Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

8・6レポート '08 その2

2008年10月07日 01時09分38秒 | ヒロシマ
小学校に上がったしおんも、この日は「平和を考える集い」(登校日)です。
私が子どもの頃は、福岡でも8月6日は登校日でしたが、大学生になった頃には
ほとんど聞かなくなってしまっていました。被爆50年の1995年に平和記念式典で
子ども代表による「平和への誓い」が始まりましたが、広島ですら平和学習への
無関心・批判が強まっていました。卒業式の日の丸・君が代問題を契機とする、
「教育是正」と称した県教組への圧力もあり、ヒロシマを語ることが憚られるような
雰囲気すらありました。風向きが変わったのは、3年前の被爆60年頃からでしょう
か。「今語らなければ」「今聞かなければ」という切実さが感じられます。
しおんの小学校にも、被爆者が訪れて体験を語ってくれたそうです。みんなで話
を聞いた後、折り紙で鳩を折り、平和の願いを書き込んだ、と教えてくれました。
私の『ピカドン』(?)のような強烈な体験ではありませんが、娘の心にも何かが
刻まれたことと思います。

広島市では8月6日は公共施設は休みとなります。児童館も休館ということで、
私がお昼で早退し、しおんを見ることにしました。といっても、私は折り鶴に糸を
通すのに忙しくて、ほとんど相手をしてあげられなかったのですが・・・。
今年は700羽ほど折ったのですが、2日前から糸を通し始めて結局間に合わず、
500羽だけ平和公園に持って行きました。去年が100羽だったので、進歩したと
いえなくもありませんが、来年はもっと早く取りかかって千羽完成させたいです。

夜、いつものように「キリスト者平和の集い」に参加しました。
今年の証言者は、日本基督教団府中教会 元牧師の宗藤尚三氏でした。証言
者が減ってきたためか、約15年ぶりの再登板とのこと。15年前というと私は学生
で広島にいたはずですが、なぜか記憶にありませんでした。
宗藤氏は中区千田町の自宅で被爆されました。たまたま急旋回して去っていく
B29を目で追ったため、閃光を浴びずに済みましたが、倒壊した家屋の下敷きに
なり大怪我を負いました。日赤病院から似島に運ばれて、満足な治療も受けられ
ない中で奇跡的に一命を取り留めて、今日まで来られました。
今年、私たちの教会のキャンプを似島で行うことになり、私は似島の歴史を辿る
メッセージを開会礼拝で語りました。その準備の過程で見聞きし、学んだことと
宗藤氏の体験談がダブって、我が事のようにリアルに迫ってきました。
長年平和運動に携わっておられるからか、後半やや理念的な「平和論」に傾いた
点は少々残念でしたが、時宜に適ったというか、何とも不思議な符合で、「聞けて
よかった」と思える話でした。



(8月7日付中国新聞より 旧太田川の灯篭流し)

8・6レポート '08 その1

2008年08月21日 00時27分09秒 | ヒロシマ
今年も8月6日に平和公園を訪れました。
まず出勤前に、供養塔前で行われる、広島戦災供養会主催「原爆死没者慰霊行事」
に参列しました。昨年まで奉仕者の一人であった高橋牧師が6月で辞任され、今年は
知った顔の教職者はいませんでした。別に義理や付き合いで行ってるわけではない
ので構わないのですが。
アストラムラインの始発に乗ってもギリギリ間に合わないため、今年もちょっぴり遅刻
してしまいました。最初が神道で、キリスト教は2番目なので、そこには間に合います
が、やっぱり遅れるのは気まずいものです。
最初、来賓席の隣り(献花台の真横)に立って、「ここならよく見える」と思ってました
が、ふと献水されている方の向こうを見ると、テレビカメラらしきものがこちらを向いて
いるのに気づきました。シャイな私は、テレビに映って知ってる人に見られては大変
と、そそくさと移動しました。



今年は女性の教職者が多かったです。時代なのか、今までご奉仕されていた方が
皆リタイヤされたのか、少し気になりました。
仏教の慰霊行事も見てみたかったのですが、この日は都合で会社を早退することに
なっていたので、早目に行って仕事を片付けるため、例年同様キリスト教の行事が
終わったところで離れました。



