Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

広島移動学座レポート その2

2006年01月17日 23時40分47秒 | 学座
事前学習の参加者は4人。夜8時から2時間の予定が、30分ほど
オーバーしてしまいました。しばしば脱線しつつ、和気あいあいと
話が弾み、ギリギリまで準備に追われていた私も少し安心。



2日目は朝9時にホテルを出発しました。
紙屋町の地下街で、この日だけ参加の人達と合流して、いよいよ
見学へ。
広島城方面へと歩いていって、まずはひろしま美術館の裏手へ。
ここに、明治天皇の飲み水を汲んだ、井戸があるのです。
日清戦争当時、広島にはまだ水道が整備されていませんでした。
「水の都」広島も元は海だった所ですから、井戸を掘っても塩水が
出ることも多く、天皇のために城内の井戸が確保されたのです。
現在は城南通りの南側歩道に位置します。なんと歩道の真ん中
に、竹垣で囲われて残っています。普通なら移設するでしょうに。




この碑が建てられたのは1932(昭和7)年、建てたのは野砲兵
第五連隊です。満州事変の翌年、という状況を考えれば、その
意図するところは自ずと明らかでしょう。

それからお堀に沿って、城の東側へ。どこもそうですが、広島城
の堀も、残っているのは内堀です。外堀は北は城北通り、南は
相生通り、東は今の白島通りより1本西側の道路です。明治に
なって埋め立てが始まり、1912(大正元)年、南と東が電車通り
となりました。
さて、城の東側の、でっかい鳥居やRCC中国放送の南側に、
歩兵第十一連隊の門柱と碑が建っています。この碑文を読むと、
広島の部隊も近代日本のあらゆる戦争に参加していたことが
わかります。ちなみにこれは、1994年のアジア大会を前にして、
戦争賛美の色を消すため文章を改めたのだそうです。見れなくて
残念な気持ちと、改められてよかった気持ちが入り混じり、複雑
な気分ですが、それでも十分「平和学習」の教材にはなります。



近くにはなぜか、池田勇人の銅像もありました。
ご年配の参加者から、「貧乏人は麦を食え」は彼の言葉だと
教えて頂きました。

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