思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつゝも
ひじき藻を男が送ったときの歌で、「思ひあらば」というところが息せき切る感じで、ひじきにひっかけた恋の戯れという感じがする。確かに変な歌であり、――折口信夫が、「国語と民俗学」のなかで、謹慎の意味の「思ひ」と、葬式の時のご飯に混ぜる「ひじきおも」(鹿尾菜藻)と、雄略天皇の死後の魂を鎮めた「ひじきわけのおんな」を連想するものと捉えていた。そういうものが時間を経て、合理的に解釈されてくると、上の「伊勢物語」三段のような話になるのだと……。そのときの折口のせりふが、いつもの決めぜりふじみている。
有意識或は無意識に解釈して行つて、その時分の人の頭に合ふやうな、一種の合理化が行はれて、そこで発達が止つた。
折口の文章にはしばしばこの「合理」という言葉が出てきて、面食らう。いまは、こういうことを思い切って言う人よりも、作品にはそれ自体で力があるみたいなことを言う人が多くて、折口もびっくりの呪術師ぶりである。若者達も「イイネー」みたいな呪文をいつも唱えている。
それはともかく、折口の「我々の言葉と言ふものは、結局お蕎麦を拵へる時のつなぎみたいなものでせう。」というのは良いせりふだと思う。