朝日に浮かぶ原爆ドームを写したかったのですが、あいにく薄曇り。そういえば昨年
は珍しく雨でした。暑いのは苦手ですが、8月6日は抜けるような夏空のイメージが
強いし、63年前のあの日を思い起こすにもそのほうが相応しい気がします。
写真は撮りませんでしたが、今年も相生橋からドームにかけて、機動隊員と公安が
ずらり。首相が来るから仕方ないとはいえ、異様な光景です。

消えた町

2006年11月26日 23時28分25秒 | ヒロシマ
現在は「広島市中区中島町」となっている広島の平和公園ですが、
かつては6つの町からなる広島一の繁華街でした。
元々西国街道(山陽道)が、現在の本通商店街から元安橋を渡って
中島地区を横断していて、宿場町として栄えていました。
明治以降も、最初に市役所が置かれ(後に雑魚場町=現 国泰寺町
に移転)、南隣の水主町(現 加古町)には県庁もあって行政の中枢
となり、北側の広島城一帯が日清戦争時の大本営を経て一大軍事
施設となると軍人相手の商売も盛んになって繁盛していました。
路面電車の開通に伴い電車通り沿いが発展するようになり、大正
末期から昭和にかけて新天地や東新天地(現 流川・薬研掘)が開発
されると、中島町界隈の商業・娯楽地区としての地位は相対的に
低下しますが、それでも文化の中心・市内有数の繁華街として、戦時
下の経済統制を受けるまでは栄えていました。

相生橋が架かる北の端、原爆ドームの対岸が「中島本町」で「慈仙寺
鼻」とも呼ばれていました。
その南隣が、元安川沿いの「天神町」、本川沿いの「元柳町」、その
間に挟まれた「材木町」の3町でした。材木町の南が「木挽町」、元柳
町の南が「中島新町」で、両町と天神町の南組の一部の建物疎開区
域が、戦後「平和大通り」となりました。

この地域には被爆当時、約1300世帯・4400人ほどが暮らしていたと
みられていますが、ほぼ全域が爆心から500m以内で、一瞬にして
町は壊滅し、住民も、建物疎開作業に動員されていた人たちもほぼ
全滅しました。
その後、たまたま自宅を離れていたため生き残ったわずかな住民ら
が、400戸にのぼるバラックを建てて生活していましたが、戦後この
地区に「中島公園」として市民公園の建設が計画され、最終的には
平和公園が作られたため、旧住民は立ち退きを余儀なくされました。
家々も人も、町名も消え、今は「記念碑」だけが残っています。



中島本町の碑。犠牲者の名前が刻まれています。左奥に見える
のは平和観音です。



当時の町並みを再現した地図もあります。



天神町北組の碑です。国立平和祈念館建設に伴い、元々あった
場所から南へ移転させられています。
ドラマ「広島・昭和20年8月6日」の舞台もこの天神町です。



そして、材木町の碑。今回教えて頂くまで、気づきませんでした。
他の町の立派な碑との落差に、衝撃を受けました。

もう一つ今回教わったのですが、これらの碑は全て「○○町の跡」
という名前になっています。公園内には原爆慰霊碑以外の慰霊
碑は一切認めない、という市の方針による苦肉の策です。
中島本町の平和観音も、宗教的なものは認められないという市に
対して「これは芸術作品だ」と訴えてどうにか認めてもらったのだ
そうです。
韓国人慰霊碑の移設問題ばかりがクローズアップされがちです
が、「平和都市」の名に恥じる様々な問題が数多くあるようです。

碑めぐり

2006年11月25日 22時43分47秒 | ヒロシマ
こちらのブログを随分と休んでしまいました。
この間も、基地問題や沖縄県知事選、核武装議論、教育基本法に、
いじめ自殺、タウンミーティングのやらせ質問と、次から次へ問題が
生じ、発言したくて仕方なかったのですが、時間と体力が許さず書け
ませんでした。
このブログでは、単なる時事ネタとしてではなく、普遍性を持たせた
取り上げ方を心掛けてるつもりですので、今後折を見て書いていこう
と思いますので、「何を今頃になって」と言わずにお付き合い頂けれ
ば感謝です。

