★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

亀と昆虫学者

2018-10-08 23:55:53 | 文学


「亀を買ひて放す事」(『宇治拾遺物語』)は、浦島太郎のような劇的な話ではない。亀を助けた人が酒池肉林を味わうわけでもなく、乙姫に会うわけでもないからである。あるとき、五十貫を持って宝を買いに行かされた息子が、途中で五匹の亀が船から首を出しているのをみたので、どうするのと聞いたら、殺して物を作るそうであった。で、頼み込んで五十貫で亀たちを買い、放してやったのである。そのあと、亀で五十貫を得た人は船がひっくり返って死んでしまった。息子が家に帰ってみると、親が

黒き衣きたる人同じやうなるが五人各十貫づつ持ちて来たりつる、これそなり

と言うのだった。

結局、五十貫が返ってきただけで、なんも儲けになってないじゃないかと思ったそこのあなた

GO TO HELL

わたくしが愛読している伊藤玉美氏の本では、この奇跡は、助けた本人ではなく、複数の人間に、――家族に見せる必要があったのであり、その奇跡の事実性こそが重要だったと書かれてあった。そうかもしれない。わたくしは、この話によって話者が読者の倫理を試しているように思えてならないが、過剰な反応かもしれない。

しかし、わたくしは、亀を売ってしまった男のことも一応考えてみる必要があると思うのである。もしかしたら、彼は亀を殺すつもりじゃなく、一緒に仲良く暮らすつもりの、淋しい男だったのかもしれない。五十貫で宝を買おうとするようなブルジョア?に今更得をさせなくても、亀をつかってどうにかしなければ生きられなかったこの男に幸福が訪れても良さそうなものだ。最大の失態は、亀たちに殺されると思われたことであろう。わたくしも昔、虫を捕まえるのが好きだったから、時々考えたものだが、わたくしが虫たちに危害を加えるつもりではないということをどうやって伝えたら良いのだろうという……

尾野真千子がでていたドラマで「十月十日の進化論」というのがあった。昆虫学者(というより古典的な博物学者)の尾野真千子が、大学を解雇され、酔った勢いで元恋人の子どもを妊娠してしまうが、なんだかんだあって、仲違いしていた友人、元恋人、母親と和解して、出産する話である。初めは孤立していた生物が進化によって世界が繋がり合っていることに気づく、みたいなことを認識した話になっていた。確かに、人間が個体ではなく群体によってアイデンティティを確立する生物であることは確かな気がするから、まあ昆虫学者をやめてしまったっぽい尾野真千子はもう人と対立ばっかりすることはないのであろうが……

だからといって、昔気質の昆虫学者(しかも女性)の研究を妨害した有象無象の輩達を、ドラマであるとはいえ、こんなに早く許してよいものか。虫より進化していると断じて認めんぞ、こんな人間たちは……と思ったのであるが、考えてみると、退化した方がよいと思ったのが人間なのであろう。テクノロジーを発達させてますます退化しようとしているところをみると、どうやらそれを「進化論」と呼んだ尾野真千子は間違っている。しかし彼女はさすが頭の良い学者なので気づいていた。最後に「私は前より弱くなった」と。頭を使い、家族を捨ててゆく人が、強くなろうとする人たちなのは当然なのである。人間社会は常に、彼らに弱くなれと誘っている。当然、それによって良いこともあれば、悪いこともある。