Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

4年ぶり

2006年01月21日 02時57分09秒 | 音楽
一週間前に配信されていた記事ですが、昨晩気づきました。

小沢健二、4年ぶりのニュー・アルバムを発表
               bounce.com2006-01-13 掲載
 小沢健二がニュー・アルバムを3月8日にリリースする。タイトル等
詳細未定。オリジナル・アルバムとしては前作『Eclectic』以来4年
ぶりとなる本作は、全8曲収録予定で、なんと全曲ヴォーカルレスの
作品とのこと。音のみの表現で、小沢健二がどんな世界を見せて
くれるのか? 期待が高まります。


何てったって、小沢健二ですから、現時点では何とも言えませんが、
こうやって情報が流れて来るだけでも嬉しいことです。
ヴォーカルレスというと「球体の奏でる音楽」を思い起こしますが、
今回はどんな音楽で来るのかな?
でも差し当たっては、今月発売の『子どもと昔話』の小説のほうが
楽しみです。ん? まさか、「うさぎっ!」のイメージアルバム?


翌日開票

2006年01月20日 23時37分45秒 | 時事・社会
しばらく平和学習レポで通すつもりでしたが、時事ネタは鮮度も
大事なので、ちょっと中断して最近気になった話題を。

横浜市長選の翌日開票 費用対効果めぐり波紋
                        (2006.1.14 東京新聞)
 3月12日告示、26日投票の横浜市長選が翌日開票と決定された
ことに、波紋が広がっている。竹中平蔵総務相は13日の記者会見
で、「可能な限り即日開票が望ましい」と指摘。松沢知事も既に
「財政論を超えた速報の重要性を含め考えるべきだった」と批判し
ている。一方、市は3200万円の経費削減になるとし、中田市長は
市選管の判断を評価している。選挙結果を速やかに明らかにする
ことは民主主義の基本だが、半日の遅れと3200万円の経費削減
の重さをどうみるか。決定後もさまざまな意見が飛び交っている。
                              (金杉 貴雄)
 市選管事務局によると、昨年11月の会議で「26日投開票」と
いったん決定。しかし、12月の会議で翌日開票を検討することに
なり、今月10日の会議で変更を決めた。だが選管の会議は公開
されておらず、急に決まったため、その後さまざまな意見が出て
いる。
 総務省は、統一地方選では各自治体に可能な限り即日開票を
行うように通知している。選挙部管理課は、「横浜市長選のように
統一選をはずれた選挙では特に通知はしていないが、即日開票が
望ましい」としている。
 公選法上は「選挙結果を速やかに知らせるように努めなければ
ならない」と定めた上で、開票を「投票の当日またはその翌日に
行う」としており問題はない。だが、同課は法の規定を「投票終了後
できるだけ早く開票を始めるということ。『翌日』とあるのは、地域が
広かったり人手が足りなかったりするなど、やむを得ない場合を
想定してのこと」と説明する。
 ただし、総務省の通知にかかわらず、統一選では東京都内の
九区長選が翌日に開票している。統一選以外でも葛飾区や八王子
市が実施。いずれも横浜市同様、経費削減が狙いとみられている。
 2000年、04年の市長選で翌日開票とした八王子市選管は「市民
からはいいとも悪いとも反響はない」と淡々と語る。同市の経費削減
額は500万円。「費用対効果で半日早く知らせることと、この経費
削減のどちらを取るかの問題」。ただ2回とも接戦ではなかったといい、
「選挙が白熱すれば『早く知らせるべきだ』という声が寄せられるかも
しれない」とも話している。
 横浜では市議から「財政を考えればやむを得ない」との意見の一方、
「できていることを後退させるのはおかしい。選挙は民主主義の根幹
で、経費削減は他の工夫でやるべきだ」との批判も上がっている。
市長選には中田市長をはじめまだ誰も正式に出馬表明をしていない
が、「市長が翌日開票を評価したのは、勝敗が気になる選挙にはなら
ないのではという“余裕”では」と深読みをしてみせる市議もいた。
 翌日開票では、投票箱が区ごとの開票所に集められ、警備員に
守られて一晩過ごす。費用は計80万円。開票は午前9時から始まり、
午前中に終了する。市職員2800人が開票にあたり、平日の通常業務
をやりくりして集められるという。
 選挙制度に詳しい日大の田中宗孝(むねたか)教授は、「いち早く
知りたいか、いくらかの経費削減の方がよいかは人により考えが違う。
基本的に自治体の判断だ」と指摘。「ただ、多数の職員が通常業務
からはずれることができるのは、普段から職員が余っているということ
なのか。実際に市民サービスが低下しないのかどうかは気になる」と
している。


