「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」(『宇治拾遺物語』)は、道長の犬が活躍する話である。道長が法成寺を建てて参っていると、彼の飼っていた白い犬が突然喚きだし、道長の着物の裾を引っ張ったりするので、何事かと安倍晴明を呼んだ。すると、道長を呪う物が地中に埋めてあるという。掘ってみるとやはりあった。清明が紙で白鷺を作って呪い主を探索させると、道摩法師の仕業と分かった。堀川左大臣顕光から頼まれたのだという。法師のせいではないということで彼は許され追放された。
顕光公は死後に悪霊となりて御堂殿辺へは祟を成されけり、悪霊左府、となづく云々、犬はいよいよ不便にせさせ給ひけるとなん
権力闘争に敗れた悪霊左府と犬が対比されているところがいかにも……。ちゃんと清明のライバルも追放され、犬野郎だけが重宝される。
ところで、久しぶりに荒木良造の『詭弁の研究』(1932)をめくっていたら、すごい呪いの言葉に出会った。妄語、小理屈、アイロニー、ファラシー、旋毛曲がり、贔屓の引き倒し、などの修辞に関する言葉に対して、「呪うべき此等の言葉よ、[…]汝等の存在は邪魔になる、今日を限りに旗を巻いて此の地を去れ!去れ!!」と書いてあるのである。この箇所は、香西秀信氏の本にも引用されていたように思うが、――とにかく詭弁を避けようとして正義の論理を心がけると、だいたいつまらないことになるのはある種の常識である。昔の左翼崩れとか、エビデンスおたくとかの人たちもそうであるが、彼らが歳をとってくると案外、論理や証拠の代わりに、名誉や金にその根拠を与えてしまうこともある。
比喩は確かにたちの悪い物があり、いまはそれが横行しているが、だからといってそれを批判する者が正しいとは限らないのが面白い。荒木も「一犬虚を吠ゆれば万犬実を伝ふ」を用いて、「国際連盟の満州に関する認識不足」を説明していた。荒木氏は論理によって間違えたのであろうか。わたくしはそうは思わない。呪い(感情)によって間違えているのである。道長は正しかったのかもしれない。