《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち(他1本)

2015-11-26 21:54:56 | 書評:『革共同政治局の敗北』
ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち(他1本)
赤松 正雄(元公明党衆院議員)
2015年6月17日
ブログ:赤松正雄の「忙中本あり」から転載
http://makamatsu.com/book/archives/565

 先日、高校時代の友が出版した本の広告を朝日新聞の一面記事下で発見した。水谷保孝 岸宏一共著『革共同政治局の敗北』なるものだ。副題は、「あるいは中核派の崩壊」とある。革命的共産主義者同盟全国委員会、略して革共同と云われても私には良く分からない。中核派と云われて、ああ、あの過激な新左翼学生運動の集団か、というぐらいしか知識がない。水谷保孝(敬称は略す)は兵庫県立長田高校で同期だった。卒業後、彼は早稲田大学へ。同大学時代に、学費・学館ストライキで無期停学処分になったまま中退し、のちに佐世保エンタプライズ闘争で米軍基地に突入して逮捕されるなど、学生運動でならした男だ。こう書くと読まれる方は、彼がかなりの闘争的猛者だと思われるに違いない。二十歳のころから今に至るまで一貫してこうした運動に関わってきているのだから、それは当然だろう。しかし、その印象たるや、ひげを蓄えているところを除けば、高校時代と変わらぬ優しそうな雰囲気であった

▼60歳になっていわゆるプロの革命家の道から足を洗い、普通の人間社会に立ち戻ったという噂を数年前に聞いた。驚きと好奇心で直ぐに連絡先を探し、少し経って出会ったものである。非合法的な活動をした結果、逮捕・起訴され下獄の憂き目に合うなど、警察から追われ続け、いわゆる地下に潜った生活を約40年もしていた。そういう彼とは真逆に、私は革命すべき対象を、第一義的には社会におかず、人間そのものにおいた。同じ歳月を必死に生きてきた私には、彼の40年は想像を絶するだけに大いに興味深かった。だが、その身にまとっているはずの闘争歴はリアルさを欠いていた。以後、同窓会のたぐいで会っても、ひたすら淡々としていた。やがてすべては遠い過去のこととなり、本人も周りの同期生たちもまとめて忘却の彼方に流れ去るものと思わざるを得なかった。そこへこの本の登場である。少なからず衝撃を受けた。直ちに彼に電話をして「読むよ」って言ったら、「そうか」と喜びの響きを滲ませながらも「ドキュメントだから」と言葉少なかった

▼正直言って読むに堪えない本である。全部で446頁なのだが、そのうち緒言と序章、最後の第11章「”革共同の敗北”から新しい道へ」の70頁ほどしかきちっとは読んでいない。あとは飛ばし読みだ。リンチ、粛清の顛末ばかりに付き合う暇は持ち合わせていない。組織内抗争のいいわけやら攻撃に終始している。要するに普通の読者を想定していないのである。冒頭に本書執筆の動機と目的についてこうある。「(革共同いわゆる中核派)の分裂と転落の歴史および実相の切開であ」り、これは「筆者らにとって肺腑をえぐられるほどつらい」し、左翼運動に関心を持つ多くの読者にとっても「暗く、重く、失望の念を禁じ得ない」幾多の出来事を書くことになる、と

▼1945年に生まれ、1968年という世界学生運動の文字通りピークの年に、青春のただなかにいたものとして、関心はないわけではなかった。しかし、もうとっくの昔に左翼運動には失望し、呆れ果てたというのが本当のところだ。であるがゆえに、水谷が沈黙を破って普通の人間としての生の声をこの本に書いているものと期待した。つまり、なぜ自分たちが左翼革命運動に挺身し、夢破れたかを赤裸々に明らかにすることを。だが、ここには彼らの主たる敵である革マル(一般にはこう略称するはずだと思うが、本書にはカクマルとあり、その正式名称も触れられていない)への徹底した糾弾の声のみが際立つ。カクマルは「世界史的にも類例のない『現代のナチス』と呼ぶべき存在」だ、と口を極めて罵ることの連続なのだ。鎮魂の書ではなく、新たな告発の書なのである

▼そんな中に、かろうじてまともに読めるくだりがあった。「今日の21世紀時代にあって延命に延命を重ねてきた現代資本主義が世界史的には何度目かの危機に陥り、またしても歴史的終焉の限界状況をあらわにして」おり、「世界各地で『反テロ』『自衛権行使』の名による侵略戦争、民族排外主義、領土拡張主義が火を噴き、無差別虐殺がたえない恐るべき世界戦争の世紀となっている」という基本的な世界認識を述べているところだ。確かにそういう見方もできよう。だからこそ、若き日に”打倒資本主義”の道に入り、50年を経て今に至るまでの壮大な闘いの跡を知りたい。だが、そのまなざしは違うところに向いているとしか思えない。組織内部における憎しみの連鎖的対応といったことしか迫ってこないのだ。尤も、最後のあとがきで水谷なりの意匠を凝らした感情の発露をくみ取れた。「革共同は筆者らの愚かな破産と敗北を含めて、もう死んだのだ。弔旗もいらない。葬送の歌もいらない。ただ、インターナショナルな共産主義的解放を求める一人ひとりの人間がいればいい」と。自らの死に至る病のありようをさらけだした今、水谷は原点に回帰したということなのだろう。「本書では詳述しないが」とか「詳しくは別のかたちで考察したいが」といった記述が気になる。要するにこの本で過去を彼なりに総括し、革共同からの離党のいきさつを述べた後、これからひとりの共産主義者として文筆活動を含め、新たな闘いに入るということに違いない。つまりはプロの組織的革命家からは手を抜いたが、一人の革命家としてこれからは生きるとの宣言だ。革命家の道からすっかり足を洗ったという風に思い込んでしまったわが身の勝手さと浅薄さに恥じ入る。水谷の穏やかなたたずまいとこの本の奇妙な激しさとの落差を思うにつけ、人間というものは見た眼だけで判断すると見誤るという平凡な結論を得るに至った。次なる作品にこそ人間・水谷の生の声を期待したい。(2015・6・17)

