「本意にはあらで、心ざし深かりける人、行き訪ひける」の部分は解釈が難しいと言われているが、とにかく女は手の届かぬ所に行ってしまった。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
『伊勢物語』だと、この歌の前には「またの年の睦月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に月の傾くまで臥せりて、去年を思ひ出でて詠める。」とあるが、ちょっと説明過剰な気がした。というのも『古今集』では、「月のかたぶくまであばらなる板敷にふせりてよめる」とだけあるからである。
すごく巧妙な歌であるようにおもうのであるが、――春を二回言っているのに月は一回であり……、身も二回言っているのに、今は「もとの」「ひとつ」の身しかないということと、今見えている月に対して「月やあらぬ」、という悲痛な感じとがよく重なり合っているように思う。
歌の勉強はほとんどしたことがないから、これから少しずつやるつもりである。上は、仮名序に取りあげられている有名な歌である。業平の歌は「その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の色なくて匂い残れるがごとし」と評されている。わたくしは別に「ことばたらず」だと思わないのであるが、それはともかく、われわれのその「匂い」を評しようする欲望はやっかいである。わたくしは『伊勢物語』の語り手がそれに成功したとはいえないとおもった。