Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

責任転嫁の「強がり外交」

2006年08月29日 23時50分17秒 | 時事・社会
加藤紘一議員の実家放火事件にようやくコメントしたかと思えば、
またしても話をすり替えて、「マスコミもよく考えた方がいい。よそ
の国から煽り立てられ、またよその国を煽り立てる報道は戒めた
方がいい」などとのたまった小泉首相。
「開き直りというか、総理として今日の言動が結果としてどういう
ことをもたらすのかをまったく無視して、『何が悪いんだ』という類
のいつもの彼の言い方だ」という小沢・民主代表の指摘ももっとも
ですが、「よその国」を連発し安直なナショナリズムに訴える手法
が、今回の事件にも影響している可能性も見落とせません。
これまでにも書きましたが、靖国問題は基本的に国内問題です。
他国からの批判を撥ね付けるための方便として言うのではなく、
よそから指摘されるまでもなく日本人が自ら向き合うべき問題で
ある、という意味においてです。「中国や韓国が問題視するから」
ではなく、厳然として問題は存在するのです。
しかし今日はそのことはひとまず措いて、「中国や韓国の指摘」
の「正当性」について述べたいと思います。

多くの人が指摘するように、中国・韓国が日本の首相の靖国参拝
に抗議するようになったのは、1985年の中曽根首相「公式参拝」
からです。私はこれは、それまでの「私的参拝」なら黙認してきた
けれども「公式」となると、日本政府として「A級戦犯」を崇拝した=
戦争責任を否定したことになり、黙ってはいられない、ということだ
ろうと理解しています。
問題はこの後です。
水面下でどういう交渉がなされたのか明らかではありませんし、
単に冷却期間をおこうとしただけかも知れませんが、これを最後に
中曽根首相は在任中、「私的」も含め一切の参拝を取りやめます。
竹下以降、後任の歴代首相も、'96年に橋本首相が参拝するまで
一度も参拝しておらず、橋本首相も内外の抗議を受けて一度切り
でやめています。
つまり、中国・韓国の抗議の結果、「公式参拝」は取りやめて「私
的参拝」のみとする、とはならずに、一切の参拝をやめてしまった
わけです。交渉の結果か、時間稼ぎだったのか、中曽根首相の
「風見鶏」ぶりの表われか分かりませんが、理由はどうあれ、参拝
をやめたという結果が残ったわけです。中国・韓国にしてみれば、
それが自分たちの抗議に対する日本の回答、と受け止めても何の
不思議もありません。
そうなると、たとえ「私的」にせよ首相の靖国参拝が復活すれば、
中国・韓国としては抗議せざるをえないわけです。黙認することは、
せっかく得た「成果」を手放すことになるわけですから。本音では
どうかということは抜きにして、外交上の常識として、中国・韓国が
靖国参拝に抗議するのは当然のことですし、筋も通ってます。
これは、「どちらが正論か」といったこととは次元の違う問題です。

ですから、仮に中国・韓国の主張が理不尽だと感じ反発を覚えた
としても、批判すべきは中曽根以下、森前首相までの歴代首相や
自民党であって、それを抜きに中国・韓国を批判するのは、責任
転嫁以外の何物でもありません。
勇ましいポーズでナショナリズムを煽るのが「リーダー」だと誤解
している人が、政界にもマスコミにも、市井にも多いようですが、
国民に対して「国益」を損なった責任を取らず、「敵」を作り上げて
国民の目を逸らす姑息なやり口が、真の「リーダー」に相応しいか
どうか、今一度考えてみてほしいものです。

オクラ

2006年08月28日 22時14分44秒 | 日記、雑感


オクラの花を初めて見ました。
我が家の庭も、バラエティ豊かになってきてます。
(食べ物ばかり、という話もありますが・・・。)

今年は、シソの繁殖力のすごさにも驚かされました。
畑を独占していたイチゴの蔓を刈り込んだら、そこがあっという間に
シソ畑になってしまいました。
さらに自転車置き場や花壇、隣家の玄関先にまで進出しています。
(だけどなぜか、隣家のどくだみは我が家に来ないんだよな。)

身近な自然にも、知らないことはまだまだいっぱいあるのですね。

今日も熱で、保育園をお休みした娘も、ようやく回復してきました。
予定をキャンセルして一日中娘と一緒にいた私に、うつったかも知れ
ませんが・・・。

face to face

2006年08月27日 23時53分23秒 | キリスト教
娘の熱は今日も下がらず、教会をお休みしました。今日はCS幼稚科の
「夏のお楽しみ会」だったのですが。
看病は伴侶に任せて、私一人で教会へ。青年科リーダーのSさんが今、
ヨーロッパ旅行中なので、私が留守を任されているのです。
でも、ほんのちょっと遅刻してしまいました・・・。

