《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

スターリン主義的党物神化論といかに闘うのか

2015-11-11 19:51:00 | 『革共同政治局の敗北』の感想、批判
スターリン主義的党物神化論といかに闘うのか
――『革共同政治局の敗北』を読んで
2015年11月8日
福原 銀之助

※【 】内は管理者の註

私の体験としての「革共同政治局の敗北」

 この本を読んだ感想がブログ「《試練》-現在史研究のために」において、多くの人からある種の好意的な視点を背景に述べられている。それは、内容的・自己切開的に不十分とはいえ、著者らの事実関係を元にした真摯な思想的・政治的格闘と、自己批判的な立場性を鮮明化する努力が見られるからだと思う。

 まず、冒頭に確認すべきことだが、私はこの本の評価は歴史が証明すると思っている。
 また、私自身についていえば80年代後半から展開された三度に亘る「一大カンパ運動(今回は預金の利子から段階的に必ず金を返却する、という言質の元に)」の完全な破たんによってダメージを受けたという問題がある。これについて返却不履行を問い糺すと、対権力との関係を口実に「告訴すれば反革命だ」という、卑劣な居直りに直面し、もはや革共同は革命党ではなく「詐欺集団」であることを深く認識をしたのである。
 当時三里塚決戦から天皇決戦という革共同の歴史上かつてない日帝との政治的対決があった。したがって、闘争資金も必要だろう。だからと言って、ペテンにかけることでこの問題から逃げることはできない。この問題は公然化されず、今では「なかったこと」にされている。しかし、党員やシンパの中には経済的破産をした者や、周辺の人間関係が破壊された者が少なからず存在している。さらにサラ金に追われ蒸発した者もいる。この「一大カンパ運動」を三回実施して、借りたほうが勝手に帳消しにすることを、ある幹部クラスの党員は「三大徳政令」と自嘲気味に開き直った。断じて許すわけにはいかない。

 さらに、私は91年5月テーゼを読んで「これは革共同の六全協だ」と深く認識をした(似たような意味合いは著者らも本書でも触れている)。これは66年第三回大会で確認された党是である「革命の現実性」からの逃亡であり、労働者階級人民の暴力を国家権力打倒に向けて組織する闘いからの武装解除であり、革共同の革命的立場性を一切清算し、革共同が有していた左翼性の政治的・思想的な最終的な解体であるということだと思った。
 また、5月テーゼ以降展開された「俺鉄2」読書・学習運動【中野洋著『俺たちは鉄路に生きる2――動労千葉の歴史と教訓』(03年9月刊】の学習運動】を中野による革共同私党化運動であると認識した。そこから見ていくと7・7自己批判の反故、反差別運動からの召還などの一連の反動的衰退は当然の帰結である。
 これらのことにより私は革共同と完全に絶縁した。しかし、私がオルグをした者が中央派に残っており個人的に相談などには乗っている。あの06年3・14Ⅱも翌日にはほぼ正確な事実関係を知ることができたし、水谷さん吊るし上げ党内忠誠運動の、言うなれば革共同版紅衛兵運動も知ることができた。これらのことは、ドキュメントとして本書でも縷々述べられているが、よくぞ自らの恥をさらけ出したものである。

反スターリン主義と乖離、相反した革共同

 さて、この本のことについて以下述べる。基本的には掘り下げが不足している感は否めないが、竜奇兵さんの意見「著者への手紙:さらば革共同! わが青春と人生の全て」と同じである。
 問題は、小嶋清一郎さんの意見【「著者への便り:反スターリン主義の組織論が求められている」2015年6月17日】である。小嶋さんは、新たなスターリン主義とのたたかいと問題を立てられている。そして、「反スターリン主義とは、共産主義運動内部の反革命的疎外体と闘って打ち破らなければならない、滅ぼさなければならない思想だ、ということを本書を読んで痛感しました。日共スターリン主義を打倒するということ、一国社会主義の反動性をつかみ乗り越えていくことと同時に、反スターリン主義の党の内部における官僚的統制、全一的統制、こうした組織のありかたと闘わなければならない、ということです。それこそレーニンが敗北した課題であり、引き継いで深化させねばならないテーマだったのではないでしょうか。つまりわれわれの反スターリン主義のとらえ方が外在的課題すぎたのではないでしょうか」と述べられている。
 この指摘は極めて重大である。反スターリン主義の党であるはずの革共同が、党の運営において「日共ですらここまで行っている」とか、「日共の党運営に学べ」という言葉を発するのを私は聞いてきた。その時は日共を乗り越えるための運動だ、と聞き流してきた。だが、このことは、要は「スターリン主義に学べ」ということだ。

