★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

わらはべの踏みあけたる

2018-10-23 23:30:49 | 文学


人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごどにうちも寝なゝむ


『伊勢物語』の五段の男は、女の元に通うのに、門から入れなかった。「みそかなる所」――忍ぶ場所だったからである。だから、「わらはべの踏みあけたるついひぢの崩れ」から入った。しかし、聞きつけたあるじが人を呼んで警備に当たらせてしまった。で、詠んだのが上の歌であった。女は心を病んでしまった。

読者は、最後に、この女は二条の后なので兄たちが見張りをつけたようでした、とあり――このスキャンダルな状況に気をとられてしまう。

わたくしは想像する――関守がそんな簡単に眠るはずがないのだが、それ以前に、築地をちゃんと修理した方がはやかったのではないかと。すなわち、わたくしには、築地を本能的に蹴り崩してしまう子ども達、それを利用してこそこそと忍んでゆく若い男と、それを阻んでしまった大人達の物語にも感じられたのであった。近代文学だったら、意味ありげに築地の泥の描写などしてしまうのかもしれない。

「うん、当らずと雖も遠からずだ」喬介が云った。「つまりひとつの空気反射だね。温度の相違などに依って空気の密度が局部的に変った場合、光線が彎曲して思いがけない異常な方向に物の像を見る事があるね。所謂ミラージュとか蜃気楼とかって奴さ。そいつの、これは小規模な奴なんだ。……今日は、あの惨劇の日と同じように特に暑い。そしてこの南向の新しい大きな石塀は、向いの空地からの反射熱や、石塀自身の長さ高さその他の細かい条件の綜合によって、ひどく熱せられ、この石塀に沿って空気の局部的な密度の変化を作る。するといま僕達の立っている位置から、あのポストの附近へ通ずる光線は、空中で反射し屈折しとてつもない彎曲をして、ひょっこり『石塀の奇蹟』が現れたんだ」そして喬介は郵便屋を顎で指して笑いながら、「……ふふ……見給え。規定された距離を無視して近付いた郵便屋さんは、もう双生児ではなくなって、恐らく先生も、いま僕達の体について見たに違いない不思議に対して、あんなに吃驚して立ってるじゃあないか。

――大阪圭吉「石塀幽霊」


あまり人間でないものに注目すると、恋などを忘れ、幽霊とか蜃気楼の方に引き寄せられてしまうから気をつけた方がいいかもしれない……