この問題、注意して考えないといけません。メディアは早く結果を報道
したい側ですから、自分たちに都合のよい論理を立てている可能性が
あります。特に新聞の場合、翌日開票になると、結果を載せれるのは
翌日の夕刊か翌々日の朝刊になり、テレビに大きく遅れを取るわけ
ですから、なおさらです。
メディアが商業主義に陥った結果、調査報道が減ってスクープ合戦に
走るようになって久しい中、私たちも速報性が重要であるかのように
錯覚しているかも知れません。一寸立ち止まって考え直すには良い
機会ではないでしょうか。
「知る権利」はもちろん大事ですが、私たちが知るべきことは選挙結果
の他にもたくさんあります。それが正しく適切に伝えられているかを
問うこと無しに、この問題だけの是非を論じても無意味でしょう。
例えば行政は、住民からの情報公開請求に全て即日回答をしている
わけではありません。「選挙結果は民意の表れ」と言っても、喫緊の
課題に対する住民投票ではないのですから、速さが最優先にされる
必然性にはつながりません。むしろ時間をかけて結果を冷静に分析
することこそ、ジャーナリズムに求められることではないのでしょうか。
一方で国民に痛みを強いる「改革」を次々に推し進めて(メディアも
それにエールを送って国民を煽って)おいて、こういう時だけ国民の
「権利」まで持ち出して既成のルールを守ろうとするのは、姑息な
気もします。そもそも国が、投票率アップを図るために投票時間を
延長したのが、この問題の根っこにあるわけですし。
国が即日開票にこだわるのは、公務員削減の切り札であり、新たな
公共事業の素でもある電子投票システムの導入を実現したいという
思惑があるから、とも推測できます。
日大の田中教授の指摘は、なかなか痛快ですね。職員が余ってるの
なら、職員を減らすことが一番の経費削減なわけですから。しかし、
世間で言われるほど公務員が多すぎるとは私は思いません。行政が
できること、すべきことはまだまだたくさんあるはずです。人員が適正
に配分されていない、というのはありますけどね。
そうだ、開票作業に自衛隊を派遣するってのはどうでしょう?

広島移動学座レポート その3

2006年01月19日 23時44分15秒 | 学座
いよいよ今回の平和学習の目玉企画です。
旧中国軍管区司令部地下通信室に入りました。
ここは通常は鍵が掛かっていて入れませんが、平和学習目的の
団体であれば、広島市に申請して見学することができます。



司令部をはじめ、広島城内にあった軍の施設は全滅しましたが、
防空作戦室として空襲に耐えられるよう厚いコンクリートで固め
られていたこの地下壕は、何とか残りました。とはいえ、爆風は
壕内にも吹き込み、人も通信機器も吹き飛ばしました。
通信業務に携わっていた女学生が奇跡的に助かり、かろうじて
残っていた軍事専用電話で福岡の西部軍管区司令部と福山の
連隊に、原爆第一報を伝えたとされています。
現在は間取りを示したプレートがあるだけで、壕の中には何も
ありません。
市街地から少し離れていることもありますが、中にいると外の音
は一切聞こえてきません。ここで皆で祈り、M師が語る聖書から
のメッセージを聞きました。



ここで働いていたのは、比治山高等女学校の生徒たちでした。
原爆投下時は大本営の前で朝礼の最中で、当直で壕内にいた
数名を除き、52名の生徒全員が死亡しています。
壕の隣に、慰霊碑が建てられています。



そして、すぐそばには戦後移って来た護国神社が・・・。

広島移動学座レポート その2

2006年01月17日 23時40分47秒 | 学座
事前学習の参加者は4人。夜8時から2時間の予定が、30分ほど
オーバーしてしまいました。しばしば脱線しつつ、和気あいあいと
話が弾み、ギリギリまで準備に追われていた私も少し安心。



