は亀を殺すつもりじゃなく、一緒に仲良く暮らすつもりの、淋しい男だったのかもしれない。五十貫で宝を買おうとするようなブルジョア?に今更得をさせなくても、亀をつかってどうにかしなければ生きられなかったこの男に幸福が訪れても良さそうなものだ。最大の失態は、亀たちに殺されると思われたことであろう。わたくしも昔、虫を捕まえるのが好きだったから、時々考えたものだが、わたくしが虫たちに危害を加えるつもりではないということをどうやって伝えたら良いのだろうという……

尾野真千子がでていたドラマで「十月十日の進化論」というのがあった。昆虫学者(というより古典的な博物学者)の尾野真千子が、大学を解雇され、酔った勢いで元恋人の子どもを妊娠してしまうが、なんだかんだあって、仲違いしていた友人、元恋人、母親と和解して、出産する話である。初めは孤立していた生物が進化によって世界が繋がり合っていることに気づく、みたいなことを認識した話になっていた。確かに、人間が個体ではなく群体によってアイデンティティを確立する生物であることは確かな気がするから、まあ昆虫学者をやめてしまったっぽい尾野真千子はもう人と対立ばっかりすることはないのであろうが……

だからといって、昔気質の昆虫学者(しかも女性)の研究を妨害した有象無象の輩達を、ドラマであるとはいえ、こんなに早く許してよいものか。虫より進化していると断じて認めんぞ、こんな人間たちは……と思ったのであるが、考えてみると、退化した方がよいと思ったのが人間なのであろう。テクノロジーを発達させてますます退化しようとしているところをみると、どうやらそれを「進化論」と呼んだ尾野真千子は間違っている。しかし彼女はさすが頭の良い学者なので気づいていた。最後に「私は前より弱くなった」と。頭を使い、家族を捨ててゆく人が、強くなろうとする人たちなのは当然なのである。人間社会は常に、彼らに弱くなれと誘っている。当然、それによって良いこともあれば、悪いこともある。

由なき事をも云ひてけるかな

2018-10-07 23:08:11 | 文学


「ある上達部中将の時召人に逢ふ事」(『宇治拾遺物語』)は、わりとのんきな話に見える。ある上達部が中将だったころ、捕縛された法師に会ったので、引っ立てる人に理由を聞いたら「主人を殺したやつです」と返されたので、「ああそれは酷い罪だな」と言った。そのとき法師は次のようだった。

此法師、あかき眼なる目のゆゝしくあしげなるして、にらみあげたり

わたくしはこういう箇所の筆致のいい加減でない物語が好きであるが、――それはともかく、この勢いに対して、中将は、「由なき事をも云ひてけるかな」と反省するまもなく、次に通りかかった、二番目の者にも「こりずまに問」うのであった。今度は本当に罪がなかったので、そのおかげで彼は許された。

大方この心ざまして人の悲しき目を見るに従ひて助け給ひける人にて初めの法師も、事善ろしくば乞ひ許さん、とて問給ひけるに罪の殊の外に重ければさ述給ひけるを法師は安からず思ひける

この話者が、このようなちょっと口が軽いおっちょこちょいな優しいタイプの運命を問題にしていることは明らかで、よくある道徳教育が見落としているのがだいたいこういうタイプなのだ。すべての場合、信念を持って正義を主張すれば良いというものではないし、ことさら道化のふりをして悪を追究すべきでもない。むしろ、逆恨みにめげないぼうっとした人も必要なのである。

この中将のような人はガードも甘く、月を眺めていたら、恩赦で釈放された法師に拉致され火あぶりになりそうになる。そこで、助けられた二番目の彼が登場し中将を救い出しハッピーエンドとなる。

この前、『日本文学』に載っていた大津雄一氏の「惚れさせない古典教育」という論文を読んだが、生徒が教材に惚れるなら惚れるでいずれ妙なところも見えてくるから問題ないような気がしないでもない。同じ号に載った和田博文氏の書評を瞥見していたら、「問いの形式」という言葉があったので、それは形式であろうかとしばらく考えたが、――いずれにせよ、教室で一番難しいのは人間的な問いをきちんと作る能力であって、それを間違うとろくな答えは出てこない。話し合っても沈思黙考しても同じことである。そして、それは案外教師自身の「由なき事をも云ひてけるかな」と思う発言のなかに隠れている、というのがわたくしの実感である。教師はその意味で自由でなければならない。

