★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「否定の過程」に弱い者たちの群れ

2018-10-20 19:30:09 | 思想


『コギト』に書いている三浦常夫というのは、小高根太郎の筆名である。詩や小説、ヘルダーリンの翻訳などもやっていて、『コギト』グループの主戦力であったが、今日読んだのは、「お説教」(昭9・9)という文章で、小説かと思って読み始めたら、どうやら随筆?であった。

第一段落が恐ろしく長く、4ページ目でやっと第二段落に入ったが――、この不満をはき出すような文章は、保田與重郎への批判なのだ。あるとき保田が、「飯の問題の解決は人間の苦悩の大半どころではなくその苦悩のすべてを解決する」と主張したので、それに三浦は怒っていたのであった。

彼は餓えもかつえもせずに日に日に飯を食ひ糞をしてゐるのだから。没落しつゝある中産階級と云ふも全く文字どほり飯が食へなくなる社会的危機の到達すると云ふも、それにはまだ相当の年月はあるであろう、その日が実現するまではともかく彼は飯を食ひ糞をしてゆくであろう、彼の言葉に従へばその限り彼は何らの不安も感ぜぬであろう、


と言う具合である。三浦は、そのあと、ヘーゲルの「必然性を洞察することが自由である」といった認識をエンゲルスやマルクスがつかったことが重大な誤りであり、未来は可能性(ポシブルとプロバビリテ)あるのみだ、必然などというものはない。不安があるのは、「道徳の実践に耐えうるかどうかと云ふところ」の「形而上的不安」だ、あるいは道徳の不在だ、と述べている。

で、われわれの人間の底はもともと無なので、「新しき神をおろがみその神によって自らをだますべく覚悟すればよい」と言い、

「否定の過程が無限に未来の方向に向かつてすゝむところに人間の本質があるのである、この否定の過程なしには人間は人間ではあり得ないのである。この否定の無限性に耐えきれぬと嘆く物は人間たることを廃業すればよいであろう。人間を信じるか、人間を廃業するか、二つの一つである。これ以外に道はないのである。


確かに、今も自らの「否定の過程」を恐怖しそのくせ他人の否定には躍起になっている者達が、脅迫じみた行為に手を染めているわけであるが、だからといって、人間を廃業せよ、というのがちょいとあれである。三浦の言い分は、反映論や歴史の必然を振り回す連中への有効な批判のように一見みえるが、ヘーゲルの「必然性を洞察することこそが自由」というのは今も真理というか、本質的に道徳的であるとさえ思う。必然性を洞察することは、五か年計画とか2020年オリンピックを成功させようとかいう命令を自覚することではなく、自分を知ることである。だから、「新たな神をおろがみその神によって自らをだます」とか自分を奮い立たせている三浦の方が、いわば公式主義マルキストみたいなもんに近くなっているわけである。もっとも、近づいているだけで、確かにもっとものすごい公式主義者はいつもいるものであるのだが……。

居場所をくれとか、自分を褒めてほしい、みたいな人間は、自分を勝手に自由の如き空白と見なすが故に、必ず三浦のように、――必然性を説く者が自分を責めているように感じ、そこからの自由を夢みて却って不自由になろうとする、そして、必然性を説くような「自由」な人間を「廃業」させようとする。危険である。