Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

平和の祈り

2007年08月12日 23時51分14秒 | キリスト教
毎年8月6日の朝、広島平和記念公園の供養塔前で行われる、広島戦災供養会
主催「原爆死没者慰霊行事」で、市内のキリスト教会教職者が捧げる祈りです。
私の教会でも、8月第一主日の礼拝で毎年捧げられています。

平和の祈り

私たちの主、イエス・キリストの父である全能の神よ。今、私たちは、62年前、
人類最初の原子爆弾の災禍に遭った方々を覚え、あなたの平和を願うために
集まっています。
 神の平和があるように。
あなたは、闇から光を、混沌から秩序を、私たちの住んでいる世界を創造し、
「すべて、よし」とされました。創造の最後に、私たち、人間を、あなたに
かたどって土の塵から造り、いのちの息を吹き込み、知恵を与え、すべての
ものを治めることをゆだねられました。
 み国がきますように
しかしながら、私たちは、あなたから与えられた知恵を共に助け合いながら
生きることに使うことを、おろそかにし、あなたのみ旨にそむき、数々のあやまち
を積み重ねてきました。
 私たちのあやまちを、お赦しください。
人類最初の原子爆弾は、一瞬にして広島の街を廃墟にし、多くの人々を殺し、
傷つけました。今なお、多くの人々が肉体的。精神的に苦しんでいます。犠牲
になられた方々の上に、永遠の平安が与えられますように切に祈ります。また、
苦しんでおられる方々の上に、あなたの愛が注がれて、健康と慰めを与えて
ください。
 私たちを癒し、平安をお与えください。
神の子であるべき多くの民族は、今もなお、お互いに分裂し、争い、憎しみ
あっています。原爆で犠牲になられた方々の死が無駄に終わることなく、恐る
べき破滅に導く戦争の不幸を、再び繰り返させぬ決意を、私たちに与えて
ください。
 平和を実現するものとならせてください。
全能の神よ、あなたの真理と愛に基づいて、正義が行われ、地上に平和を
与えてください。キリストの救いにあずかる私たちを導き、ここに一つとなって、
平和の実現のために、あなたの戒めを守るものとさせてください。
 み国がきますように。アーメン。

(聖句交読)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたち
に与えられた。権威が彼の肩にある。
 その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱え
 られる。

主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
 平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。

face to face

2006年08月27日 23時53分23秒 | キリスト教
娘の熱は今日も下がらず、教会をお休みしました。今日はCS幼稚科の
「夏のお楽しみ会」だったのですが。
看病は伴侶に任せて、私一人で教会へ。青年科リーダーのSさんが今、
ヨーロッパ旅行中なので、私が留守を任されているのです。
でも、ほんのちょっと遅刻してしまいました・・・。

広島で開催中の「国際アニメーションフェスティバル」にボランティアで
参加されている、留学生のCさん(北海道の大学に通ってるそうです)
が、教会に来てくれました。私が遅れたので、最初は中高生科に案内
されてて、結局私もそちらに合流することにしました。
ところがそこで、「じゃあ今日はお任せします」と振られてしまって、さあ
大変。中高生向きの話なんて準備してなかったから、どう進めればいい
のやら、困り果てて何度も立ち往生してしまいました。聞いてるほうも
つまらなかっただろうなぁ。
その時は中高科のリーダーのEさんをちょっぴり恨みましたが、考えて
みればこれもいい訓練。Eさんは私が神学校に行きたいのを知ってるし。
(そこまで配慮したのかどうかは知りませんが。) 中高科がどんな感じ
で、中高生がどういう反応をするのかなど、楽しい発見もあったし。
正直、私も最初は「一緒にやれば楽できるかな」という気持ちもあった
ので、人のことは言えないし。
何はともあれ、無事に終わってよかったです。
Cさんは、今日も務めがあるので、礼拝には出ずに会場に向かいました。
水曜日には北海道に戻るそうなので、たぶんもう会うことはないでしょう。