2日目は朝9時にホテルを出発しました。
紙屋町の地下街で、この日だけ参加の人達と合流して、いよいよ
見学へ。
広島城方面へと歩いていって、まずはひろしま美術館の裏手へ。
ここに、明治天皇の飲み水を汲んだ、井戸があるのです。
日清戦争当時、広島にはまだ水道が整備されていませんでした。
「水の都」広島も元は海だった所ですから、井戸を掘っても塩水が
出ることも多く、天皇のために城内の井戸が確保されたのです。
現在は城南通りの南側歩道に位置します。なんと歩道の真ん中
に、竹垣で囲われて残っています。普通なら移設するでしょうに。




この碑が建てられたのは1932(昭和7)年、建てたのは野砲兵
第五連隊です。満州事変の翌年、という状況を考えれば、その
意図するところは自ずと明らかでしょう。

それからお堀に沿って、城の東側へ。どこもそうですが、広島城
の堀も、残っているのは内堀です。外堀は北は城北通り、南は
相生通り、東は今の白島通りより1本西側の道路です。明治に
なって埋め立てが始まり、1912(大正元)年、南と東が電車通り
となりました。
さて、城の東側の、でっかい鳥居やRCC中国放送の南側に、
歩兵第十一連隊の門柱と碑が建っています。この碑文を読むと、
広島の部隊も近代日本のあらゆる戦争に参加していたことが
わかります。ちなみにこれは、1994年のアジア大会を前にして、
戦争賛美の色を消すため文章を改めたのだそうです。見れなくて
残念な気持ちと、改められてよかった気持ちが入り混じり、複雑
な気分ですが、それでも十分「平和学習」の教材にはなります。



近くにはなぜか、池田勇人の銅像もありました。
ご年配の参加者から、「貧乏人は麦を食え」は彼の言葉だと
教えて頂きました。

広島移動学座レポート その1

2006年01月16日 16時39分01秒 | 学座
平和学習の第1日目は、遠方から泊りがけで参加された方たち
で、ホテルのロビーで事前学習を行いました。
広島の近現代史を短くまとめた文章を読み合わせながら、自由に
意見交換をしました。
以下、少々長くなりますが、その文章を全文転載します。

Ⅰ.「廣島」 城下町から軍都へ
中国地方を制した戦国武将毛利元就の孫・輝元が、大田川の中洲に城を築き、城下町を形成したのが、「廣島」のはじまりです。「デルタの街」と言われますが、城より南の市街地の多くは、干拓や埋め立てによって造られた土地です。
関が原の戦いで破れた毛利氏は長州に移され、代わって城主となった福島正則も、城の無断改修の咎めを受けて信濃に移され、以後明治時代まで浅野氏の居城となりました。
明治に入り、初代広島県令となった千田貞暁は、県の産業発展のためには大型船が接岸できる港湾の整備が必要と考え、宇品地区の大規模干拓・築港を断行します。地元住民の猛反発(江戸時代に日本有数の産地であった広島の海苔養殖業は、これによって消滅します)、度重なるトラブルや資金難の末、1889年に完成。多額の私財まで投じた千田は工事の遅延と計画の疎漏の責任を負わされ、竣工を待たずに新潟県知事に転任させられました。
当時の広島は農業をはじめ、地元経済が不振を極めていました。元々平野が少なく大規模産業が発展しづらかった広島県は、戦前、海外移住者が日本一多い県でした。宇品港の利用もほとんどなく「無用の長物」との批判が高まっていました。
しかし1894年、山陽鉄道が広島まで開通し、同じ年に日清戦争が勃発。陸軍は兵員輸送の拠点として広島・宇品港を活用することを決めます。広島駅と宇品港を結ぶ軍事鉄道・宇品線がわずか17日の突貫工事で通され、日本中から集まった兵士が宇品から中国大陸に渡っていきました。
戦争中、最前線で指揮をとっている姿勢を見せて戦意高揚を図るため、明治天皇も広島入りしました。それに伴って大本営が広島城内に移され、帝国議会も広島で召集されました。この間、広島は事実上「臨時首都」だったのです。
帰還兵が持ち込んだ病原菌でコレラや赤痢が大流行したため、広島湾の似島に検疫所が設けられることになりました。また、一時的にせよ軍事拠点となったことで、関連施設が次々に設けられ、軍事産業も発展しました。そのため、鉄道が下関まで延伸された後の日露戦争以降も、広島が大陸出兵の兵站として活用されていくことになります。

