「念仏の僧魔往生の事」(『宇治拾遺物語』)は、魔往生という語感が何となく好きだったので、再読してみたが、ひでえ話であった。
美濃国の伊吹山にひたすら念仏を唱えていた聖がいたのだが、案の定というか、幸運というか、「明日来るぞよ」という声を聞いた。
やうやう閃くやうにするものあり、手を摩りて念仏申して見れば仏の御身より金色の光を放ちてさし入りたり、秋の月の雲間より顕はれ出でたるが如し、さまざまの花を降らし白毫の光聖の身を照らす、この時聖尻をさかさまになして拝み入る、数珠の緒も切れぬべし、観音蓮台を差し上げて聖の前により給ふに紫雲あつくたなびき聖匍ひ寄りて蓮台に乗りぬ、さて西の方へ去り給ひぬ
スピルバーグなら入念に撮影してくれそうな場面である。数日後、弟子達が山の方にいってみると、木の梢に聖が縛り付けられている。下ろそうとすると、「わたくしを殺そうとするひとがいる」と叫ぶ。しかたがないので、連れて帰ったが、正気に戻らず聖は死んだ。語り手は、天狗の仕業だ、と結論づけている。
で?とわたくしは思う。こう言う話にだまされて勉強を怠り、還相だかなんだか知らんが、自らを省みられなくなる人は多いわけである。現実に降りたつもりが大概降りるところは自分の過去の趣味であり、これは案外自己同一性を確かなものにするから、人と戦うのには便利なのである。世の中戦わなくてはならないことも多いし、若者たちは未熟である。腹も立ってくるわけであるが、――しかし、その前に考えるべき様々な問題を先人たちが膨大に書き残しており、それを参照しなくてはならない。その必要性を納得するには、結構時間がかかり、大学でも、みっちりソクラテス的な訓練をうけないとそこまではなかなかいかない。わたくしが、学生運動に対してちょっぴり疑問だったのは、本を読んで議論しただけでも何かが意味として納得されるわけでもないのに、のみならず、行動の意味の方に過剰に意識を傾けて果たして精神のバランスは大丈夫か、ということである。木に縛り付けられたのに気づかないほど幻想をみる境地に達してしまった僧は、勉強しすぎでこうなったのではなく、念仏という行動を重視したところが気に掛かる。バランスを崩してまで行う行為は意味を逸脱しないと存在出来ないのである。こういう人は、正義とか男の生き様を理由にしてコモンセンスというものを無意識に無視するしかないというかなりきつい当為に縛られることになる。
高校の時に、唐十郎の「特権的肉体論」を読んでいたら、石川淳の戯曲をけなしてて、「石川淳よ、山の手と縁を切れ。」とあった。わたくしは石川淳にかわって「うるせえな」と思った。今読むとどうか分からないが、当時もわたくしは、唐の文章の中に、木に縛られた肉体をみたと思う。