Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

新井選手、FA移籍

2007年11月11日 00時13分21秒 | 趣味
カープファンとしては、ショッキングなニュースでした。
出て行く理由は無いと信じてましたから。
一瞬嫌な予感がしたのは、日本代表合宿に行く前に、山本浩二氏と会った時。
ただ、金本選手の時は球団が山本監督(当時)の人望頼みで、対応が後手に
回ったために、タイガースの熱意に心動かされてFA宣言・移籍となりましたが、
今回は球団は十分誠意を見せ、新井選手も理解はしていましたから。

「地方の貧乏球団」で短期的な補強に踏み切れず、長期的展望に軸足を置く
球団と、限られた選手生命の中で決断しなければならない選手との溝、と中国
新聞は解説していましたが、私には単純なボタンの掛け違えのような気がして
なりません。
「今年で結論を出す。先延ばしはしない」「残留なら宣言しない」・・・そう言って
選択肢をどんどん狭め、結果的に自分で自分を追い詰めてしまい、宣言せざる
を得なくなってしまったのではないかと。
会見では「カープのことが大好きだからとても辛い」と言っていましたが、本当に
熟慮の末に決断を下したのなら、泣かないでほしかったな。熱情的で正直者の
新井選手らしいといえばそうだし、画になる場面を求めるメディアに煽られた所
もあるとは思うけど、ファンが聞きたいのは彼の決意や球団・ファンへの直言で
あって弁解ではありません。球団に非があるわけでもないのにああいう態度を
見せられると、「じゃあ辞めたら」と言いたくなります。

球団は史上最大の大型補強に乗り出す構えですけど、もし黒田投手もメジャー
移籍となれば、カープはもう終わりかな、という気がしないでもありません。
環境のせいにして、自分だけ強いチームに行ければ、カープはどうなっても
(ことによるとチームが無くなってしまうかも知れなくても)いいの?と問いたい
です。
でも、新井選手が出て行ったことで、黒田投手は残留に傾きそうな気もします。
(希望的観測ですが・・・。)もしそうなったら、黒田投手にとっても新井選手に
とっても不幸なことではないでしょうか。意地を張らずにせめてもう1年待てば
よかったのに。

もうひとつ気になったのが、「厳しい環境でチャレンジしたかった」という発言。
これって、「ずっと同じ球団にいると甘えが出てしまう」と言ってFA宣言した江藤
選手にダブって見えてしまいます。カープのみならずセリーグを代表する強打者
だった江藤選手も、働かなくても高給をくれる某球団に移籍してすっかり甘えて
しまい、すっかり落ちぶれてしまいました。
新井選手が噂通りタイガースに移籍するなら、結局金本選手の弟分のままで
一人立ちできずに潰れそうな気がします。
たとえカープを離れても頑張ってほしい選手なので(応援はできないかも知れ
ないけど)、もっと自分を強く持ってほしいです。

佐々岡投手、お疲れさま

2007年11月08日 00時36分18秒 | 趣味
ブログの更新が滞りがちなため、シーズン終了後、かなり間が開いてしまいました
が、毎年恒例のカープの現役引退選手への感謝記事です。

佐々岡真司投手は島根県の浜田商業からNTT中国を経て、1990年にドラフト1位
でカープに入団しました。NTT中国本社ビルは広島市民球場のすぐ隣にあり、
佐々岡投手とカープの相思相愛を語る時によく話題になっていました。
初登板で初先発初勝利を飾りますが、守護神・津田投手の故障離脱でストッパー
に転向。津田が持っていた当時の日本記録(7試合)を大きく更新する、17試合
連続セーブポイントをマークするなど、大車輪の活躍を見せました。
忘れられないのはその17試合目、8/14の対ドラゴンズ戦です。9回表に登板して
同点に追いつかれ、誰もが記録が途切れたと思ったその裏、山本監督にそのまま
打席に送られた佐々岡投手は、ドラゴンズの郭源治投手からサヨナラホームランを
放って記録を伸ばしたのでした。その試合は、珍しく福岡でもラジオ中継されてて、
生で聴いて激しく興奮しました。
シーズン終盤には先発に再転向し、13勝17セーブの好成績を残しましたが、新人
王争いは同じNTT(東京・当時)出身でドラゴンズのストッパーとなった与田剛投手
に敗れました。(セリーグ会長特別賞を受賞。)
翌'91年は、2年目のジンクスとは無縁で、エースとしてリーグ優勝に貢献。17勝を
挙げて最多勝、最優秀防御率の2冠に輝き、MVPと沢村賞も受賞。日本シリーズ
では第4戦でライオンズ相手に8回1アウトまでパーフェクトという快投も見せました。
'92年も12勝を挙げますが、守乱に足を引っ張られて崩れるケースも目立ち始め、
'93年はチームと共に低迷してしまいます。(17敗を喫して最多敗戦となる。)
'94年、衰えが見え始めた大野投手に代わってストッパーとして復活。以降、毎年
のように先発と抑えを行き来するという、他に例の無い「エース」でした。
'03年に100勝100セーブ、'06年には江夏投手以来という先発100勝・100セーブも
達成。「先発に専念していたら、今頃は200勝を達成していたかも知れない」という
声もありましたが、本人は「チームの勝利の為なら、どんな役割でも引き受ける」
と語っていました。
'99年にはノーヒットノーランも達成。無四球は史上3人目の快挙でした。

