Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

カジカ

2006年06月30日 21時37分24秒 | 日記、雑感
昨日から義父母が泊まりに来ています。
今日は、湯来温泉にやって来ました。
昨年広島市に合併した湯来町は、一部広島のベッドタウンとなっています
が、温泉と酪農の町です。
浅野家の湯治場だった湯の山温泉は現在では「公衆浴場」といった感じ
です。湯来温泉のほうが「ひなびた温泉街」という高級感が漂っています。
そして最近、奥湯来温泉が開発されています。
旧町内には、コンビニも旧佐伯区との境界付近にわずかに2軒。そばに
ゴルフ場と「ひろしまドッグパーク」というテーマパークがある他はレジャー
施設もなく、静かに自然と温泉を楽しめる所です。
今日はあいにくの雨模様で、風も強くてホタルは見れず、先週の大雨の
影響で景勝地も通行止で立ち寄れませんでしたが、宿でのんびりと過ご
しています。
川のせせらぎ(雨で増水していますが)の音に混じって、カジカガエルの
声がよく聞こえます。
雨にも関わらず、川の水も全然濁っていません。
我が家も「都会」ではありませんが、こういう自然を満喫できる環境はいい
なあ、と思いました。
とはいえ、昨年の台風による崖崩れや道路流失の復旧もまだ終わって
いません。自然には厳しい面もあります。
それは人間の罪のゆえ、と言う人もいますが、私はそれは、人が己の小さ
さを悟り神に思いを向けるための配慮だと信じます。


祈祷会

2006年06月29日 22時39分18秒 | キリスト教
昨夜は、約半年ぶりに教会の祈祷会に出ました。
祈祷会は、大抵のプロテスタント教会で、水曜日に(稀に木曜日の
所もありますが)行われている、文字通りみんなで一緒にお祈りを
する集会です。
聖書の学びの時間を一緒に設けている教会が多いですが、基本的
には「クリスチャンのためのプログラム」です。「教会員のため」と
言ってもいいかも知れません。
水曜日というのに聖書的根拠は多分無いと思います。週の真ん中
だから、或いは、大抵の教会の牧師が月曜日が休みで、火曜日に
準備をするから、といったところでしょうか。
出席者は、主婦や、退職された年配の方が多いです。教会の役員
であったり、婦人会で活躍されている方々が主です。なので、次の
日曜日の準備や打ち合わせといった色彩も帯びています。

私が初めて祈祷会に出たのは、大学1年の時でした。教会の牧師
が辞任して無牧となり、祈祷会を担当することになった姉妹(教会
ではクリスチャンは「神の家族」だとして、互いに「兄弟」「姉妹」と
呼びます。)から強く誘われたのがきっかけでした。
祈るのも人と話すのも苦手な私ですが、いい訓練かな、と思って
出てみました。
祈祷会では、教会のため、教会員のための祈りが多く捧げられま
す。祈祷会に出ることで、教会のことや普段あまり話さない教会員
のことも、知ることができました。
今の牧師が来てからは、聖書の学びで、教会学校で採り上げる
箇所の予習をしてくれるので、大変助かりました。
そして何より、一緒に祈ることで、教会の働きに参加していると
実感できたことが嬉しかったです。

一人で隠れて祈るのもいいですが、教会は何のためにあるかと
いうと、助け合うため、励まし合うためです。祈りは神へのお願い
だけでなく、神からの語り掛けを聞く時でもあり、神への賛美でも
あります。だから、プライベートな祈りもあるでしょうが、皆で祈る
祈りもあるのです。
毎週礼拝に集うのと同じです。
そして、教会の祈祷会は、牧師を支えるためのものでもあります。
牧師の働きや教会の業は、教会員の祈り無くしては成り立ちま
せん。神を信じ、祈りの力を信じるなら、皆で一緒に心を合わせて
祈るべきです。たとえ集えなくても、その時を覚えて祈りを捧げる
べきです。だから教会では、毎週決まった時間に祈祷会が持たれ
るのです。

残念ながら私は、結婚してからはほとんど出席できていません。
新婚当初は伴侶の帰りが遅かったので放っては出れなかったし、
その後私も夜働きに出たり、娘が生まれたりで、出れずじまい。
まあ、大抵の人が通る道なんでしょうけど。
娘がもう少し大きくなって、お祈りも夜更かしもできるようになった
ら、家族で行きたいな、と願っています。



晴れ傘?