8月の最後の日曜日は例年、中国地方のバプテストの近隣の教会同士
で「交換講壇」(牧師が違う教会で説教を語る)というのをやっています。
今日の私の教会の説教奉仕は、東広島の「緑の牧場教会」の酒井牧師
でした。学生時代に何度かお邪魔して、いろいろお世話にもなりました
が、最近はすっかりご無沙汰してて、久々に顔を合わせました。
その酒井牧師の説教で、「偶像」についての話が出てきました。
「偶像礼拝」は、聖書の神が最も忌み嫌う罪の一つです。有名な「十戒」
でも、初めの2つの戒めは、
 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
 「あなたはいかなる像も作ってはならない」
となっています。
この「偶像」とは、いわゆる神仏の像に限ったものではなく、「イメージ」
のことです。私たちの心を占めるもの、と言うこともできます。
ところで、「十戒」の第一戒は、原語(ヘブライ語)ではこう書かれている
そうです。
 「あなたは、わたしの顔の前にほかの神があってはならない」
なぜ、神の「顔の前」に「偶像」があってはならないのでしょうか。
それは、神の顔の前にあるべきものは、「あなた」自身であるからです。
私たちの目をふさいで神を見えなくする「偶像」は、神が私たちを見る目
をも妨げるのです。(もちろん全能の神ですから、全く見えなくなることは
無いのでしょうが。)
神は、私たちと「顔と顔を合わせて」親しく交わることを望んでいます。
神は目には見えませんが、私たちが心を神に向け、聖書の御言葉に
基づいた正しい神のイメージを持つならば、神との豊かな関係が生ま
れるのです。

居場所

2006年08月20日 23時53分41秒 | キリスト教
今日の教会学校のテキストは、ルカ福音書14章15節以下の「大宴会の
たとえ」でした。

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で
食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは
言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴
会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意が
できましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。
最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼
させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったの
で、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と
言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は
怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて
来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしました
が、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て
行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者
は一人もいない。』」 (新共同訳)


この箇所は通常、自分の都合を優先して神の招きに応えない者への
警告として読まれるのではないでしょうか。神の愛は無条件ですが、
受け取らなければそれまで。恵みは他の人に与えられてしまいます。
しかし今日の学びでは、最後に招き入れられた「通りや小道」の人々
に焦点が当てられました。
これまで私は、「道行く人」のことだと思い込んで読み流していました
が、実はここで言われているのは、「広場や路地」にいる「貧しい人、
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」よりももっと
下層にいる、住居も持たずに垣根の辺りにたむろして物乞いする人々
や、町に住むことを許されず城壁の外に寝泊りする人々のことなのだ
そうです。社会から排除され、居場所のない人たちだったのです。
そのような人たちを神様は、強引に招き入れる、と聖書は語るのです。

「衣食足りて礼節を知る」と言います。今日では、豊か過ぎることで
却って心が貧しくなることのほうが問題とされますが、生きることに
精一杯で余裕がない人に信仰が持てるか、伝道して意味があるのか、
という疑問は常にあります。
しかしそれが、彼らを退ける理由にはならないのです。むしろ居場所
の無い人々に新しい居場所を、神の家族という関係性を与えるのが
神様の願い=「御心」です。

彼らは初めから招かれていたわけではありません。彼らは「相応しく
なかった」のでしょうか? そうではありません。
よく「選民思想」と言いますが、イスラエルのそれは元々は「全世界
の祝福の基」としての選びです。イスラエルを通して、世界中の人々
が祝福される。イスラエルは、自分たちだけが恵まれるのではなく、
人々に恵みを分かつために用いられる存在であったのです。
このたとえ話で初めに招かれていた人たちにも、それが期待されて
いたはずです。ところが彼らは、その役目を拒否します。神様からの
恵みを自分たちの所有物と勘違いし、神様への感謝も、互いに分ち
合うことも忘れたがために、彼らは大いなる祝福を失うのです。

選別と排除の論理で成り立つ閉ざされた関係性は、神の御心とは
正反対のものです。排除された人たちだけでなく、排除した人たち、
閉ざされた関係の中にいる人たちもまた、本来あるべき関係を喪失
した、本当の意味での居場所を持たない人たちかも知れませんね。
だから福音は、全ての人に宣べ伝えられなければなりません。
信仰の足りない私は、ため息をつきそうになりますが・・・。
いや、それ以前に、まずわが身を振り返って、神様と隣人との関係
を築き直さなければ。