以前ご紹介しましたが、私の所属教会が昨年から被爆証言の聞き
書きに取り組み、この夏に証言集が出版されました。(8月11日記事
参照。)
その企画を担当したメンバーが今回、平和公園の慰霊碑めぐりを
企画して下さり、私も参加してきました。
私は平和公園内の慰霊碑はほとんど全てチェックしていますが、
公園の南西側へはなかなか足を延ばせなくて、見ていませんでした
し、まだ写真を撮っていない碑もいくつか残っていたので、いい機会
だと思ったのが参加の動機のひとつです。
でもそれ以上に、このような碑めぐりは、一人ではなくグループで
行って、話を聞くことが大切です。被爆者であればもちろんいいです
が、そうでなくても、被爆者を知っている人、被爆体験を聞いてきた
人、昔の広島を知っている人、地道に勉強してきた人など、どんな
方からの話も、それなりに興味深く、考えさせられる所があります。
今回は、元教師の吉野さんという方がガイドを務めて下さいました。



これまで見落としていたこと、知らなかったことがたくさんありました。
具体的な内容は、明日お分かちしたいと思います。

『ピカドン』その後

2006年09月11日 23時48分02秒 | ヒロシマ
今日は高千穂のレポートをお休みして、1件事後報告を。
8月10日の記事に書いたアニメ『ピカドン』を、8月28日に見て
きました。
結論から言うと、私が見たかった作品とは別物でした。
子どもが紙飛行機を飛ばす場面、勤労奉仕の女学生の姿、
原爆投下の瞬間だけ実写(風のリアルな画?)に変わる点、
等々私の記憶と重なる要素も多く、多分『ピカドン』もどこかで
見ていると思うのですが、私が最初に見た映像にあった筈の
いくつかの要素が欠落していて、これは違うと確信しました。

昨年7月16日の記事でも書いていますが、、「ピカ」と閃光が
走った瞬間、凍りついた絵の中の、人の目玉だけがスーッと
溶けて垂れ下がるように飛び出す描写(『ピカドン』では教室
の窓から空を見上げていた少年の顔が崩れ、目玉も落ちる
のですが、私の記憶では勤労奉仕の女学生や兵隊さんなど
複数の人の、目だけが次々と垂れ下がっていきました)や、
つい最近思い出しましたが、熱線に焼かれ炎に追われた人
たちが、防火水槽の中で黒焦げになる場面もあった筈です。
原爆が炸裂した瞬間も、画面が光で真っ白にならずに、黒い
背景に「ピカ」という字幕だけが出て、前述の目玉の場面が
流れ、続いて「ドン」という字幕の後、各所の惨状が描かれて
いたように記憶しています。『ピカドン』のような「きのこ雲」は
無かった気がします。
もしかしたら、目玉以外は動きが無い、紙芝居的映像だった
かも知れません。

1978年の『ピカドン』が、世界初の原爆アニメということなので、
私が見た'80年までに、それに続く作品がどれだけ作られたの
か分かりませんが、(ネット検索ではそれらしい作品は見つけ
られませんでした。)もしこれを読まれた方で、情報や手がかり
をお持ちの方、「私もそんな映画を見た」という方がいらっしゃれ
ば、コメント頂ければ幸いです。

次は黒澤明の『生きものの記録』を見ようと思ってます。

風邪に

2006年08月19日 23時59分03秒 | ヒロシマ
「お薬博物館」というサイトで紹介されていた、トンデモ薬です。
その名も「ピカトン」(富山県黒部市産。1包40円。)



そして「ピカドン紙風船」 (奈良県高市群高取町産。)