Ⅱ.「ヒロシマ」への道
 広島の第五師団・歩兵第十一連隊は、萩の乱や西南戦争で「活躍」した後、アジア侵略の尖兵としてほとんど全ての戦争に出兵しています。当初は福岡の西部軍管区司令部の下にありましたが実質西日本の軍事中枢であり、敗戦直前には鈴鹿山系以西を統括する第二総軍司令部が設置されました。(これは本土決戦に際し、米軍の伊勢湾上陸によって本土が分断されることを想定して設けられた第二の「大本営」です。)
 広島には帝大こそありませんでしたが、陸軍士官学校を目指すエリート養成機関・幼年学校も置かれました。
 これら軍の拠点は、規模が大阪城に匹敵するともいわれた広島城内に置かれました。
 また、兵器支廠、被服支廠をはじめとする軍事施設が市内各所に造られ、市民生活と一体化していました。
 こうしたことから米軍は、日本への都市空襲の計画に際し、広島を原爆投下の第一目標と定めて、その効果を測るため空襲目標から外していました。
 1945年8月6日、広島に何人の人がいたのか、市役所をはじめ各機関が被災し関係書類が消失したため、正確な数字はいまだにわかっていません。一般に30万~35万人と推定されていますが、出兵前の兵士などの軍関係者や、空襲の無い広島に疎開してきた人たちなども多くいたとみられ、40万~45万人という説もあります。そして、多くの朝鮮人や中国人、連合国軍の捕虜もいました。
 午前8時過ぎ(定説の15分には異論もあります)、市中心部に原爆が投下されました。T字型の相生橋が投下目標とされましたが、軍の中枢が集まっていた広島城を狙ったものであることは明らかです。基地の存在が、市民を未曾有の惨禍に巻き込み、生命も生活も文化も破壊したのです。
 市民も「無辜の民」だったわけではありません。時代のゆえに強制されてにしろ、戦時体制に組み込まれて働いていました。被爆当時、市内では建物疎開のための動員学徒約8000人をはじめ、工場や施設に多くの生徒が動員されていました。第五師団司令部では比治山高等女学校の生徒が動員されており、当直で地下壕内にいた数名を除き全員死亡しています。奇跡的に生き残った生徒が、原爆の第一報を福岡の司令部と福山の連隊に連絡しました。周辺の村から動員されていた人もいます。「義勇隊の碑」は川内村温井(現広島市安佐南区)の義勇隊員(作業中に被爆・全滅)を追悼するものです。村は原爆によって働き手をいっぺんに奪われてしまいました。
 広島市は聞き取り調査を元に、45年12月までの原爆による死者・行方不明者を約14万人(±1万人)と発表しています。しかしこれは大変少なく見積もった数字です。たとえば原爆供養塔に納められた遺骨は約7万体とされていますが、これはバラバラになった骨を集めて、大まかに推測したに過ぎず、実際はその何割増しかだといわれています。遺体処理に当たった人たちの証言などから、死者は20数万人、多い人では30万人以上と推測することもあります。