引退試合となった10/6のベイスターズ戦は、連休で伴侶の実家に帰省したため
市民球場に駆けつけることはできませんでした。
9回2アウトから登板し、村田選手にホームランを打たれるという、彼らしい最後
でした。
翌7日の神宮球場でのスワローズ戦でも、古田捕手の引退試合に「友情出演」で
登板。市民球場では黒田投手から快打を放った古田捕手を見事打ち取り、現役
最後のホールドをマークしました。
球界のために尽力してきたこの2人が揃って引退する年に、両チームが最下位
争いを繰り広げたというのも、皮肉な感じがします。

今後については情報を得ていませんが、しばらく解説者をするのでしょうか。
個人的には、小林コーチに代わって、すぐにでもピッチングコーチになってほしい
ものです。実績・人柄とも申し分ないだけでなく、ブラウン監督にも一目置かれて
いますから。
まあ、それはともかく、18年間本当にお疲れさまでした。

ドラゴンズ 53年ぶり日本一

2007年11月02日 02時54分48秒 | 趣味
近鉄バッファローズの消滅で、プロ野球12球団中最も日本一から遠ざかっていた
中日ドラゴンズが、ついに53年ぶりに日本シリーズを制しました。
53年前、1954(昭和29)年といえば、自衛隊が発足し、『七人の侍』や『ゴジラ』
が公開された年です。ドラゴンズと日本シリーズで対戦したのは、三原脩監督
率いる西鉄ライオンズ。ドラゴンズは戦前からの老舗球団、ライオンズは2リーグ
分裂後に発足した西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併してできたばかり
の新球団でしたが共に初のリーグ制覇でした。シリーズは、ライオンズ打線が
「魔球」フォークの使い手・杉下茂投手に手も足も出ず、ドラゴンズの圧勝でした。
私は、豊田泰光の著書で読んだだけですが、落合監督も当時はまだ生後11ヵ月
だったのですね。いやぁ、なんというか、複雑な気分。

中学時代、仲のよかった友人に熱狂的なドラゴンズファンがいまして、私も熱烈
なカープファンでしたが、「アンチ巨人」で意気投合していたこともあり、ドラゴンズ
はセリーグでカープの次に好きな球団でした。
(パリーグでは一応ホークスに注目していますが、故郷の球団だからといって
贔屓にはしていません。どっちかというとマリーンズのほうが好きかも。)
そんなわけで、他人事とも思えない日本シリーズ制覇なのですが、どうもぴんと
きません。
ひとつは忙しくてプロ野球そのものを見聞きする機会が減ったせいもあります。
新聞やネットで結果は見ますが、若い頃ほど夢中にはなれません。
もうひとつの理由は、「球界再編」騒動以降の迷走ぶりにうんざりしていること
です。カープがそのとばっちりをもろに受けているから、というのもありますが・・・。
3年前に始まったパリーグのプレーオフ制度も違和感ありましたが、プレーオフを
制したチームがリーグ優勝ということで、一応整合性は取れていました。
けれども今年は、リーグ戦とは別個にクライマックスシリーズが設けられ、1年目
からリーグ2位のチームが日本シリーズに出場し、日本一にまでなるという異常
事態。
3位までクライマックスシリーズに出られることで、Aクラス争いが盛り上がって
消化試合が減るだろう、というのが当初の目論見だったようですが、蓋を開けて
みればリーグ優勝争いが注目の的であり、特にセリーグは大混戦となって久々
に「面白い」年だったのは何とも皮肉なことでした。
渡邉恒雄は相変わらず吼え、古田選手兼任監督が去る中で、今後どう転ぶか
分かりませんが、ドラフト問題も含め根本的な部分が変わらなければ、長続き
はしないように思います。