以下、サイトの説明文の引用です。
超過激なパッケージの代表です。時あたかも朝鮮戦争(1950~
1953年)の頃か? 朝鮮半島のあたりで原爆(というより水爆)が
爆発しているデザインでしかも名前が(ちょっと遠慮して)ピカトン。
ちなみに手元にあった広辞苑を紐解くと、ぴかどんとは・ぴかは
閃光。どんは爆発音。原子爆弾の俗称。被爆当時に広島の子供
が使い始めた語。一方紙風船の方はそのものズバリのピカドン。
しかも爆風で髪がたなびいたような絵という、どう見ても広島や
長崎では売れなかった置き薬と思われます。


何とコメントすればいいのやら・・・。

人類総ザンゲの日

2006年08月18日 23時50分25秒 | ヒロシマ
私が広島に住み始めて最初にショックを受けたのは、こんなプレート
を見た時でした。



旧市内の、古い民家が立ち並ぶ町なら、あちこちで見られます。
イデオロギー抜きの、ヒロシマの心です。
靖国にしか興味のない(それとて、本心か政治的打算か分かり
かねますが)小泉首相には、理解できないかも知れませんが。
あ、それ以前に、見てないか。式典が済んだらすぐ帰っちゃうし。

語り継ぐ

2006年08月11日 01時04分54秒 | ヒロシマ
また体調を崩しています。「不定愁訴」といった感じですが、夏バテの
うちなのかな。唇に口内炎のようなものができて、かなりつらいです。
伴侶にホメオパシーの本で調べてもらったら、「死や病気への恐怖」
の影響だそうで。そういえばこのところ、ずっとヒロシマの被爆体験談
やら映像やらに向き合って、気は滅入るし、トラウマも顔を出してます
から、当たってるかも。

私の教会の夏の特別企画の、第二弾は被爆体験集の朗読でした。
私の教会には、現在も十数名の被爆者がいらっしゃいます。
被爆60年の昨年、このうち10名の方々の了解を得て、証言を聞き、
本にまとめまる作業に取り組みました。
教会では過去にも、体験を聞き、平和と核廃絶を祈るプログラムが
持たれたことはあります。劇団を結成し、原爆劇を国内外の教会で
演じたこともあったそうです。しかし近年はそうした取り組みも見られ
なくなっていました。
「怠慢」と言われるかも知れませんが、被爆者にとって「あの日」を
思い出すこと、語ったり聞いたりすることは、耐え難い苦痛なのです。
時が経てば癒される、忘れられるというものではありません。信仰を
持っていても、それは同じです。
しかし、「今聞かなければ、もう永久に聞けないかも知れない」という
危機感と、「広島に生きるクリスチャンとして、被爆体験を継承し、
語り広めていかなければならない」という使命感から、節目の年に
このような取り組みを行なうことになった次第です。
編集に携わった方々、そして証言者の方々の身を削る努力の末に
先頃ようやく完成しました。



7月23日の礼拝で奉献式を執り行い、教会員の各家庭と、関係者
に1部ずつ贈呈、残りは頒布されることになりました。初版500部は
瞬く間に底を突き、現在増刷中です。
(私も、差し上げたい人がいるので5冊ほど購入しました。)

水曜日には、この中の一人の証言の朗読を聞きました。
実は私は、本人の口から体験談を聞いたことが過去にありました。
生き証人の語る言葉は、たとえ「話し上手」でなくても、当人にしか
語りえない生々しさと重さがあります。活字で読む何倍もの迫力・
リアリティに圧倒されます。それはまた、私のようなものが人前で
何かを語ることをためらわせることにもなってきました。
しかし、この日の朗読は、本人の証言とはまた違った形で、聞く者
の心に響いてきました。「語る」ことには、こんなに力があるのか、
と再認識しました。
もちろん、専門的な指導を受けたことがある人の「語り」と、私の
ような素人のそれとでは、天地ほどの差はあるでしょうが、文字を
残すだけでなく「語り継ぐ」ことで伝わる「記憶」は、決して小さくは
ない、と感じました。
物事を記録し再現する技術が進み、便利な世の中になればなる
ほど、私たちは記憶し想像する力が弱くなってしまっているよう
な気がします。子どもへの「読み聞かせ」が注目されていますが、
語り言葉を大事にする文化を大人も取り戻さなくてはいけません。