バプテスマ

2006年07月12日 01時44分52秒 | キリスト教
前にも書いたと思いますが、私はバプテスト教会に所属しています。
バプテストとは、バプテスマという言葉から来た名前で、全身を水に
沈める浸礼を最初に主張したプロテスタント教会です。
新約聖書原典のギリシャ語は、もちろん「バプテスマ」なのですが、
具体的な描写は実はあまり多くありません。有名なのは、イエスも
公生涯の初めに受けた「バプテスマのヨハネ」のバプテスマで、これ
は「共観福音書」と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカの三福音書に共通
して書かれています。ヨハネ福音書だけが、イエス自身もバプテスマ
を授けていたことを記しています。そして使徒言行録で、ピリポという
弟子がエチオピアの宦官にバプテスマを授ける場面くらいでしょうか。
尤も、これだけあれば充分と言う人もいるでしょうが。
旧約聖書・列王記で、預言者エリシャがシリア軍の隊長ナアマンの
皮膚病を癒す場面をその起源と考える人もいますが、こうした「身の
清め」の風習(神道の「禊」に近い)とバプテスマとの間には大きな
差異があります。もっと言えば、「ヨハネのバプテスマ」と「イエスの
名によるバプテスマ」の間にも、明白な違いがあります。
「ヨハネのバプテスマ」は、悔い改め、神の前でのへりくだりですが、
そこに「救いの確信」はありません。神の裁きへの恐怖のみです。
しかし、キリストの十字架と復活以降、「大宣教命令」によって弟子
たちが授けるようになった「イエスの名によるバプテスマ」は、罪の
許し、再生、そして永遠の命の希望を与えるものです。

聖書を読む限り、バプテスマの形式は浸礼です。もちろん、全身を
水に沈めることが不可能な状況も時には存在したでしょうから、形
にこだわる必要は無い、という考え方もあるでしょう。しかし、水に
身を沈めることの意味~罪に死んで義に生きるという、救いと復活
の雛型としての意味~を薄め、洗礼を授ける教会や指導者の権威
を必要以上に高める恐れがある(実際、そういう歴史を辿った)滴礼
に対しては、きちんと検証・総括する必要があったと言えるでしょう。
また、滴礼は幼児洗礼とセットになっていた歴史にも留意する必要
があります。新約時代の信者たちは、ほとんど皆が「新たに信じた
人」であり、何世代にもわたる信仰の継承というのは、言及されて
いないという面もありますが、パウロに見られる「割礼」の否定は
本人の自覚的信仰の促しとも理解できると思います。信仰告白に
基づくバプテスマとして、従来の洗礼とは一線を画す意味でも、形
にこだわる必要があったと考えられます。

現代においては、多くの教会で、信仰告白に基づく洗礼・浸礼が
行なわれています。幼児洗礼を残している教会でも、大きくなって
から改めて信仰告白をしたり、「親が子を献げる行為」と位置づけて
本人が希望すれば再洗礼を認めるなど、その意味合いは変わって
きています。

目には目を 後編

2006年07月06日 23時55分29秒 | キリスト教
旧約聖書の「同態復讐法」が「償い」である、ということは、加害者の
主体性を保障している、と理解していいと思います。もちろん、他の
選択肢は許されないわけですが。それは、天地創造において、人間
に自由意志を与え、自らの意思で神に従うよう求めたことに通ずる、
「神の愛」の表れです。
しかし、神は「義なる存在」でもあります。罪を放置・黙認することは
できません。だから「裁き」が発生します。
裁くのは神です。それは、罪とは神に対する罪だからです。誰かを
傷つけたり、命や所有物を奪うことも、創造主・与え主である神の業
を損なうこと、神の御心に反し、その権威を否定することだから、罪
なのです。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐
はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われる」と書いて
あります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ま
せよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に
負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
              (ローマの信徒への手紙 12章19~21節)