2006年06月28日 02時09分38秒 | 日記、雑感
「晴れ男(女)」「雨男(女)」というのはよく聞きますが、私は特に
どちらということもないような気がします。というか、統計を取れば、
誰でも「晴れもあれば雨もある」という結論になると思うのですが、
ある事柄だけを鮮明に記憶(或いは強く意識)する頭の構造か、
験を担ぎたがる人間の性が、こういうものを生み出すのでしょう。
よくよく考えてみると、私自身にも結構そういうのってあります。
その一つが、タイトルに掲げた「晴れ傘」。
ちょうど今頃の季節に多いのですが、空模様や天気予報の降水
確率が微妙な時、傘を持って出ると、途端に晴れる、ということが
よくある気がします。
まあ、持って出たら晴れたとか、持たずに行ったら雨に降られて
濡れて帰ったなんてのは記憶に残りやすく、普通に雨が降った
ことはすぐ忘れてるだけでしょうが。
でも、私は晴れた日に傘を持って歩くのも全然恥ずかしくないし、
(ちょっと邪魔だけど・・・)出歩くには雨よりは晴れてるほうがいい
から、「お守り代わり」って感じで持ち歩くようにしてます。

過ちを繰り返さないために

2006年06月27日 00時14分30秒 | 時事・社会
靖国訴訟に関しては、昨日と一昨日の記事で一応終わりにするつもり
でしたが、1997年に最高裁が違憲判決を出した「愛媛玉串料訴訟」に
おける、尾崎行信裁判官の意見を、ぜひご紹介したいと思いまして、
もう一日引っ張らせていただきます。

「本件玉串料の奉納が金額も回数も少なく、問題とするほどのもので
はないと主張されており、これに加えて今日の社会情勢では、昭和
初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点
に関する不安を杞憂に等しいとも言われる。しかし、われわれが自ら
の歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいか
を示す実例を容易に見ることができる。人びとは大正末期最も拡大さ
れた自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数
年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思
想の自由、言論・出版の自由もことごとく制限禁圧されて有名無実に
なったのみか、生命身体の自由までも奪われたのである。『今日の
滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験
したのは最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかったこと
を想起すれば、今回この種の問題を些細なこととして放置すべきでは
なく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを
制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
 さらに、わが国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者
の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入
れられており、遺憾などと言ってとがめだてする必要がないとする者
もある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は宗教につき寛容
であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感
を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷つけ、軽視する弊害
もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義
があるのだから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる
少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを
許すべきではない。」

これに先立つこと20年、'77年の津地鎮祭訴訟最高裁判決において、
当時の最高裁長官で、無教会の熱心なクリスチャンでもあった藤林
益三裁判官が、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効
果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われて
おり、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が
濃い」との反対意見(他4名)を述べ、さらに「国家と宗教が結びつけ
ば、信教の自由が侵害される。少数者の宗教や良心は、多数決を
もっても侵犯されない」との追加反対意見も出しています。そして、
「夕暮れ時に、光がある」(ゼカリヤ書14章7節)という言葉を残した
と伝えられています。
今がどのような時代か、その中で私たちは何に目を向けるべきかが
問われているのではないでしょうか。