ところで、日本シリーズ最終戦で先発したドラゴンズの山井投手は、8回まで
パーフェクトに押さえていたのに、9回は岩瀬投手に代わったのですね。
読売新聞では関係者のこんなコメントが紹介されていました。

 プロ野球解説者で元阪神監督の安藤統男さんは「これが今年の中日の
スタイルで非情の采配ではない。正解だと思う。ただ、自分が監督であれば、
果たして交代させられただろうか。見事な決断だった」と評価した。一方、
評論家の玉木正之さんは自身のホームページで「百年に一度あるかないか
のすごい興奮の瞬間よりも、53年ぶりの優勝を確実にしたかったというなら
何と小心な夢のない野球か」と怒りを爆発させた。


8回まで抑えたからと言って9回も抑えられるとは限らないのが野球です。
まして山井投手はプロ6年間で完投が2度(完封1)しかなく、岩瀬投手という
絶対的守護神を擁するドラゴンズなら継投は定石でしょう。
2点差なら1人出すまで続投させたかも知れませんが。
勝負に徹したというより、常に最高の形を求めている職人らしさが出た、という
のが真相ではないかと思います。落合監督は選手時代からそういう人でした
から。(私の勝手な思い込みですが。)
カープの前田選手にちょっと似てますね。

渡来ネコ

2007年09月06日 00時56分07秒 | 趣味
兵庫・見野古墳群 猫の足跡が付いた須恵器発見

 兵庫県姫路市の市埋蔵文化財センターは31日、同市四郷町の見野(みの)古墳
群(6世紀末~7世紀中ごろ)の横穴式石室から、猫のものとみられる足跡が付いた
須恵器が見つかったと発表した。副葬品に動物の足跡が残るのは極めて珍しい。
 共同調査する立命館大の学生が杯身(つきみ)と呼ばれる食器(直径15センチ)
の内側に、白く丸い肉球らしき跡が五つ並んでいるのを発見した。
 センターの担当者は「器を焼く直前に偶然、動物の足が付いたと思われる。埋葬
当時は気付かなかったのでは」と指摘。地元の同古墳群保存会メンバーからは
「猫好きの権力者のために作ったのかも」との声も。
                              (2007年09月01日 読売新聞)

古墳時代にネコ渡来? 須恵器に足跡

 兵庫県姫路市四郷町の「見野(みの)古墳群6号墳」から、ネコではないかとみら
れる小動物の足跡がついた6世紀末~7世紀初頭の珍しい須恵器が発掘された。
ネコの足跡とすれば、渡来は奈良時代(8世紀)という通説を覆し、古墳時代に
すでにネコが渡来していたことになり、日本史を塗り替える“新発見”となるかも
しれない。
 足跡は、「杯身(つきみ)」と呼ばれるふた付き食器の内側に、直径約3センチ
ほどのツメのない5つの肉球と掌球とみられる形がくっきりと残っていた。発掘後
に洗浄作業をしていた立命館大の学生が見つけた。
 焼く前の器を乾燥させているときに、偶然踏まれてついたとみられる。調査に
あたった立命館大の南部裕樹講師によると、小動物の足跡が残っている土器が
発掘されるのは「極めてまれ」で、ネコとみられる足跡がついていたことについて
も「見たことも聞いたこともない」と話している。
                          (2007年9月4日 04:09 Sankei WEB)


日本においてネコが文献に登場するのは、『日本霊異記』に、慶雲2年(705年)
に豊前国の膳臣広国(かしわでのおみひろくに)が、死後ネコに転生し、息子に
飼われた、とあるのが最初だそうです。
仏教伝来と共に、経典をネズミの害から守るために連れてこられた、という話は
子どもの頃に聞いた覚えがあります。まあ、ネコ好きにとっては基礎知識のよう
なものですが、その歴史が書き換えられるかも知れません。
日本には、離島を除いて野生のネコ=ヤマネコはいないのだそうです。(つまり
ネコ好きというのは「舶来趣味」なのですね。やっぱり私って・・・。)ですから、
この度のネコちゃんも「渡来ネコ」ということになるわけですが、誰が何の目的で
連れてきたのか、気になるところです。