『ピカドン』を見てください

2006年08月10日 00時43分17秒 | ヒロシマ
「アニメーション ピカドンの世界」

日時 2006(平成18)年9月1日(金)まで(午前9時から午後5時まで。
但し、8月5・6日を除く土・日・祝日は閉室します。)

場所 広島平和記念資料館 東館地下1階 情報資料室

世界的に有名なアニメーション作家木下蓮三(れんぞう)・小夜子(さよこ)
夫妻が昭和53年に制作した「ピカドン」は、世界初の原爆をテーマにした
短編アニメーションです。
被爆者の書いた手記と絵を資料にして制作されたこの作品は、当時世界
に衝撃を与えました。「アニメーションのカンヌ」ともいわれるフランスの
アヌシー国際アニメーション映画祭で、審査員特別賞をはじめ、世界の
映画祭で多くの賞を受賞しました。セリフのない10分の物語の中で原爆
の実相を伝えるこの作品は、制作されて約30年経ちますが今でも国内
外で上映され続けています。
木下小夜子さんがフェスティバル・ディレクターを務める、広島国際アニ
メーションフェスティバルの開催を記念して、「ピカドン」のセル画や関連
資料を展示します。また、期間中に限り情報資料室で、「ピカドン」を
ご覧いただけます。
(入場無料) 是非、ご来場ください。

お問い合わせは 平和記念資料館 啓発担当まで
  電話 082-242-7828, E-mail hpcf@pcf.city.hiroshima.jp

詳しくは↓をご覧ください。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200606280001.html


私も覚悟を決めて、もう一度見ようと思います。26年ぶりです。

こんなサイトも見つけました。絵本は絶版、フィルムも未だソフト化されて
いないとはいえ、著作権法違反ではありますが・・・。
閉鎖されないうちに、ぜひ一度ご覧下さい。
「ピカドン PICA-DON」

長崎原爆の日

2006年08月09日 22時32分28秒 | ヒロシマ
移動中のカーラジオで、長崎の平和祈念式典を聞きました。
生まれた時は長崎県民、親の本籍も(結婚するまでは当然私も)長崎県
で、身内に被爆者もいる私ですが、広島の平和記念式典は子どもの頃
からテレビで見てましたし、広島に住むようになって何度か足も運びまし
たが、長崎の式典は一度も見聞きした記憶がありません。
そういえば、私が小学生の時の福岡市の平和登校日は8月6日でした。
何となくそれで、原爆はもう済んだ気になっていたのかも知れません。

初めての長崎の平和祈念式典。高校野球か何かのようなアナウンスに
ファンファーレと、広島よりもイベント色が強い気がしました。もちろん中身
は、ちゃんとした慰霊祭です。良くも悪くも「マンネリ化の典型」と言えば
いいのでしょうか。
伊藤市長の平和宣言は、どこか諦念が漂っていた秋葉市長とは対照的
に、被爆地の怒りを前面に押し出したものでした。もっとも、「広島が駄目
なら長崎が」と、核廃絶への道筋を自ら指し示すまでには至っておらず、
最後は政府に「お願い」で終わったのは、少々物足りなさが残りましたが。
かつては「怒りの広島・祈りの長崎」と呼ばれたそうですが、今年の両市
長の宣言は「観念の広島・怒りの長崎」といった趣きでした。

思うに、ヒロシマ・ナガサキにおいては、保守も革新もありません。国会
議員だとろくでもない輩もいますが、地方では首長も議員も、被爆者を
無視できません。陳情のカードという側面もあるかも知れませんが、冷淡
な国に対する地元のセンセイたちの姿勢を見ていると、顔の見える政治
は主義主張の違いを超えた温かみを持っていることを実感します。地方
分権の必要性・可能性をこういうところからも感じます。

一方の小泉首相はというと、広島の時とほぼ同じ文面の原稿を棒読み。
毎年そうなんですかね。長崎は、おまけみたいなものなのかな。