自分自身が、また愛する者が、被害を受けた時、加害者に対して
怒りを覚えるのは、自然な感情です。それを否定するつもりは全く
ありません。私自身は、「犯人を殺してやりたい」とは思いたくない
し、思わないだろうと考えてますが、思わなくても殺してしまうかも
知れません。そういう「弱さ」(ノンクリスチャンには誤解を招きそうな
表現ですが、他に適切な言葉が見つからないので・・・)は、私にも、
誰にでもあります。
しかし、それに身を委ねてしまわずに、神に委ねなさい、というのが
聖書のメッセージです。「目には目を」とイエスの「汝の敵を愛せよ」
は、矛盾・対立するのではなく、同一線上にあるのです。自分の
感情や判断に従うのではなく神に委ねることによって、憎しみから
解放されるのであり、その延長(発展系)が「愛敵」なのです。

勘違いしないで頂きたいのですが、「全ての人は、敵を許し、愛さな
ければならない」とか、「信仰があれば必ずできる」などと言うつもり
は毛頭ありません。どんなに心の広い優しい人でも、どんなに冷静
沈着な人でも、どんなに熱心な信者であっても、自分の理性や信心
によって憎しみから解放されること、愛することはできません。神が
介入して、神が働いて初めて、それは実現するのです。

何だか「伝道メッセージ」みたいになってきましたが(笑)、話を元に
戻しましょう。
旧約聖書も、その他の古代法でも、「同態復讐法」は「感情の抑制」
を要求するものです。それは社会の秩序を守る知恵なのです。宗教
的には「心の解放」でもあります。時代が下り、社会が発展すれば
当然、人も法も「発展」を遂げるべきです。
「厳罰化」を求める声は日増しに高まっていますが、重い刑罰を恐れ
て罪を犯さないような人間は、法の目が届かないところでは罪を犯し
ます。刑の軽い罪なら「この程度ならいいか」と犯します。そのような
人間、そうした社会が、未来のあるべき(望ましい)姿でしょうか。
目先の抑止効果を求めるのでなく、罪の問題、心の問題を根本から
解決することを目指すのが、現代人に相応しい対処の仕方だと思い
ます。

目には目を 前編

2006年07月04日 23時59分47秒 | キリスト教
もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、
手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷に
は打ち傷をもって償わなければならない。
                     (出エジプト記21章23~25節)

人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜
を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害
を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には
骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受け
ねばならない。                (レビ記24章17~20節)

あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には
歯、手には手、足には足を報いなければならない。
                           (申命記19章21節)


聖書を読んだことが無い人でも一度は耳にしたことがあるでしょう。
ハムラビ法典にも同様の規定があることを、世界史の授業で習った
という人も多いと思います。
「同態復讐法」と呼ばれるのだそうですが、こんな名称は、専門家で
ないと知らないでしょう。しかし、この規定に対する一般的なイメージ
として、「復讐」という用語は、ぴったりなのではないでしょうか。
「やられたら、やりかえす」 こう理解している人が、少なくないよう
です。
でも、本当の意味は、全然違います。

「同態復讐法」とは、報復の「上限」を定めたものです。
人間、自分がやられたら、それ以上にやり返したくなるものですが、
それを、自分が受けた被害と同程度までで我慢しなさい、というのが
基本的な趣旨です。際限の無い報復合戦=「憎しみの連鎖」を防ぐ
ためのものです。
よくこれをイスラム法になぞらえる言説を目にしますが、そうした理解
も半分は当たっていますが、中東でのテロの応酬のような状況(その
背後の思想)とは正反対のものです。
冒頭に引用した聖句はいずれも、原語(ヘブライ語)では、「一つの
命(目、歯、等々)」と強調されていることからも、それは伺えます。

ハムラビ法は、この規定の対象を「自由人」に限定しています。それ
は単なる身分差別に留まらず、「自由人」としての責任を自覚させる
ため、という意味合いも含んでいるのだそうです。

一方、旧約聖書は、その範囲を拡大しているように読めます。
冒頭に引用した聖句のうち、一番目の出エジプト記のものは、妊婦
を傷つけ流産させた場合の規定に続けて書かれています。それと
上述の規定を直接結びつける接続詞はありませんが、素直に読め
ば23節以下は、その女性に「その他の損傷」を与えた場合、と読む
ことができますし、実際、英語の聖書には主語が「her ~」となって
いるものもあります。
新約時代においてすら女性は数に含まれなかったという社会状況
を考えれば、この規定は女性の人権を認めた最初の法とも言える
かも知れません。