祝 前田智徳選手2000本安打

2007年09月01日 23時51分29秒 | 趣味
昨日の2安打でリーチをかけて臨んだ今日の試合で、カープの前田智徳選手が
決めてくれました。プロ野球史上36人目、カープでは一昨年の野村謙二郎選手
に続き4人目の快挙です。
熊本工業高校時代から、高校の大先輩で「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治
氏を凌ぐ逸材と高い評価を受け、'90年にドラフト4位でカープに入団。
翌'91年にレギュラーをつかみ、走攻守揃ったリードオフマンとしてリーグ優勝に
貢献。'92年からは江藤智選手(現 ライオンズ)とともにカープの中軸として活躍
し、一時はリーグ最強の強力打線「ビッグレッドマシーン」と呼ばれたこともあり
ました。
私が忘れられないのは、'92年9月13日のジャイアンツ戦での「涙のホームラン」
です。川相選手の打球を後逸してホームまで返してしまい、次の回にチャンスで
回った打席でも凡退して、200勝目前だった北別府投手の勝ちを消してしまった
前田選手。同点のまま迎えた8回、ランナー1人を置いて、石毛投手から決勝の
2ランホームランを放ちました。普段は全く表情を変えない彼が、センターの守備
位置で、そしてホームランを打ってダイヤモンドを一周する時に、涙を流していた
のが、テレビでもはっきり見えました。試合後のヒーローインタビューを拒否した
ことと併せ、ファンの間では伝説となっています。
「天才」の名をほしいままにし、憧れの的であった前田選手でしたが、怪我が
彼の野球人生を狂わせました。
'94年5月17日、ジャイアンツ戦で右肩を脱臼。翌日彼が欠場した試合で、槙原
投手に完全試合を許すというおまけまで付いたこの怪我自体はすぐに癒え、
最終的にリーグ2位の打率を残す活躍をしたものの、ハイレベルの全力プレー
の危険性、そして彼自身が決して強靭ではなく、怪我を避けるようなスマートな
プレーもできないところに、一抹の不安を感じたのを覚えています。
不幸にも予感は的中。'95年5月23日、スワローズ戦で右アキレス腱断裂。
その後の歩みは、スポーツニューなどで散々取り上げられてますので、改めて
書くまでも無いと思いますが、23歳にして選手生命の危機に陥り、以後決して
自分の納得の行くプレーができないということがどれほどのものか、「残酷」の
ひと言で片付けられない重苦しい気持ちになりました。
もちろん、トップクラスで活躍する選手の陰で、多くの選手が夢破れて球界を
去っていく、その中には病気や怪我が原因の選手も少なくないわけですが、
前田選手の場合、あまりに重いハンディと、ファンや首脳陣の過剰な期待を
はねのけて、今日を迎えたことに、恐ろしいまでの凄みを感じます。
正直、「2000本打たせてあげたい。あと○年頑張ってほしい」と願ったことは
ありますが、本当に打てるとは、2年前までは思いませんでした。

今日の試合、3打席凡退し、4-7とリードを許した場面でテレビ中継が終了。
6-7まで追い上げたものの、第4打席も凡退したところで、所用のためラジオ
を切って家を出ました。
今日は、前田選手のためにチーム一丸になっていましたね。大逆転で回って
きた第5打席で、ついに記録達成。
カープの選手のメモリアルゲームでの勝利は、大野投手の引退試合以来では
ないでしょうか。スポーツニュースで結果を見て、鳥肌が立ちました。
試合後、インタビューで前田選手は涙を浮かべていました。私が彼の涙を見る
のは、あのホームラン以来です。
体のことを考えると無理はさせたくないのですが、今日が単なる通過点である
ことを期待してしまいます。せめて新球場ができるまでは・・・。
ともかく、本当におめでとうございました。