「神道は宗教に非ず」か? 後編

2006年06月26日 00時44分04秒 | 時事・社会
そして最後に、「出ました」って感じの定番です。「神道は宗教に非ず」
当該記事のコメントの中には、こんな補足がありました。
「神道は宗教に非ずは私の発明ではなく旧憲法下の通説です。それ
は、禍々しい国粋主義だけではなくヘーゲルの絶対精神の歴史的
特殊な現実への具現という筋悪とはいえない哲学を根拠にしていま
す。このロジックは戦前カソリック教会も承認したもので、現在も(政治
的には拙かったにせよ)論理的に間違いとはされていません。要は、
宗教を社会学的に定義するのではなく法的に定義するとき我が神州
の憲法は神道をイデオロギーの中核として含んでおり、ならば憲法的
に内在する神道は20条-89条で問題になる「宗教」ではないという
ことです。」
ヘーゲルが何と書いたは存じませんが、それがこの文章を理解する
助けになるとは思いません。とにかく論理が滅茶苦茶。
「宗教」を「法的に定義する」と神道は「宗教ではない」のであれば、
なぜ神社は宗教法人格を取得できるのでしょうか。尤も、宗教法人
法は、宗教を定義づけてはいませんが。というより、権力者の都合で
特定の宗教に有利な定義づけがなされる場合以外に、法的な定義
が存在したためしはありません。
憲法が「イデオロギーの中核」として含むものは政教分離に触れる
「宗教ではない」なら、キリスト教も仏教も「宗教ではない」ことになり
ます。つまり「国教」という概念は否定されなければなりません。
にも関わらず、別の記事では「国教」を持つ国などの「緩やかな政教
分離」を引き合いに出し、政治の宗教への関与を正当化しようとして
います。 それに、この論理で行けば、イスラムこそ最も当てはまり
そうなものですが、それについては一切言及していません。言及でき
ない、と言ったほうがいいかも知れませんね。一緒にされると困るで
しょうから。
現憲法の「イデオロギーの中核」のどこに神道が含まれているのか、
全く明らかにされていません。もしそうなら、その憲法を変えようと
いう動きに対して批判を加えていただきたいものです。
カトリックだけでなく、後にはプロテスタントも仏教も受け入れました
が、激しい抵抗もありましたし、戦後は否定しています。「論理的に
間違いとはされていません。」というのは、定説ではなく、肯定派の
論理です。そのことは、御本人も「旧憲法下の通説です」とわざわざ
断わっていることからも明らかです。

細かい突っ込みはこの辺までにして、本質的な部分に入りますが、
松尾さんや彼に類する主張をする人々の一番の問題点は、自らの
「宗教とは何か」という定義を明らかにしていないことです。
「宗教ではない」ことの論証には熱心ですが、その他の宗教を宗教
たらしめているものは何か、ということには決して触れません。
「宗教ではない」神道にはそれが無いことを証明すれば、たちどころ
に問題は解決する筈なのですが、今日に至るまでそうなっていない
ところを見ると、定義づけは不可能なのでしょうね。ならば、「宗教で
はない」という認定も、到底できっこないわけです。
第二に、「公の宗教」論についてですが、こういう概念は「個の確立」
「個人の権利の完全な保障」があって初めて成り立つものです。
近代以前においては、宗教とは集団・公のものでしかありませんで
した。個人の信教の自由の芽生えが「個」と「公」の二項対立を生む
のですが、そこで「個」を優先させるというのが近代法の精神であり、
それを保障する制度が政教分離です。西洋近代思想をスタンダード
とする・しないは自由ですが、松尾さんは一方でそれを認める発言
もしていますから、日本の「前近代性」を誇っているようにしか見え
ません。まあ、神社神道も基本的に「個」の宗教ではありえないの
で、釣り合いは取れてますけどね。
第三に、「権利とは少数者を守るためのものだ」という視点が完全に
欠落した、多数者の論理に終始している点も看過できません。結局
このような主張をする人たちは、異なる意見を持つ少数者を「異端」
「キチガイ」扱いして、「サヨク」などとレッテルを貼って、見下して、
優越感に浸ることでしか自分を保てない人たち(それ自体、ある意味
宗教的ですらありますが)の手助けをしてるに過ぎないのですが、
それで満足なのでしょうか。

「神道は宗教に非ず」か? 前編

2006年06月25日 00時08分24秒 | 時事・社会
昨日の記事に、なかなか素敵なトラックバックを頂戴したので、今日は
予定を変更して宗教談義を少々。
ちなみに、昨日の記事を書いた時点では、最高裁は憲法判断を「回避」
したと認識してましたが、判決文をよく読むと、「合憲」と明言こそできな
かったものの、こっそり容認しています。