Ⅲ.「広島」は「平和都市」か?
 「70年は草木も生えぬ」といわれた広島も、奇跡的な「復興」を遂げました。
 しかし「ヒロシマ」は過去の話ではなく、今も多くの傷跡を残しています。
戦時中の防災計画に端を発する復興計画の影で、生活の場を奪われた人たち。
原爆被害の実態調査もいまだ行われず、差別的な扱いを受けている在日韓国・朝鮮人の人たち。韓国人慰霊碑の平和公園内移設はなかなか認められなかったにも関わらず、国の新たな追悼施設は地元の頭越しに建設が決められ、建てられました。
平和資料館の入館者や、広島を訪れる修学旅行生の数は年々減り続けています。戦後60年が経過し被爆者も高齢化が進んで、被爆体験の風化が懸念されています。
「平和都市」を標榜する広島ですが、今も軍事工場があります。日本製鋼所広島作業所は、国内唯一の大型大砲・砲弾の開発・製造所です。
イラク派兵にも参加した陸上自衛隊海田基地も、実は海田町ではなく広島市内にあります。
海上自衛隊呉基地からはカンボジアやペルシャ湾に派遣され、東広島と呉の米軍弾薬庫から弾薬が紛争地域に運ばれています。米軍海兵隊岩国基地のヘリ部隊もイラクに送られました。そのうちの1機が沖縄の大学に墜落したのは記憶に新しいところです。そして今、厚木基地の空母艦載機部隊が岩国に移転されようとしています。
地元でも平和学習の機会は減り、原爆が投下された日を知らない子、「原爆投下はやむをえなかった」と考える子が増えています。一方で、世羅高校の元校長の自殺をきっかけに、日の丸・君が代の強制や同和教育の排除が進められました。「憲法改正」が具体化する中、「過ちは繰り返しませぬから」というヒロシマの誓いを無視して、再び戦争への道を歩み始めているように思えてなりません。

油断大敵

2006年01月14日 13時01分43秒 | 日記、雑感
木曜日の夕方に家に帰り着いた時には、熱も39度近くまであり、
震えが止まりませんでした。
でも、何もせずにすぐ寝たのがよかったのか、はたまたホメオパシー
(ヨーロッパの民間療法)が効いたのか、翌朝には熱はすっかり
下がりまして、頭痛と倦怠感は残ってましたが、家を出るとそれも
治まりまして(車好きではないつもりですが、ハンドルを握ってる
時は元気なのです)、お昼には食事も少しできるようになりました。
こうなると、すぐ無理をするいつもの癖で、夜は予定通り岡山へ。
帰る途中、ちょっと寒気がするのが気になりましたが、土曜日一日
ゆっくり休めば大丈夫、と思っていたら、今朝再び熱が・・・。
熱と頭痛だけで他に症状は無いので、横になっていれば楽なのが
不幸中の幸いです。やはり無理と油断はいけません。

私が朝寝ていると、娘が心配そうに覗き込んで、頭をなでてくれた
のが、何よりも嬉しかったです。半分は親バカですが、どんな薬より
も愛情って大切だな、としみじみ思います。
(その後伴侶の所に行って「しおんね、『よしよし』してあげたんよ。
やさしいでしょ?」と自分で言うのはどうかと思いますが。)
伴侶も少しは・・・あ、そんなこと言っちゃいけない。他にいろいろと
やってくれてるし。大変感謝してます。(多分読まないだろうけど)

昨日、初めてETCを利用しました。ゲートに入る瞬間は子どものよう
にドキドキ。バーが上がった時はちょっとした感動と優越感に浸って
しまいました。
でも、通勤割引は広島岩国道路には適用されないことが判明。
仕事では大竹まで乗ることが多いので、かなりショックでした。
岡山までだと100㎞越えちゃうし、メリット少ないかも。
まあでも、私は以前もハイカではなくクレジットカードを使ってたの
で、マイレージサービスがあるだけでもありがたいですが。

かかっちゃった

2006年01月12日 12時49分34秒 | 日記、雑感
みたいです。インフルエンザに。
朝から全身がだるくて力が入りません。ちょっと歩くとすぐ息が
切れてしまいます。お昼には頭痛もしてきました。気合いで車を
走らせ、仕事をしています。
正月に暖かい実家でのんびりし過ぎたので、我が家の寒さと
仕事&夜中のネット生活の疲れに参ってしまったようです。
大体冷え症なので、じっとしてると手足がすぐ冷たくなり、一度
冷えたら朝まで戻らないこともあります。
やっぱりお風呂でしっかり温もって、すぐに寝るという基本を
守らないと駄目ですね。
なので、今日はこれだけにして、早めに休みます。
明日は岩国で仕事で、終わったら夜は岡山で会合があるのです
が、ちゃんと行けるかしら。