浅井選手、町田選手、お疲れさま

2006年10月21日 23時35分11秒 | 趣味
17年間カープひと筋で、球界を代表する「代打の切り札」だった浅井樹選手が
今シーズン限りで現役を引退しました。
今季はブラウン監督が進める若手登用の方針の中、3度の2軍落ちなど出場
機会が激減。当初は他球団への移籍、現役続行に意欲を見せていましたが、
球団が高い打撃理論と豊富な経験からコーチ就任を要請、本人も了承して、
今月14日に球団に申し入れ、16日に正式発表となりました。
同日の今季最終戦が「引退試合」となりましたが、同期の前田選手が4安打
3打点と逆転勝利を呼び込む大活躍で舞台を整えたのに応え、代打での登場
で見事に最後のヒットを放ち、ファンを涌かせてくれました。
1990年、富山・富山商高からドラフト6位で入団。6年目の95年に1軍定着し
ました。ここ一番の場面での勝負強さを買われて主に「代打の切り札」として
活躍。ファーストの守備にも定評がありましたが、外国人や守備に難のある
選手がファーストに入ることが多かったため、規定打席に到達したシーズンは
ありませんでした。通算成績は、出場1070試合、1832打数523安打、52本塁
打、259打点。代打の通算成績は、490打数154安打で打率.314。代打安打
数は現役最多でした。
打席で、アンダーシャツの袖をたくし上げ、太い二の腕を相手投手に見せ付け
る仕草がとても印象的でした。それでいて、バットコントロールが巧みで器用
な打者で、対戦するほうは嫌な相手だったことでしょう。
来季は、2軍または3軍(故障者リハビリ組)のコーチとなることも決まっている
そうです。ということは、朝山コーチは退団? それも寂しいなぁ。

昨年タイガースに移籍した町田公二郎選手も引退を表明しました。
明徳義塾高-専大を経て、92年ドラフト1位でカープに入団。「浩二二世」と
期待されて1年目から一軍入りし、その片鱗を見せた印象に残る場面も何度
となくありましたが、レギュラー定着には至らず、「右の代打の切り札」として
浅井選手のよきライバルであり続けました。
通算955試合出場、85本塁打、272打点、打率.251。セリーグ記録の通算
代打本塁打20本(プロ野球記録は元阪急ブレーブス・高井保弘選手の27本)、
プロ野球記録の代打満塁本塁打4本など、数字以上に印象に残る選手でした。
個人的にはルーキーイヤーに、対スワローズ戦で延長15回に放ったサヨナラ
本塁打が忘れられません。(そういえばあの頃は、午前0時を回るような長い
試合が多かった気もします。)
町田選手は来季、タイガースの2軍コーチ就任が決まっています。

お二人とも、長い間お疲れ様でした。

うさぎ! その4

2006年10月03日 23時22分42秒 | 趣味
実はまだ『モモ』を読んでいない私。この物語が21世紀の小沢健二版
『モモ』だと気づくのに、かなり時間がかかってしまいました。
読んでないから比較もできないわけですが、第4話に至っては、「寓話」
ではなく直接的な文明批判の様相を呈していて、これはもう完全に、
大人向けの物語(「童話」ではない)といっていいでしょう。

うさぎときららには「自然児」的存在を期待していましたが、妙に理性的
で、インテリっぽい感じで、市民運動にいそうな人物に描かれていて、
やや拍子抜けしてしまいました。
資本主義経済の矛盾を暴き立てるのは結構ですが、うさぎときららには
何でもお見通し、といった展開(でも「灰色」と直接対決しているわけで
はない)は、物語としては面白みに欠ける気がします。
物事を客観的に見るのではなく、感情移入できる主人公がいたほうが
理解しやすい、という面を考慮しているのかも知れませんが。
その意味では、例えば今回取り上げられた、「生活に溢れているプラス
チックの問題」にどう向き合うか、なんて考えるにはいいのかも。
ぜひこの物語を小学校の教科書に・・・って、それは無理だろうな。

20時半の男

2006年07月15日 00時25分08秒 | 趣味
元巨人投手「8時半の男」宮田征典氏死去
               (2006年07月14日 nikkansports.com)

