★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「かへる浪かな」と自己表出

2018-10-26 23:18:09 | 文学


いとゞしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな

京にいづらくなって東下りをする昔男であるが、海岸でこの歌を詠んだ。わたくしが山の人間であるせいなのかどうもこの歌の気分が分からず、以前、――「かへる浪」をうらやましいと思うのは、かえるようでかえらない、寄せては返す優柔不断な浪に共感していたのかもしれないとは思った。昨日読んでみて思ったのだが、「いとゞしく過ぎ行く」というはやさからみれば、浪は相対的にかえってゆくように見えるのかもしれない。今度海岸を歩いてみることにしよう。それにしても「伊勢、尾張のあはひの海づら」とはどの辺であろう……

そういえば、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』というのは、近代文学の学徒にとってよりも、古典文学の方から見た方がいいような気がしてきている。吉本というのは、詩人というより歌人という感じの人ではなかろうか。もっというと、歌謡曲の詩人という感じか……

最近、授業などでも語り口の改革をやろうとしているのであるが、これは認識の変化に対するいかなる認識を以てのぞむかということに関わっている。たぶんその姿勢あたりに吉本の「自己表出」という概念に込めようとした、長い変化に対する認識のしんどさ――があるのであろう。確かに、実際に孤独ではなくとも、孤独を感じる姿勢である。なぜだか、こういう姿勢ではわれわれは防御を甘くし、批判を浴びつづけるような弱さを持つことになる。他人にとっての明晰さで自分を武装することができず、自分の行動と思考の経過にひたすら誠実であろうとするからである。

考えてみると、まだ吉本の活躍した時代は、上の弱さを強さと認識するような誠実さがあり得たような気がする。これから本当にそれが可能なのかわたくしは単純に迷っている。単純に、体が持つかどうか、と。