柳森神社を訪ねる2(東京の神社5-2)

2018-10-06 13:25:12 | 神社仏閣
境内は狭いのであるが、沢山の境内社を詰め込んでいて、全くもって東京みたいだと言へよう。



富士宮浅間神社――富士講関係。江戸初期にはもうこの神社の中にあったというが、案内板によると、明治の初期に何らかの理由で廃れたという。明治以降の神道による弾圧と関係があるのかわからないが、ともあれ、いまは復活している。富士講は言うまでもなく富士山に対する信仰なのであるが、われわれは子どものころからやたら山を作りたがる。何かそうすると安心するところがあるのであろう。わたくしは、山の狭間で育ったから、信仰も何もあれなのであるが……。江戸ではものすごい数の講があったと言われている。



明徳稲荷神社。



秋葉大神。うちの近くにもいましたね……



水神厳島大明神/江島大明神



金比羅宮。あらっ



狐の横に幸神社。



右の鳥居が有名な、福寿神祠(徳川桂昌院殿)。いわゆる「おたぬきさま」である。

 

狛犬や狐様のかわりに、形容しがたいおたぬき様の夫婦が居られる。ちょっと一部がでかすぎないであろうか。というような、小学生のようなコメントはさておき、ご懐妊の方が旦那の方を向いておらぬし、旦那の方は参拝客の方を向いてやる気満々である。まさに、この世の夫婦の1シーンを切り取ったと言ってよいであろう。



それはともかく、このお狸さんは、家光の側室で綱吉のお母さん・桂昌院が崇拝していた狸である。この人は、かなり身分の低い庶民の出であるという説があって、所謂「玉の輿」の起源と言われているが、どうせ、もともとは、嫉妬した誰かがでっち上げたお話であろう。知らんけど。源氏物語のあの人と同じで……。そして、そういう俗説に乗っかり、狸などを祀って玉の輿に乗ろうとする大奥の女中達のあれなことよ。とはいえ、こういうことで心を落ち着かせてないと現実は酷いのであった。そして残念なことに、われわれは、けっこういろいろな意味で狸や狐に似たような異性に簡単にひっかかり、幻影を抱いて生きてゆくのであった……。

それはともかく、この神社でかなう事は、以下の通りである。https://hisagawa.com/shrines/tokyo-chiyoda-ku/yanagimori/

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、出世開運、勝負運、金運、諸願成就、火防鎮守、玉の輿、安産

この神社だけですべてがかなう!いま思ったんだが、日本のコンビニに何が足りないかと言えば、神社である。

柳森神社を訪ねる1(東京の神社5-1)

2018-10-06 12:35:24 | 神社仏閣


つくばに行く前に、雨の秋葉原で柳森神社に行きました。上は神田川にかかる橋から眺めるその神社。





雨のせいもあるが、香川ではみられない異様な雰囲気である。この神社は、太田道灌が江戸城をつくるときに、城郭鬼門除けということで京都の伏見稲荷大明神を呼んできたのであるが、――柳も神田川一帯に沢山植えたので、柳森神社となったようである。というわけで、今も柳があるのであるが、雨の日は不気味である。「神田川」のカップルもこんな柳をみているから「あなたの優しさが怖かった」とか錯乱してしまったのであろう。



道路から眺める本殿。



鳥居は昭和五年。なぜかというと、関東大震災で一回灰燼に帰したのを復興したのが、昭和五年なのである。



鳥居があって、上に登るのではなく、河岸の方に降りてゆく神社なのである……所謂「下り宮」というやつである。



水鉢は元禄六年らしい……昔だなあ……



力石群。文化財。大正時代、飯田(神田川)徳三という力持ちがいて、その一派が使っていたという。いまでも、やたら重い物を持ちたがる人はいるものである。大概、本当は他の人が支えている。



拝殿。

 

狐さんは昭和六年。敗戦まであと一四年。