「学座 とうごまの葉の下」

2006年01月11日 23時09分33秒 | 学座
この度の平和学習の主催は「キリスト教主義教育運動・
学座 とうごまの葉の下」という団体でした。話の都合上、
この団体についても説明をしておきたいと思います。

「学座」の提唱者で現在も代表を務めるM師は、私が学生
の時にKGKの主事をされていた方です。
M師は単なる「宣教」にとどまらず人としての「生き方」に
こだわった学生伝道に取り組む中で、大学生になってから
ではもう遅いのではないか、子どものうちから、そしてその
子どもたちを育てる親たちにも、「聖書的世界観」に基づく
学びの場を提供しなければならない、と考えて教育運動を
始められました。
「学座」の名称は、教師が生徒に教える「学校」とは違い、
車座になって共に学ぶ場、といった意味合いを込めたもの
だったと思います。(違ってたら訂正して下さい。)
「福音派」の教会では教育への意識・取り組みが弱い、と
いう指摘を時折耳にします。教会学校(CS)といえば、
「子ども伝道」の場で、大人のCSや、聖書知識以外の
学びの場はあまり見られません。政治の話をすると「社会
派だ」と白い目で見られることもあります。(最近はだいぶ
受け入れられるようになってきましたが。)
そうした現状を変えて、教会がもっと教育に重荷を負おう、
というのが学座の運動の趣旨です。ですから特定の教会
や施設に拠点を置くのではなく、各地の教会を訪問して
教育への取り組みを促したり、学習プログラムを提供する
という働きをしています。
私も旗揚げの時から陰に陽に(あまり自分に使う表現では
ないですが)お手伝いしてきました。そしてこの度、私が
発案・リードして、10年来の悲願だった広島での平和学習
が実現の運びとなりました。

「とうごまの葉の下」についても説明が要るでしょう。
これは旧約聖書・ヨナ書に由来する名称です。
ヨナは紀元前8世紀頃の北イスラエル王国の預言者の1人
です。ある時ヨナは神から、ニネベという町に行って預言
するよう命じられますがこれを拒否し、地中海に逃れようと
します。しかし船は嵐に遭い、ヨナは巨大な魚に飲み込ま
れて3日3晩過ごすという奇跡の末に、ニネベ行きを承諾
します。ニネベの町でヨナが神の裁きを告げると町の人々
は悔い改め、神は災いを下すのをやめます。怒ったヨナは
神に不平を言い、成り行きを見届けようと、小屋を建てて
ニネベの町を見張ることにしました。神が1本のとうごまの
木を生えさせ、ヨナに日陰を与えると彼は大いに喜びます
が、その木が枯れ太陽が照りつけると、落胆し神に怒りを
ぶつけます。それに対して神はこう答えるのです。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして
生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを
惜しまずにいられるだろうか。そこには十二万人以上の
右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
(ヨナ書4章10・11節 新共同訳)
非常に短い書ですが、新約聖書のイエスの福音に通じる
神の愛のメッセージを含んだ重要な書です。そして歴史的
背景を探ると、さらに恐るべきメッセージが見えてきます。
ニネベとは、アッシリア帝国の首都です。アッシリアは紀元
前9世紀から周辺諸国を征服し始め、イスラエルにも度々
攻撃を仕掛けていました。反乱住民に対する串刺しや皮剥
などの残虐行為、大量強制移住政策などを行い、人々に
恐怖を与えていました。
ヨナの時代はその遠征が一段落していた時期とみられます
が、預言者である彼はやがてアッシリアが再び北王国に
攻め入り、国を滅ぼすことを知っていたと思われます。
たとえそうでなくても、暴虐の限りを尽くしていた大帝国は、
神の憐れみをかけるべき相手ではない、と考えても不思議
ではありません。
しかし神は憐れまれるのです。そのことを知っていたから、
ヨナは神の命令を拒みました。神に対して怒りました。
ブッシュ大統領の聖書にヨナ書が載っているかどうか知り
ませんが、たとえ「人権抑圧独裁国家」であろうと、「テロ
支援ならず者国家」であろうと、神の愛はあらゆる人に
注がれている、というのが聖書のメッセージです。ヨナに
諭されたように、全てのクリスチャンに対して神は呼びかけ
ています。だから真のクリスチャンは、それに応えて行か
なければなりません。
「学座」は、神に創られ神に愛されている全ての人の尊厳
を重んじ、社会正義の実現と反戦平和のために取り組む
運動なのです。

