★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

しのぶの乱れ限り知られず

2018-10-17 23:56:17 | 文学


確か予備校の時だと思うが、俵万智の『恋する伊勢物語』を名古屋の本屋でみつけて少しめくってみたところ、その躁的な何かに動揺した。大学は國文だったので、中古文学を愛する同級生達を沢山目撃したが、伊勢・源氏を好きな人たちは、宮澤賢治が好きな人たちともひと味違い、何か恐ろしい感じがするのであった。非常に素朴なとらえ方かもしれないが、萬葉集が好きな人たちとは話をする気が起きるのに、中古の人たちにはちょっと遠慮してしまう感じである。わたくしはずっとそれを「あさきゆめみし」的世界――つまり乙女チックな感性のせいだと思っていたのだが、どうも、中古文学好きと近代文学好きは同族嫌悪的な何かがある気が最近はするのであった。

今日は、病院で少々手術を受けたので、ベッドで『伊勢物語』の初段のことを思い浮かべていたのである。

初冠の男が奈良の春日に狩りに行った。そこで「いとなまめいたる女」を「かいまみ」することになる。俵万智は、ものすごい勢いで、「恋の必修科目よ!ラブレターはっ」みたいなことを書いていたと思うが、思うに――、古都できれいな姉妹を覗いちゃった、みたいなのは、わたくしが例えば高松の郊外の神社で「神仏習合の痕跡を見つけたぞやっほぃ」とかうきうきしているのに近いのではなかろうか。

思ほえずふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地惑ひにけり

俵万智のいう「恋」も、確かに環境や風景の影響をうけるとはいえ、もっとくだらない理由が必ずくっついている。初冠の男だから、そんなことにも気づいていないのであろうか。と、そんなことはどうでもいいとしても、

春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず

初冠のくせにまったく上手いもんであるが、元の源融の歌(陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに)の方がさすがに恋の相手に対する押しつけがましさがすごい。これに比べると「すり衣しのぶの乱れ限り知られず」の若々しさというか、元気良さが際立つのであった。とはいえ、わたくしは、まだまだ垣間見におけるしつこさが足りないと思うのであった。近代のぞきと物の動揺と言えばツルゲーネフである。

――秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧し気に見える人の眼のごとくに朗かに晴れた蒼空がのぞかれた。[…]少女はブルブルと震えた。物音は罷まぬのみか、しだいに高まッて、近づいて、ついに思いきッた濶歩の音になると――少女は起きなおッた。何となく心おくれのした気色。ヒタと視詰めた眼ざしにおどおどしたところもあッた、心の焦られて堪えかねた気味も見えた。しげみを漏れて男の姿がチラリ。少女はそなたを注視して、にわかにハッと顔を赧らめて、我も仕合とおもい顔にニッコリ笑ッて、起ち上ろうとして、フトまた萎れて、蒼ざめて、どきまぎして、――先の男が傍に来て立ち留ってから、ようやくおずおず頭を擡げて、念ずるようにその顔を視詰めた。
 自分はなお物蔭に潜みながら、怪しと思う心にほだされて、その男の顔をツクヅク眺めたが、あからさまにいえば、あまり気には入らなかった。

――「あひびき」(ツルゲーネフ・二葉亭四迷)

確かに、こういう文章を読んでいると、伊勢の話者が「昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。」と締めくくっているので、なるほど近代の文弱たちは覗いているうちに、風景だか少女だか何が何だか分からなくなってしまったのだな、早く和歌でも作りゃ良かったのだと思えてくる。しかし、初冠の男も歌を送っただけで――あるいは創っただけで満足して帰った可能性も高いと思う。


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