そして、この出エジプト記の規定は「償い」である点にも留意すべき
でしょう。申命記も、引用した新共同訳では曖昧ですが、原語では
やはり「償い」です。レビ記だけは「刑罰」色が強く出ていますが、
いずれにしても、被害者が加害者に「報復」することを容認するよう
な表現を、ここから直接見出すことはできません。
聖書は「報復」を認めてはいない、むしろ禁じていると言ってもいい
かも知れません。それはなぜか、については、長くなりましたので
明日続きを書きたいと思います。

祈祷会

2006年06月29日 22時39分18秒 | キリスト教
昨夜は、約半年ぶりに教会の祈祷会に出ました。
祈祷会は、大抵のプロテスタント教会で、水曜日に(稀に木曜日の
所もありますが)行われている、文字通りみんなで一緒にお祈りを
する集会です。
聖書の学びの時間を一緒に設けている教会が多いですが、基本的
には「クリスチャンのためのプログラム」です。「教会員のため」と
言ってもいいかも知れません。
水曜日というのに聖書的根拠は多分無いと思います。週の真ん中
だから、或いは、大抵の教会の牧師が月曜日が休みで、火曜日に
準備をするから、といったところでしょうか。
出席者は、主婦や、退職された年配の方が多いです。教会の役員
であったり、婦人会で活躍されている方々が主です。なので、次の
日曜日の準備や打ち合わせといった色彩も帯びています。

私が初めて祈祷会に出たのは、大学1年の時でした。教会の牧師
が辞任して無牧となり、祈祷会を担当することになった姉妹(教会
ではクリスチャンは「神の家族」だとして、互いに「兄弟」「姉妹」と
呼びます。)から強く誘われたのがきっかけでした。
祈るのも人と話すのも苦手な私ですが、いい訓練かな、と思って
出てみました。
祈祷会では、教会のため、教会員のための祈りが多く捧げられま
す。祈祷会に出ることで、教会のことや普段あまり話さない教会員
のことも、知ることができました。
今の牧師が来てからは、聖書の学びで、教会学校で採り上げる
箇所の予習をしてくれるので、大変助かりました。
そして何より、一緒に祈ることで、教会の働きに参加していると
実感できたことが嬉しかったです。

一人で隠れて祈るのもいいですが、教会は何のためにあるかと
いうと、助け合うため、励まし合うためです。祈りは神へのお願い
だけでなく、神からの語り掛けを聞く時でもあり、神への賛美でも
あります。だから、プライベートな祈りもあるでしょうが、皆で祈る
祈りもあるのです。
毎週礼拝に集うのと同じです。
そして、教会の祈祷会は、牧師を支えるためのものでもあります。
牧師の働きや教会の業は、教会員の祈り無くしては成り立ちま
せん。神を信じ、祈りの力を信じるなら、皆で一緒に心を合わせて
祈るべきです。たとえ集えなくても、その時を覚えて祈りを捧げる
べきです。だから教会では、毎週決まった時間に祈祷会が持たれ
るのです。

残念ながら私は、結婚してからはほとんど出席できていません。
新婚当初は伴侶の帰りが遅かったので放っては出れなかったし、
その後私も夜働きに出たり、娘が生まれたりで、出れずじまい。
まあ、大抵の人が通る道なんでしょうけど。
娘がもう少し大きくなって、お祈りも夜更かしもできるようになった
ら、家族で行きたいな、と願っています。