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戦後左翼たちを虜にした『資本論』の今風読み方
赤松 正雄
2015年7月5日
ブログ:「赤松正雄の忙中本あり」から転載
http://makamatsu.com/book/archives/598

 長く生きていると不思議なことに出くわす。かつて大学時代にマルクスの『資本論』を読むかどうか悩んだ末に、手にはしたものの殆どわからないで放置した。それが50年ほど前。その後、共産主義国家ソ連の崩壊とともに、「やっぱりね」と『資本論』を捨てた自身のかつての選択に自信を深めた。それが20年ほど前のこと。で、それもつかの間、今再びの『資本論』の季節の到来なのだから。尤もその登場の仕方は、共産主義、その柔らかな姿形としての社会主義の復活としてではなく、資本主義のなんたるかを分かるためのものとして、である。つまりは、かつては資本主義と決別するための座右の書であった(そういう活用の仕方が喧伝されていた)ものが、今は資本主義を再発見するためのものとしての地位を獲得しつつあるかのように見える。そういうことをあらためて自覚させてくれたのが佐藤優『いま生きる「資本論」』であり、佐藤優・池上彰『希望の資本論』だ

▼この二人は今の現代世界に起こっていることを何でも見事に解説して見せ、それぞれの分野の専門家と対談し、そしてまたそれらの所産を本に表すということをやって見せている双璧に違いない。かたや外務省、かたやNHKで禄を食んだご両人だが、双方の出身母体からは、やっかみとくやしさ半分で、評価する向きが少ないと見える(私の友人たちだけかも)のは、この世のありようを感じさせて面白い。佐藤さんはどちらかといえば男性や大人の向学心の強い向き、池上さんは女性や若者の物知り好きの連中に好まれている節がある。それなりに棲み分けしているようでいてこれがまた面白い。『資本論』ものでいうと、池上さんには『高校生から分かる「資本論」』なるものがあるが、私なんかにはクセがある佐藤ものが好みだ。『いま生きる「資本論」』は、売る側の宣伝コピーによると、「人生を楽にする白熱&抱腹絶倒講座」というのだが、あながち過剰広告ではない。例えばこういうところだ。マルクスは、働き手に専門性がない場合は、「いくら人間としていい人であっても、代替可能な商品として扱われる」。だから、今の世では、「いかに資本主義システムの中で、そんな扱いを受けずに済むか」という指南書を書けば、よく売れる。経済評論家の勝間和代さんが「コモディティになるな、スペシャリストになれ」といい、「資本家」になれとはいっていない。「熟練労働者」という代替できない存在になれ、といってるのは、そういうことなんだ、と。続けて、尤も、彼女の自己啓発本は難しくて、なかなかその通りには実践できない。それに比べて佐藤が書いた『人に強くなる極意』は全部自分で実践したことしか書いていない、と。ちゃっかり自己宣伝も忘れていないのだから、抱腹とまではいかないまでもかなり笑える

▼佐藤、池上の対談本の方もまるで”知的漫談”の趣すら漂う。いちいちは挙げないが私として嵌ってしまったのは、第六章「私と資本論」のくだり。とりわけ、革マルと中核派の内ゲバの実態や、既成左翼政党との佐藤氏自身の距離感を描いて見せているところなど興味深い。「革マル派の場合は、ベースは一応宇野経済学や梯明秀の経済哲学ということになっていました。中核派はどちらかというと、理論よりも、日本の任侠団体の歴史などと合わせて見たほうがいい」とあったのは門外漢の私としては意外だった。以前に私のブログ『忙中本あり』で『革共同政治局の敗北』を取り上げた(「ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち」)が、あの本の著者の一人・水谷保孝はとても任侠道とは縁遠いと表面上にせよ見える男だからだ

▼先日、佐藤優さんの崇拝者でもある柏倉義美氏(彼は元早大革マル。今は創価学会地区部長という変わり種。なかなかの知識人)が偶々書店で川上徹『戦後左翼たちの誕生と衰亡』(同時代社)を見つけ、その中に水谷保孝氏が載っていると知らせてくれた。去年の一月に出版されたもので、10人の新旧左翼活動家へのインタビュー構成なのだが、こんな本の存在は知らなかった。水谷は教えてくれなかったのだから、まったく水臭い。「次なる作品にこそ人間・水谷の生の声を期待したい」などと私が先のブログに書いたのに。彼は「(早稲田大の)雄弁会で初めての左翼の姿、ナマノ姿を見」て、「左翼って傲慢だなあ」と思いながらも「あらゆる権威に対する生きた批判精神を見た気がし」て、自分のそれまで育ってきた文化との違いを感じたと述べている。「あらためてマルクスを読まなければいけないな」と思ったというのだ。「60年安保闘争の敗北をのりこえる、戦後民主主義を打破する、社会党・共産党に代わる党をつくる、これがキーワードだった」とも。彼は本多延嘉という先輩活動家の影響を強く受け、その後の人生を決定づける。そして槇けい子(旧性)という左翼活動家と出会い、結婚する。彼女はたった一人の女性としてインタビューに答えているが、夫・水谷保孝がインタビューされると知って、自分も、と名乗り出たという。このあたり夫婦の妙なる関係を表していて、私には水谷らしいと思えた。ともあれ、初めて戦後左翼の生の声を聞けて、とりあえずは満足している。(2015・7・5)

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