感想(仮)

2006年01月10日 23時54分21秒 | 学座
昨日触れた平和学習の感想文の下書きです。
まだ未完ですけど、ブログに載せてもよさそうな内容
にまとまったので、UPします。

今日も原爆慰霊碑の横で、日の丸が揺れている。
歩いている時は意識してないと気づかないが、平和
資料館の窓から慰霊碑を見ると、嫌でも目に入る。
詩人・栗原貞子さんはこの旗を見て、
 日の丸の赤は じんみんの血
 白地の白は じんみんの骨
と断じた。(詩集『ヒロシマというとき』収録「旗(二)」)
この旗の下に推し進められた侵略戦争に、被爆者も
駆り出され、協力させられ、大きな犠牲を払う結果と
なった。その旗が慰霊碑の隣に掲げられているのに、
死んだ者たちは「安らかに」眠れるだろうか。
今なおその旗を「国旗」とし続けるこの国は、本当に
「過ち」を繰り返さないだろうか。

栗原さんには学生の時に、二度お会いしている。92年
の8月6日と9月17日。二度目は、カンボジアPKO先遣
隊派遣を阻止すべく、呉基地前で開かれた集会にて
であった。既に足を悪くされ車椅子に乗っておられたと
思うが、反戦の詩を朗読し平和を訴えるその声と、
「これからはあなたたち若い人に頑張ってほしい」と
言って握った手の力強さは、今でも忘れられない。
あれから随分経ってしまった。10年越しの懸案だった
広島での平和学習をようやく実現させ、これでいくらか
栗原さんの期待に応えることができたかと思う。
残念ながら彼女は、1年前に亡くなってしまったけれど、
彼女の思いを受け継いで、次の一歩を歩み出したい。

92年夏の参院選広島選挙区で、「PKOはもう決まった
こと」と選挙の争点から外した社会党(当時)に反発し、
市民団体が担ぎ出した栗原君子氏が、党公認候補を
破って見事当選を果たすという「事件」があった。
今では考えられないことかも知れない。しかし平和を
求める人々の思いが集まれば、たとえ「奇跡」であって
も同じことは必ず起きると信じたい。

10年目のリベンジ

2006年01月09日 21時00分23秒 | 学座
昨年5月19日の記事「平和国家?」で、「この夏、被爆60年の
広島を案内したくて」と書いていましたが、それが延びに延び
て、この度の連休になりました。
1泊2日の平和学習が無事に終わって、帰って来たところです。
慣れないガイド役で、クタクタになってしまいました。
内容に関しては、まだ整理できてませんし、まとめる気力も
残っていないので、明日以降載せて行きたいと思います。

広島で平和学習をやりたい、と思い立ったのは、まだ学生
だった1995年のことです。50年という節目が強調され、私も
多少踊らされた面もありますが、その年の春に沖縄での平和
学習に参加して、それを私自身の日常の場につなげたいと
いう思いから、広島にこだわるようになりました。
私が長崎県の生まれで、身内にも被爆者がいることも多少は
影響したと思います。震災のあった神戸・淡路や沖縄には
関われない、関わりたくないと思っても、広島・長崎だけは
逃れられない宿命(クリスチャン的には「重荷」と言いますが)
のようなものを感じていました。
でもその年は、個人的に友人を8月6日の広島に招いたものの、
とにかく「ヒロシマ」を肌で感じてほしい、ということ以上には
考えられず、十分な準備もできず、こちらの意図が伝わらない
まま不完全燃焼に終わってしまいました。
翌年からは私が岡山に転居し、8月は教会の奉仕に追われて
いたこともあり、二度目の機会は持てませんでした。(一度
「毒ガスの島」竹原市の大久野島の見学を企画しましたが。)
広島に戻ってからも結婚、仕事に育児と余裕が無く、10年目
にしてようやくリベンジを果たした格好です。
まあいろいろと不備もありましたが、今後も続けていけそうな
手ごたえを得ましたので、反省を次に生かしたいと思います。