ユダの福音書

2006年04月11日 03時54分26秒 | キリスト教
ユダ裏切ってない? 1700年前の「福音書」写本解読

 米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフィック協会」は6日、
1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。
 イエス・キリストの弟子ユダがローマの官憲に師を引き渡した
のは、イエスの言いつけに従ったからとの内容が記されていたと
いう。
 解読したロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は
「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、
内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。
 13枚のパピルスに古代エジプト語(コプト語)で書かれたユダの
福音書は、「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダ
との1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まる。イエス
は、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを
褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子
たちを超える存在になる」と、自らを官憲へ引き渡すよう指示した
という。
 同文書は3~4世紀に書かれた写本で、1970年代にエジプトで
発見され、現在はスイスの古美術財団で管理されている。同協
会が資金援助し、カッセル元教授らが5年間かけて修復、内容を
分析した。
 福音書はイエスの弟子たちによる師の言行録で、実際は伝承
などをもとに後世作られたものと見られている。うち新約聖書に
載っているのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人分だけ。ユダ
の福音書は、2世紀に異端の禁書として文献に出てくるが、実物
の内容が明らかになったのは初めて。
 詳細は、28日発売の『ナショナル ジオグラフィック 日本版』に
掲載される。
               (2006年4月7日3時11分 読売新聞)


受難週の直前というだけでなく、『ダ・ヴィンチ・コード』の映画公開
が近いからでしょうか、日本でもトップニュース扱いでした。
といっても、存在自体は古くから確実視されていましたし、「ユダは
裏切っていなかった」という説もかなり前からありました。(とっくに
否定されています。)今さらキリスト教界に、衝撃も議論も起きない
でしょう。
『ナショナル ジオグラフィック 日本版』によると、「『ユダの福音書』
を含む一連の写本は,紀元180年以前のある時点で成立したギリ
シャ語の原典をコプト語に訳したもので,この写本が作られた年代
は3~4世紀とみられている。」とされていますが、このコプト語と
いうのが少々怪しい気がします。
読売記事にも引用されている「お前は、真の私を包むこの肉体を
犠牲とし」の箇所について同誌は「つまり,ユダがイエスを死に追い
やったのは,イエス自身の望みに従った行為であり,イエスをその
肉体から解き放つことによって,真のキリスト,つまり内なる神が
解放されるというのだ。」と解釈しています。全文を読んだわけでは
ないのでその解釈が妥当かどうか判断が難しいですが、グノーシス
思想の影響は否定できないでしょう。(だからこそ「異端の禁書」に
なるわけです。)

3~4世紀の写本とすれば、歴史資料としての価値はもちろんある
でしょうが、「科学」の名の下に理屈を捏ね回すのが好きな人なら
ともかく、信仰者にとってはあまり意味がある書物とは思えません。
「福音書」とは読売記事にあるようにイエスの「言行録」ではなく、
神の救いの「福音」を宣べ伝えるものだからです。イエスの十字架
の死を「贖い」と理解する福音派も、「苦難の連帯」に留めるリベラル
派にしても、グノーシス的な「解放」を「福音」とは受け止められない
でしょう。『ユダの福音書』は「福音書」の名に値しません。

下手をすると、「殺してやることがその人の救いになる」というカルト
的教理にも発展しかねない内容ですしね。こんなものを「世紀の大
発見」なんてもて囃してるようじゃ、まだまだですね。

棕櫚の主日

2006年04月10日 11時15分05秒 | キリスト教
昨日は、イエスのエルサレム入城を記念する「棕櫚の主日」でした。
プロテスタント教会では、特別何かをするわけではありませんが、
「復活祭(イースター)」前の一週間「受難週」の始まりの日として、
大体どこの教会でもキリストの十字架に関する説教が語られます。
伝承によるとエルサレム入城後の最後の一週間の出来事は
 月曜日 神殿から商人を追い出す「宮清め」
 火曜日 終末の預言
 水曜日 ベタニヤでの香油注ぎ ユダの裏切り
 木曜日 最後の晩餐 ゲッセマネの祈り 捕縛・裁判
 金曜日 十字架刑 埋葬
 土曜日 安息日
 日曜日 復活
といった流れです。
最後の晩餐に先立ちイエスが弟子たちの足を洗った「洗足の木曜
日」と十字架に掛けられた「受難日」、その翌日の土曜日の3日間
は古い教会では重んじられているようです。

