信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ
わたくしは、小さい頃から山を眺めるのが好きで、やることがなくなったら沢山見に行きたいと思っているのであるが、伊勢物語の昔男は、浅間を見ても煙を噂話のそれとしか認識しないという、まったくすべての意識が恋に向かってしまうどうしようもない御仁であった。浅間の煙を見て、「をちこち人の見やはとがめぬ」とか、あんたの恋は浅間山の噴火に比べりゃ線香みたいなものではないか、誰も咎めんわっ
とはいっても、失恋したりしたときなど、R・シュラウスの「アルプス交響曲」なんてのは何のあれにもならず、マーラーのけったくそ長い交響曲第三番の方がよほど慰めになる。この曲はどうもアルプスの描写みたいなところから始まるのであるが、延々自然か何かを描きながら、最後は愛の賛歌みたいな緩徐楽章を盛り上げていく。人の心というもののあまりにも勝手な振る舞いをマーラーは分かっていた。ただし、羞恥心もなく、こんな曲が書けるのだから、奥さんにも愛想を尽かされるわけである。
昔男も、その歌の壮大さからしてそんな心の爆発だけすごい人だったのかもしれない。しかし、――この歌をよんだ人が浅間を見たことがあるのか分からないけれども、浅間山というのは結構アブジェクションの趣がある山でもあって、――こっちに気持ちが投影されているんだとしたら、わたくしは昔男に同情したいと思う。