 巨人にまた悲しみに包まれた。現役時代にリリーフ投手の代名詞
“8時半の男”と呼ばれ、引退後も巨人など4球団で投手コーチを務め
た宮田征典(みやた・ゆきのり)氏が13日午後2時11分、肝不全の
ため群馬県前橋市内の病院で死去した。66歳。65年にリリーフ投手
として初めて20勝を達成。登板時刻が午後8時半前後だったことから
“8時半の男”の異名が付けられ、巨人9連覇の初年度を支えた。75
年に巨人コーチとなって以降、01年に巨人を退団するまでに4球団で
指導者としても活躍。2月に元監督の藤田元司氏(享年74)の死去に
続き、往年の巨人を支えた功労者がまたしても世を去った。葬儀・
告別式の日程は未定。
 巨人の黄金時代を支えた功労者がまた1人、この世を去った。2月
9日の藤田元司氏の死去からわずか5カ月。今度は“8時半の男”の
異名で親しまれ、引退後も通算15年間、巨人で投手コーチを務めた
宮田氏の悲報。8連敗中でリーグ5位に低迷する巨人にはショックを
一層かき立てる悲しい知らせとなった。
 訃報(ふほう)を知った長嶋終身名誉監督からは「数日前に体調が
良くないとは聞いていましたが…。まだ若いのに早すぎますよ」と
悲しみのコメントが出された。宮田氏の現役時代には三塁を守り、
75年の第1次長嶋政権では投手コーチとして招へい。それだけに
「現役時代、当時は珍しかった抑えの専門ピッチャーをして、V9に
貢献しましたね。監督時代もチームを助けていただきましたよ。残念
ですし悲しいね」と、悲痛な思いをつづった。
 宮田氏は62年に日大から入団。内臓が弱く、長いイニングを投げる
ことに不向きな点を見抜いた当時の藤田投手コーチが「抑え専門」の
新しい形の投手分業制を構想。制球力の良さと「ミヤボール」と呼ば
れたシンカーを武器に65年には69試合に登板。リリーフで19勝を含む
20勝5敗の活躍で異名が定着した。宮田氏の活躍で、今では常識と
なったクローザーの役割が確立されるようになった。
 ただ現役時代から病気がちだったこともあり、翌66年に肝機能障害
を患い3カ月入院するなど実働8年間45勝で終わった。投手として短命
に終わったが“8時半の男”という代名詞は語り継がれた。
 原監督も現役時代から親交が深く大きなショックを受けていた。
「尊敬する偉大な先輩でした。非常に躍動的な姿は今も脳裏に焼き
付いています」と悼んだ。桑田は入団当時の86年に2軍コーチだった
宮田氏と出会い、「壁にぶつかったときマンツーマンで指導してくれ
ました。そのトレーニングがあったから今の僕があると思います」。
エース上原も「お世話になった方ですし…」とつらい心境を口にした。
巨人コーチとして15年間で長嶋、王、藤田政権下で7度のリーグ優勝
に貢献。功労者の訃報に球団関係者もショックは大きかった。
 巨人以外にも日本ハム、西武、中日でも投手コーチを歴任。85年
から2年間在籍した西武では工藤、渡辺久らを中心とした投手王国
づくりに尽力。98年中日では当時ルーキーだった川上も指導した。
巨人、そして球界に多大な功績を残した功労者を、また失った。


「投手分業制」を確立したのは、'60年代にドラゴンズの投手コーチを
務めた近藤貞夫だと言われています。「権藤、権藤、雨、権藤」で
おなじみの(って、若い人は知らないかも知れませんが)権藤博が
酷使のため数年で選手生命を絶たれたことなどから、「先発完投」
から「先発-抑え」の投手起用へ、それも従来の「エース フル回転」
ではなく抑え専任投手の確立を提唱しました。「世界ふしぎ発見」で
おなじみの板東英二をストッパーとして開花させたのも近藤です。
板東の抑え転向も宮田が活躍した年と同じ65年。でも話題になった
のは、ジャイアンツの宮田だけです。
また「分業」に近い投手起用は、それ以前からも行なわれてました。
私は三原脩がその嚆矢ではないかと考えています。
確かに宮田も好成績を残していますが、ジャイアンツの抑えだから、
そして「午後8時半」の登板がテレビに映るからこそ、かくも有名に
なったのだろうと思います。歴史は「作られる」のです。

ところで、私は初めて「8時半の男」という言葉を聞いた時、「ルック
ルックこんにちは」の岸部シローのことかと思ってしまいました。
「午後8時半」じゃ語呂が悪いのでしょうが、せめて「20時半」にして
ほしかったな。

決戦下のユートピア

2006年07月07日 12時18分57秒 | 趣味
『決戦下のユートピア』 荒俣宏著 文春文庫

'95年から'96年にかけて雑誌連載された、戦時下の文化世相史です。
「戦後50年」企画の一環だったのかも知れません。
この手の「歴史こぼれ話」は、下手をすると「たら・れば」の空想物語や
特殊限定的な小エピソードをさも大事件のごとく取り上げるトンデモ本
になりがちで、最後は歴史を修正しようとする人たちにつまみ食いされ
ることもままありますが、そこは博識の文才・荒俣宏のこと、そこらの
興味本位のトリビア本とは大違いの素晴らしい出来です。

