Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

広島移動学座レポート その5

2006年01月23日 00時28分36秒 | 学座
当初の予定になかった袋町小学校と、その後近くのキリスト教
書店にも立ち寄ったため、1時間ほど時間が押してしまいました。
本通り商店街を抜けて、原爆投下地点である島病院を遠巻きに
眺めて、午後の学びの場・平和公園に向かいました。



元安橋で原爆ドームをバックに集合写真を撮ってから、「平和の
子の像」の脇を抜けて、原爆供養塔へ。



本来「供養塔」とはこの塔のことですが、いつの間にか手前の
土まんじゅうのほうが「供養塔」と呼ばれるようになっています。
1946年に宗派を超えた「広島戦災供養会」が結成され、最初
は小さな納骨堂が造られましたが、その後市内各地に散乱・
放置されていた遺骨が集められて、塚に納められました。
広島市の推計では約7万体。そのほとんどは、いまだに身元が
分かっていません。また、名前が判明した遺骨も引き取り手が
いまだに現れないものが多数あります。
毎年8月6日には、仏教・神道・キリスト教の3派がここで集会を
行なっています。
続いて、韓国人慰霊碑を見ました。



8月6日に撮った写真なので折り鶴が多くてよく見えませんが、
死者は亀に乗って天国に行くという言い伝えに従い、碑の下
に亀の像が造られています。
朝鮮人の被爆者は3万~7万人、死者は5千~4万人と推定
されていますが、いまだに実態は分かっていません。
この碑は1970年、民団が中心になって建てられました。
平和公園への新たな碑の建設を認めない広島市の方針もあり、
当初は李王朝最後の皇太子の甥で第二総軍司令部付き教育
参謀であった李○公(PCでは字が出ませんが、金偏に禺という
字です)が被爆死したと伝えられる本川橋西詰めに建てられま
した。しかし、公園の外にある碑が放置されてきた韓国人被爆
者、ひいては在日の人達全体の置かれた状況を象徴している
という批判が高まりました。また遊歩道が整備された元安川と
違って本川西岸は歩道も狭く、慰霊祭も満足に行なえないこと、
「韓国人」と李公の碑であって朝鮮人全体の碑とは言いがたい
ことなどもあり、公園内移設・統一碑建設の要望が出されるよう
になりました。
99年、平岡敬市長(かつて新聞記者として韓国人被爆者問題
を追求していた)がようやく移設を認めたものの、碑は1つだけ
という条件が付き、民団と朝鮮総連の協議の結果、統一碑は
断念して元の碑がそのまま移設されました。
ところが2002年、新たな建造物は認められないはずの公園内
に、地元の了解無しに国が新たな施設を建設しました。
「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」がそれです。