判決理由で今井裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は他人の
信仰生活などに対して圧迫、干渉を加える性質のものではなく、他人
が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の
感情が害され、不快の念を抱いても、被侵害利益として損害賠償を
求めることはできない」と指摘。その上で「内閣総理大臣の地位に
ある者が靖国神社を参拝した場合も異なるものではない」と判示した。
さらに、こうした点も踏まえ、「本件参拝が違憲であることの確認を
求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らか」とした。
                                  (産経新聞)


要するに、首相であっても私人ならOK、ということのようです。
ところで、小泉首相は会見では「内閣総理大臣 小泉純一郎として、
個人として」と訳の分からないコメントで煙に巻いているにも関わらず、
裁判では一貫して「私人」としての参拝だと主張しています。
こんな風にその時々の都合で自分の主張を変える、いい加減な人物
の参拝が、そんなに嬉しいのですかね、賛成派の人たちは。
結局、小泉個人がどういう人間だろうと、どんな信仰を持っていようと、
「内閣総理大臣が参拝した」という事実が欲しいだけですよね。これが
宗教と政治の癒着でなくて何でしょう。そこを問わずして、何が「信教
の自由」「政教分離」でしょう。

TBを送ってくれた松尾光太郎さんは、当該記事によると「神道は宗教
に非ず」「神道は近代主権国家日本の実質的意味の憲法のパーツの
一つである」「元来、政教分離原則とは、「社会的威力たる教会組織
が公的権力の行使に容喙関与すべきではない」という主張にすぎず、
社会学的観察からは宗教的行為と看做されるすべての行為を国家や
地方自治体に対して認めないというものではない」という考えをお持ち
だそうです。
順番は逆になりますが、3番目から検討していきます。

まず「政教分離原則とは、「社会的威力たる教会組織が公的権力の
行使に容喙関与すべきではない」という主張にすぎず」という前提が、
一般論のように書かれていますが、全くの誤りです。
政教分離原則は、「宗教対立」を逃れてヨーロッパから「新大陸」へ
渡った人々が、信教の自由を保障するために、公権力が特定の宗教
を支持或いは排除しないよう求めたことに由来します。言ってみれば
「アメリカン・スタンダード」です。GHQの「マッカーサー憲法」がこの
原則を含んでいるのも、一つはそのためです。
さらに、以前にも何度か触れましたが、GHQの「神道指令」、天皇の
「人間宣言」と併せて、憲法の政教分離規定は、日本の軍国主義の
精神的支柱であるとされた「国家神道」と国家権力を切り離すことを
目的に盛り込まれたものです。
それにしても、松尾さんが本気でそう思ってらっしゃるのなら、公明
党=創価学会と手を組み、キリスト教右派の「容喙関与」を受け入れ
ているブッシュ大統領と盟友の小泉首相こそ、「不倶戴天の敵」では
ないかと思うのですが、どうなんでしょうね。
前提が誤っていますから、後段も当然誤りです。

続いて2番目ですが、これは「大日本帝国憲法」に限れば、ほぼ妥当
すると思います。正確に言えば、パーツの一つどころか、両者は一体
であると言えるでしょう。
現憲法も手続き上は明治憲法を「改正」したものですので、無関係で
はない、と言えなくもありませんが・・・。上で述べた通り、現憲法は
神道との断絶を意図して作られていますので、これも誤りですね。
ただし「実質的」というのが、憲法そのものではなく、もっと根源的な
この国のありようを指したものだとすれば、分からなくもありません。

長くなりましたので、続きはまた明日。

最高裁の存在意義

2006年06月24日 00時01分24秒 | 時事・社会
最高裁、憲法判断せず 小泉首相靖国参拝訴訟 (共同通信)