各章のタイトルを見てみますと、
 1 結婚せよ母親となれ
 2 女は強しファッションは死なず
 3 赤ん坊も妊婦も戦力なり
 4 少国民は科学教育に育まる
 5 貯蓄せよ報国のあかし
 6 健在なり保険の日本
 7 贅沢と色香を追放せよ
 8 笑いません楽しみません
 9 家庭生活ただいま苦戦中
10 戦火の下にもグルメあり
11 宣伝は逆宣伝なり
12 ペンは剣よりも強かったか
13 心霊は戦争にとりつく
14 かくて宗教は祈れり
15 日本科学は敗れず
と幅は広いのですが、 膨大な資料でしっかり肉付けされています。
決して各分野の「専門家」ではない荒俣の、こうした神業のような
働きには、本当にほれぼれします。

市民生活を圧迫しながら、自分たちの生活は守ろうとする権力者、
それに耐えて逞しく生きる庶民、という構図は、実は当時も今もそう
変わらないのかも知れないなぁ、と感じながら読みました。
とりわけ興味深かったのが、貯蓄と生命保険に関する章です。総力
戦において国民はここまで犠牲を強いられる、ということを、戦争に
反対しない人たちは分かってるのかな?

カメラ

2006年07月01日 23時23分16秒 | 趣味
父がカメラ好きで、兄や私が小さい頃に写真や8ミリをいっぱい撮って
くれてたし、昔の、タバコ箱くらいの小さなカメラをもらって、おもちゃ
代わりにしていたこともあって、私も何となくカメラ好きです。持ってる
カメラも、腕も、大したことはないのですが・・・。
自分のカメラを初めて買ったのは、大学を出てから。京セラの8000円
くらいのコンパクトカメラです。一応2倍ズーム付き。
それまでは、人に撮ってもらうか、レンズ付きフィルムでした。
あれから10年ちょっとで、誰もがデジカメやカメラ付き携帯を持つ時代
になったんですから、すごいですね。
そういう私も、2年前にデジカメを買いました。NikonのCOOLPIX3200。
320万画素で光学3倍ズームです。
当時の市場価格が2万円台半ばだったのに、なぜか鹿児島県鹿屋市
のヤマダ電機で15000円で売られていて、即決で買いました。
38mm~115mmなのですが、コンパクトカメラの35㎜より広角のような
気がします。接写もできるし、便利ですよね、デジカメって。

デジカメだと、後から簡単に編集・削除できるので、撮影枚数が激増
しました。それまでも、娘の写真は結構撮ってましたが。
ただ、枚数撮っても、簡単には上達しません。デジカメだと狙ったタイ
ミングで撮れない(シャッターを押してから実際に撮るまでラグがある)
とか、ピントや露出の調整が上手く行かない時があるとか、もうちょっと
ズームがあればとか、三脚が無いから駄目なのかなとか、自分のこと
は差し置いて機械のせいにしたりして・・・。
いや、でも、私が今までで一番上手く撮れたと思う写真は、一眼レフで
撮った写真なのです。一眼レフの味を占めているので、どうもコンパクト
だと満足できなくて。

私が使った一眼レフは、父の愛用品だったOLIMPUSのOM10です。
望遠レンズを付けていたので、迫力ある写真が撮れました。
自動露出の初心者向け機種だったらしいですが、あの当時(というか
今でも?)一眼レフ持ってるだけで、既に初心者ではないような感じ
がしたものです。(と言ってる私が初心者でしたが・・・)
一眼レフはピントを合わせるのが大変、というイメージがありますが、
蓋を外してシャッター押すだけのカメラでなければ、コンパクトやデジ
カメも起動するのにそれなりの時間がかかるわけで、慣れればそう
気になりません。
それに、あの重量感・質感がいいんですよね。

で、どうしても欲しくなって、数年前に父におねだりして譲ってもらう
ことになったのですが、しばらくしまい込まれていたそのカメラを取り
出してみると、ボディーもレンズもカビだらけ・・・。クリーニングしても
完全除去は難しそうで、買い換えたほうがいいだろうと、泣く泣く処分
しました。(TT)
でも、やっぱり欲しいな、一眼レフ。