『
ことのなりゆきはこんな具合だった。
我々は5人か6人だった。
私は一番年上でみんなの先生であったが、
それ以上に仲間であり、友達だった。
彼ら少年たちは燃えやすい心と楽しい空想とを持ち、
我々に好奇心をそそり、知識欲にかりたてる、
あの人生の春の潮に満ち満ちていた。
一同はあのことこのことを語り合いながら小径を歩いていくと、
道ばたに生えた草ニワトコやサンザシの花の上では、
もう金ハナムグリが強い匂いに酔いしれていた。
我々はレ・ザングルの砂土の高台に、
聖タマコガネがもう姿を見せて、
古代のエジプト人が地球の像とした、
糞の団子を転がしているかどうか見に行くところであった。
また我々が調べようとしていたのは、
丘のふもとの小川では、敷きつめたような浮き草の下に、
珊瑚の小枝に似たエラのある、若いイモリが隠れていないか、
小川の華奢な小魚のトゲ魚は、
藍と緋の婚礼の首飾りをもうつけたかどうか、
・・・・略・・・・
いや、まあこのくらいにしておこう。
要するに、単純で素朴で、生き物と一緒に暮らすことに、
心の底から喜びを感ずる我々は、
春の生命の目醒めという楽しい饗宴のうちに、
朝の幾時間を過ごそうと出かけたのだ。 』
「ファーブル昆虫記」 (岩波書店刊)より。
この冒頭の一節を読むと、友達と遊んだ小学生の頃を思い出す。
私たちも多摩川に出かけていくとき、道草を食いながら歩く途中、
途中で見つける生きものたちに心を躍らせていた。
いつも同じ家の、海中にさらしたような小さな穴が沢山空いた木の
門柱には、きまったようにトカゲが日向ぼっこしていた。 ガイシと
呼ばれていた、大量のレンガが散乱した、崩れた工場の廃屋の周りの
水溜りには、小エビが素早く動いている。
今日は何がいるかな ・・・・ 私たちはそれらを見つけることを
期待しながら多摩川に向かって歩いていった。 子どもたちは生きものを、
その姿のむこうにある、小さな命を見つめる眼差しで見ていたように思う。
形之医学・しんそう療方 東京小石川
http://www.shinso-tokyo-koisikawa.com/
[ 警告]当ブログ内に掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します。すべての文章は日本の著作権及び国際条約によって保護を受けています。Copyright shinso koisikawa. All rights reserved. Never reproduce or replicate without written permission.