★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

由なき事をも云ひてけるかな

2018-10-07 23:08:11 | 文学


「ある上達部中将の時召人に逢ふ事」(『宇治拾遺物語』)は、わりとのんきな話に見える。ある上達部が中将だったころ、捕縛された法師に会ったので、引っ立てる人に理由を聞いたら「主人を殺したやつです」と返されたので、「ああそれは酷い罪だな」と言った。そのとき法師は次のようだった。

此法師、あかき眼なる目のゆゝしくあしげなるして、にらみあげたり

わたくしはこういう箇所の筆致のいい加減でない物語が好きであるが、――それはともかく、この勢いに対して、中将は、「由なき事をも云ひてけるかな」と反省するまもなく、次に通りかかった、二番目の者にも「こりずまに問」うのであった。今度は本当に罪がなかったので、そのおかげで彼は許された。

大方この心ざまして人の悲しき目を見るに従ひて助け給ひける人にて初めの法師も、事善ろしくば乞ひ許さん、とて問給ひけるに罪の殊の外に重ければさ述給ひけるを法師は安からず思ひける

この話者が、このようなちょっと口が軽いおっちょこちょいな優しいタイプの運命を問題にしていることは明らかで、よくある道徳教育が見落としているのがだいたいこういうタイプなのだ。すべての場合、信念を持って正義を主張すれば良いというものではないし、ことさら道化のふりをして悪を追究すべきでもない。むしろ、逆恨みにめげないぼうっとした人も必要なのである。

この中将のような人はガードも甘く、月を眺めていたら、恩赦で釈放された法師に拉致され火あぶりになりそうになる。そこで、助けられた二番目の彼が登場し中将を救い出しハッピーエンドとなる。

この前、『日本文学』に載っていた大津雄一氏の「惚れさせない古典教育」という論文を読んだが、生徒が教材に惚れるなら惚れるでいずれ妙なところも見えてくるから問題ないような気がしないでもない。同じ号に載った和田博文氏の書評を瞥見していたら、「問いの形式」という言葉があったので、それは形式であろうかとしばらく考えたが、――いずれにせよ、教室で一番難しいのは人間的な問いをきちんと作る能力であって、それを間違うとろくな答えは出てこない。話し合っても沈思黙考しても同じことである。そして、それは案外教師自身の「由なき事をも云ひてけるかな」と思う発言のなかに隠れている、というのがわたくしの実感である。教師はその意味で自由でなければならない。


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