また、イエスの十字架上での7つの言葉を7日間に当てはめて、
黙想と祈りを捧げる風習もあります。その7つの言葉とは、
 ①「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らな
  いのです」(ルカ23:34)
 ②「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園に
  いる」(ルカ23:43)
 ③「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの
  母です」(ヨハネ19:26~27)
 ④「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
  (マタイ27:46、マルコ15:34)
 ⑤「渇く」(ヨハネ19:28)
 ⑥「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
 ⑦「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)
で、それぞれ「許し」「救い」「愛情」「苦悩」「苦痛」「勝利」「満足」
を表しています。
弟子に裏切られ、人々に見捨てられて、十字架の上で苦しみなが
ら(十字架刑は「致命傷」を与える刑ではなく、釘で打たれた痛み
と晒し者となった屈辱に耐えながら衰弱死するまで放置する刑で、
発狂する者が少なくなかったそうです)なおこれらの言葉を語った、
それだけでもイエスは「神の子」だと言えるのではないでしょうか。

エルサレムの人々のように、諸手を挙げて歓迎しておきながら、
手のひらを返したようにキリストに逆らったり無視したりしがちな
私ですが、せめてこの一週間くらいは「十字架を負う」ことを片時
も忘れないように歩みたいと思います。

マルクスとキリスト教

2006年03月06日 10時24分12秒 | キリスト教
大学生の頃、同じ教会のある方からこんな話を聞いたことがありました。
かのカール=マルクスが青年時代、キリスト教会を訪ねたことがあった。
しかしその教会のクリスチャンの姿に失望し、キリスト教信仰を持つこと
は無かった・・・。
調べてみましたが、それらしいソースは見つかりませんでした。この手
の話には創作も多いですしね。マルクスがユダヤ人であることはよく
知られていますが、彼の父はプロテスタントに改宗した人で、彼自身も
幼少時は教会に通い、洗礼まで受けていたようです。もっとも、無神論
に転じる過程でかその後に、一縷の望みを抱いて教会を訪ねた時の
エピソードだとすれば、ありえない話ではありません。
この話をされた方は、その教会の人達が愛を持ってマルクスを迎えて
いれば、共産主義は生まれなかったかも知れない、と結んでいました。

この方に限らず、キリスト教会には昔から、反共主義の方が大変多い
ように思います。(今では教会に限らず、共産主義は「過去の遺物」の
ような扱いですけど。)この方は社会的にも信仰の面でもとても立派な
方で、私も尊敬しているのですが、それでも「共産国の脅威から国を
守るために軍隊は必要だ。ロシアも中国も核を持っているし、北朝鮮
も持っているかも知れないから、日本も核武装しないといけない」と
発言する一面も持っています。そこまで極端でないにしても、キリスト
教は西側社会の「自由」体制と歴史的に密接に関わっていますから、
共産主義は問答無用で否定する向きが大勢を占めています。
確かに「共産主義国」の抱える諸問題は、キリスト者としても看過でき
ないものだと思います。しかし、組織や社会制度の問題を、思想の
問題に転化するのはどうかと思います。それは、キリスト教会の罪を
あげつらってキリスト教そのものを否定する非キリスト者の行為と何ら
変わりありません。クリスチャンが「人ではなく神を見てほしい。聖書
を読んでほしい」と言うなら、クリスチャンもまずマルクスを読んでから
共産主義を批判すべきだというのが、私の意見です。
残念ながら、共産主義を深く理解した上で本質の部分を批判している
福音的クリスチャンの方には、ほとんどお目にかかれていません。

クリスチャンによる最も単純なマルクス批判は、『ヘーゲル法哲学批判
序説』の有名な一節「宗教は民衆のアヘンである」を引いて、マルクス
は神を否定しているから誤りである、とするものです。
しかし、同書の別の箇所にもありますが、当時のアヘンは痛み止めと
して使用される医薬品であり、「麻薬」の意で用いられた言葉ではあり
ません。マルクスは、「宗教は対症療法であって根本治療ではない」
と言っているのです。この一節に関する限りでは、マルクスは「神の
存在」は否定していません。宗教の意義も完全に否定しているわけ
ではありません。ただ、社会の矛盾、諸問題の根本的解決に必要な
のは宗教ではない、と言っているのです。
それに対して反論するならば、「神の実在」だけでは不十分です。
「今も生きて働かれる神」「人を動かし世界を変える神」を証しする
ことが求められるのです。