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反し、
精神的苦痛を受けたとして、日韓の戦没者遺族ら278人が国と小泉首相
らに損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が23日、最高裁第2小法廷で
あった。
 今井功裁判長は「参拝で原告らの法的利益が侵害されたとはいえな
い」として原告の上告を棄却した。原告敗訴の2審大阪高裁判決が確定
した。参拝の公私の別や憲法判断はしなかった。
 歴代首相の靖国参拝をめぐる訴訟で最高裁判決は初めて。損害賠償
請求の前提となる「被害」が否定され、同様の訴訟で今後、地・高裁が
憲法判断に踏み込まない傾向が強まりそうだ。


信教の自由を巡っては、「目的効果基準」を打ち出した津地鎮祭訴訟や
自衛官合祀拒否訴訟、箕面忠魂費訴訟では合憲、愛媛玉串料訴訟で
は違憲と、これまで最高裁は憲法判断を回避してきませんでしたので、
今回どのような判断を下すか注目していたのですが、見事に逃げました。
先日も、光市の母子殺害事件の上告審で、高裁差し戻しを決定しました
が、通常差し戻し審で最初の時と同じ判決が出ることは無く、事実上の
死刑判決と受け止められています。それなら何故、最高裁自身が死刑
判決を出さなかったのでしょう。私は死刑制度には基本的に反対の立場
ですので、この事件に関しては近いうちに稿を改めて論じたいと思います
が、立場の違いは措くとしても、自衛隊や日米安保を巡る「統治行為論」
や、戦争責任など「過去の清算」での時効判断、そして原告の適格性を
理由にした「門前払い」など、最高裁が自らの役割を放棄したかのような
判決が相次ぐことには、強い憤りを覚えます。三権分立なんてのは絵に
描いた餅かも知れませんが、下級裁判所の模範となるような判決を出せ
ない「三番目の裁判所」に過ぎないなら、「最高」裁判所とは言えません。
無責任・モラルハザードがはびこる今日、それを糺すべき最高裁までが
責任回避に走るなら、もはや存在意義は無いと言っていいでしょう。

イラクと自衛隊と牛肉

2006年06月23日 05時30分19秒 | 時事・社会
陸上自衛隊のイラク派遣部隊の「撤収」が発表されました。政府がこの
言葉を使ってから、メディアから一斉に「撤退」が消えてしまいましたね。
ネガティブイメージを消すのに躍起、ということでしょうか。
この間の活動について、「サマワの新生児死亡率が3分の1に減った」
とか「自衛隊が『給水』した水は市民の元には届いていない」とか、様々
な情報が飛び交っています。前者はサマワ母子病院の2002年上半期
データとの比較のようです。だとすると、「イラク戦争」の「開戦前」から、
サマワの衛生環境は非常に悪かったということになります。「復興支援」
とは趣きが異なってきますし、「湾岸戦争」以降の対イラク経済制裁など
の悪影響は無かったのか、十分な検証が必要です。後者については、
例えばフランスのNGO「ACTED」の活動ぶりなどを伝え聞くと、「日本の
自衛隊が給水活動の中心を担った」などという自己宣伝報道はかなり
怪しく思われます。少なくとも、「人道支援」ならば隊員の安全に関わる
最重要事項以外は情報をすべて開示し、きちんとチェックを受けるので
なければ、こうした批判を否定することもできないでしょう。
(会計検査院はイラクまで行って調べることはしないでしょうし。)

一方で、航空自衛隊の輸送業務は活動範囲を拡大します。
安倍官房長官は「空港は非戦闘地域」だとのたまったそうで。さすがは
ポスト小泉。頭の構造がそっくりなようです。
そもそも輸送業務は軍事行動そのもの。要は「兵站」です。何を以って
「非戦闘地域」と言うのか定義が分かりませんが、例えば自衛隊機が
在日米軍の基地間の武器輸送を請け負ったりすることが可能なのか
(そもそも日本がそんなことをする必要があるのか)を考えると、これは
「協力」ではなく立派な連合軍です。そう考えないと辻褄が合いません。