 だが、反スターリン主義の運動とは党の綱領、革命の戦略ということ以外にもっと本質的な思想的・運動的な課題がある。
 本書でも随所に「今日の革共同の惨状、堕落、階級闘争の敵対物化がある。旧政治局内左派が負っている責任はきわめて大きく、重い。このことを、筆者らは厳しい自戒を込めて提起せざるをえない(222頁)」という意味合いの言葉が繰り返し、あるいは言い方を変えて述べられている。さらに、第11章第4節の中で「組織論における反スターリン主義の不徹底」として項を立てて問題提起をしている。そこでは、シモーヌ・ヴェイユの闘いを下敷きにして、反スターリン主義運動の党組織・運動論が述べられている。そこには、なぜ清水丈夫が40年以上に亘り議長の席に座り、独裁的に党を「指導」していたのか、という党運営・党組織現実論的な問題が横たわっている。これを無批判的に許してきた政治局の責任は重く、重大である。
 また、清水長期政権故にモラルハザードが進行し、ブルジョア的腐敗・堕落が指導部から末端まで発生し、それに《蓋をすること》でさらに病理は拡大してきた。
また、現実世界で日々苦闘するプロレタリア人民と無縁な《党内権力闘争》が、清水長期政権の下で「路線闘争」という形で行われてきたことの階級的犯罪性も重大である。
 それらの意味からしても、筆者らが述べているように革共同は自浄能力もなく「死んだ」のだ。「革共同は組織自浄力ゼロである」(第5章 党内リンチ事件の根拠と構造 221頁)。
 要するに、革共同は反スターリン主義から完全に乖離し、反スターリン主義に相反する存在に成り果ててしまったのである。  

 このことについては、筆者らも「今だから言える」党批判である、としている。そこに到着するには筆者らの約10年かかる自己批判的格闘・苦闘の痕跡が本書から読み取れる。そして、それは単なる告発・自己批判に留めてはいけない。そこから何を掴みとるのか、反スターリン主義的組織運動論とは何か、という問いに答えを提示する必要がある。また、より本源的には「スターリン主義的党物神化論」との闘いが必要であるということだ。

 そして、このことは反スターリン主義運動の今日的な再生と復権を戦取することである。
 現在、日共は右翼スターリン主義のなれの果てとなり、愛国運動に人民を駆り立てる存在になった。また、左翼的立場を保持するグループも、「内ゲバ・連赤・爆弾」というブルジョア的プロパガンダが若い世代に浸透し、その繰り返される反動的なステレオタイプの縛りから抜け出せないでいる。だが、対カクマル戦は回避できない戦争であり、これを「内ゲバ」として矮小化はできない。連赤問題は本書第11章 第3節で述べられている通り「外在化」すべき問題ではない。これは、反スターリン主義的組織運動論として今後の党の在り方の反省的材料にすべきである。爆弾闘争それ自体も政治性を持った闘争として位置づければ否定はできないどころか、前向きに捉えるべきであろう。

革命党の不在は深刻、どう突破するか

 いずれにしても、60年代から70年代の闘争は「中断・頓挫」はしていない。動員数の減少や闘いの鈍磨こそあれ80年代の三里塚決戦、反核運動、90年代の天皇決戦とイラク反戦運動、2000年代の貧困・格差、非組織労働者の組織化の闘い、沖縄闘争の拡大と深化、経産省前テントひろばの闘いなどとして継続されている。問題は、革共同が5月テーゼ以降この戦線からずり落ちてきていることだ。闘う者たちが共有できる正鵠を射た理論、明確な路線がどこからも提示されていないことだ。その意味で、われわれ自身がブルジョア的プロパガンダの縛りに毒されているとも言える。

 さらに、革共同的位置から現実世界を見てはいけない。革共同が現実世界から大きく離反していることは本書でも明らかである。実際に現実世界から離反して非合法的立場を作り上げ、そこの《自由な空間》で遊んでいる議長清水の立場からしても革共同の今日の腐敗と惨状は当然の帰結である(「第8章 本多内乱・内戦論の改ざん」322頁)。

 今、安倍政権が日米軍事同盟をもって帝国主義戦争に乗り出し、国内では極右が平然とヘイトスピーチ、暴力的排外主義運動の展開を行う。教育の反動化は進行し、人民監視体制も成立している。この切迫した歴史的時代に革命党の不在はプロレタリア人民にとり決定的な後退状況である。しかし、60年代、70年代の闘争を闘いぬいた仲間が年老いたとは言え不抜の決意で決起し、それに続く若い層や、反動的労組指導部の制動を粉砕して立ち上がる労働者の存在、そして何よりも国際主義の原点である7・7自己批判を踏まえてわれわれに警鐘と連帯を提起する在日の仲間の存在にわれわれは鼓舞され、決然として断乎立ち上がらねばならない。

 本書で提起された総括をより深く行い、今の歴史的転換期を革命的に戦取する闘いのバネに本書を位置づけたい。
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