「空自支援拡大は陸自撤収とセット」という指摘は、さすがに日本国内
のメディアでも目にします。が、私にはもう1つセットになっているように
思えてなりません。それは米国産牛肉輸入再開合意です。あまりにも
良すぎるタイミング、そして国民の不安の声を全く無視した、最初から
「結論ありき」だったとしか思えない経過と内容。日米首脳会談への
手土産としてだけでなく、「陸自撤収」でますます高まるであろう米国
の厭戦ムードと対日バッシング(それはブッシュ大統領の支持率にも
影響します)への対応として意味合いを含んでいるでしょう。ブッシュと
小泉はお互いに「唯一の頼れる相手」のようですから。
しかし、600人の隊員の帰国のために全国民の食の安全を放棄したと
なると、「自衛隊員が無事に帰れて良かった」では済まされません。
さらに、空自も海自も「撤収」するには、何を提供しなければならないか
と考えると、先が思いやられます。少なくとも「安倍首相」だとね。

※補記
「空港は非戦闘地域」発言は額賀防衛庁長官でした。
ただし安倍官房長官も「空自撤収は状況を適切に判断して」と述べて
おり、現時点では「問題なし」と判断していることは明らかです。

シエスタ

2006年06月22日 23時18分50秒 | 日記、雑感
このところ、平日は娘を寝かしつけながら寝てしまって、夜中か明け方に
目を覚まし、週末は夜更かし、という生活が定着してしまってます。
春先までは、そこまで眠くなかったのに、何でだろう?と考えましたが、
どうやら早々と夏バテのようです。
月曜日は仕事が休みのことが多くて、今週もそうだったのですが、普段
は溜まっている家事や雑事に追われて、買い物や、たまに映画を観に
行く以外、休みを満喫できずにいます。今週はそれに眠気も加わって、
お昼に「ちょっとひと休み」のつもりが夕方まで熟睡してました・・・。

世間ではW杯の見過ぎで寝不足の人も多いみたいですね。もちろん、
別の理由で寝られない人もたくさんいるのでしょうが。
先日ラジオで聞きましたが、ある調査によると、居眠りや、眠気からくる
集中力・仕事の効率の低下による経済損失は、国全体で年間数兆円
にものぼるのだとか。
それでちょっと思いついたのですが、職場の昼休憩を長くして、みんな
昼寝をするというのはどうでしょう。あ、でもその分終業時間がずれ込ん
だら、やっぱり経済損失が増えるのかな。
オフィス街だと、全員が昼寝をするスペースも無いですかね。エアコンの
効いた部屋の中だと、風邪を引くかも知れませんし。
でも、サマータイムよりはシエスタ導入のほうがいいな、私は。

カメ

2006年06月21日 05時36分21秒 | 時事・社会
ポイントに亀、列車に遅れ 呉線       (中国新聞ニュース'06/6/20)

 19日午後10時半ごろ、呉市安浦町のJR呉線安登駅に入ろうとした三原発
広行き下り普通列車が、構内のポイントが切り替わらず停車。運転士が点検
したところ、体長25センチのクサガメがポイントに挟まっていた。
 電気系統担当の社員が駆け付け、約1時間10分後、ポイントを逆方向に替
えてようやく取り除いた。カメは既に死んでいた。この間、普通列車は現場に
立ち往生。JR西日本広島支社は、乗客七人をタクシーで目的地へ送った。
上り1本も30分遅れ、2本で計60人に影響が出た。
 広島支社によると、カメがポイントに挟まるケースは過去にもあるものの、
「ここまでの遅れが出るのは異例」という。


カメさんにはとんだ災難でしたが、ちょっぴりのどかな話題です。
わざわざ新聞が報じるネタか?というご指摘はあるでしょうが。
それにしても2本の遅れで影響を受けたのが60人って、JR呉線の三原~広
間の利用者は本当に少ないんですね。利用減→列車削減→不便になって
ますます利用者離れ という負の連鎖に、ローカル線はどこも陥っているよう
に思います。呉線は自然災害の影響も受けやすく、すぐ止まりますし。
車窓からの景色は抜群なんだけどな。