広島で開催中の「国際アニメーションフェスティバル」にボランティアで
参加されている、留学生のCさん(北海道の大学に通ってるそうです)
が、教会に来てくれました。私が遅れたので、最初は中高生科に案内
されてて、結局私もそちらに合流することにしました。
ところがそこで、「じゃあ今日はお任せします」と振られてしまって、さあ
大変。中高生向きの話なんて準備してなかったから、どう進めればいい
のやら、困り果てて何度も立ち往生してしまいました。聞いてるほうも
つまらなかっただろうなぁ。
その時は中高科のリーダーのEさんをちょっぴり恨みましたが、考えて
みればこれもいい訓練。Eさんは私が神学校に行きたいのを知ってるし。
(そこまで配慮したのかどうかは知りませんが。) 中高科がどんな感じ
で、中高生がどういう反応をするのかなど、楽しい発見もあったし。
正直、私も最初は「一緒にやれば楽できるかな」という気持ちもあった
ので、人のことは言えないし。
何はともあれ、無事に終わってよかったです。
Cさんは、今日も務めがあるので、礼拝には出ずに会場に向かいました。
水曜日には北海道に戻るそうなので、たぶんもう会うことはないでしょう。

8月の最後の日曜日は例年、中国地方のバプテストの近隣の教会同士
で「交換講壇」(牧師が違う教会で説教を語る)というのをやっています。
今日の私の教会の説教奉仕は、東広島の「緑の牧場教会」の酒井牧師
でした。学生時代に何度かお邪魔して、いろいろお世話にもなりました
が、最近はすっかりご無沙汰してて、久々に顔を合わせました。
その酒井牧師の説教で、「偶像」についての話が出てきました。
「偶像礼拝」は、聖書の神が最も忌み嫌う罪の一つです。有名な「十戒」
でも、初めの2つの戒めは、
 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」
 「あなたはいかなる像も作ってはならない」
となっています。
この「偶像」とは、いわゆる神仏の像に限ったものではなく、「イメージ」
のことです。私たちの心を占めるもの、と言うこともできます。
ところで、「十戒」の第一戒は、原語(ヘブライ語)ではこう書かれている
そうです。
 「あなたは、わたしの顔の前にほかの神があってはならない」
なぜ、神の「顔の前」に「偶像」があってはならないのでしょうか。
それは、神の顔の前にあるべきものは、「あなた」自身であるからです。
私たちの目をふさいで神を見えなくする「偶像」は、神が私たちを見る目
をも妨げるのです。(もちろん全能の神ですから、全く見えなくなることは
無いのでしょうが。)
神は、私たちと「顔と顔を合わせて」親しく交わることを望んでいます。
神は目には見えませんが、私たちが心を神に向け、聖書の御言葉に
基づいた正しい神のイメージを持つならば、神との豊かな関係が生ま
れるのです。

こうよう夏まつり

2006年08月26日 23時03分18秒 | 日記、雑感
今日は娘の保育園の夏まつり。
いろいろあって、ギリギリになって慌てて家を出たので、カメラを
忘れてしまいました。
天候不良で順延となった「こうよう夏まつり」と重なってしまい、
太田川の土手の道路が通行止めとなるため、今回はちっょぴり
短めで、まだ日が出てるうちに終了となりました。
敷地は狭いのに園児数が多くて、身動き取れないくらいの混雑
なのですが、娘は十分楽しめたようです。昨日から熱を出してた
んですけど・・・。

夜は、「こうよう夏まつり」の花火を見に行きました。
隔年で行なわれるこの祭り、私は初めて見ました。
会場は川の向こう岸。車が使えないし、橋からは遠くて、こちら
からはただ花火を見るだけ。露店が無いので娘は不機嫌でした。
それほど大きな玉でなくても、間近で見る花火は迫力満点です。





いつものごとく、すぐに「帰りたい」と言い出す娘。
家に入った途端、連発の大音響が・・・。一番おいしい部分は
いつも見逃しちゃうんですよね。いつになったら、気兼ね無しに
ゆっくり花火を見れるのやら・・・。

キングコングの逆襲

2006年08月24日 23時59分07秒 | 日記、雑感
『キングコングの逆襲』(1967年東宝)
  あらすじ
海底油田の調査を行なっていた国連の原子力潜水艦エクスプロアー
号は南海のモンド島近くで故障し、カール・ネルソン司令官、野村次郎、
スーザン・ワトソンの3人は、巨大な類人猿キングコングが棲むと伝え
られるその島に上陸した。彼らに警告を発した原住民に接触しようと、
ネルソンと野村が奥へ進んだ間に巨大爬虫類ゴロサウルスが現われ、
スーザンを襲う。しかし彼女の悲鳴を聞きつけたコングがその前に立ち
はだかり、ゴロサウルスを撃退する。コングはスーザンに好意を示し、
彼女を連れ帰ろうとするが、スーザンは拒絶。なおもスーザンを慕い、
巨大海ヘビを蹴散らし潜水艦にしがみついたコングだったが、彼女の
説得に応じ、未練を残しつつ見送った。
一方このコングを生け捕りにしようと狙っている一味がいた。悪の天才
科学者ドクター・フーと、某国諜報部員マダム・ピラニアである。彼らは
北極圏の氷土に眠る核兵器製造用の物質エレメントXを手に入れ世界
征服を企んでいた。フーはコングに似せて造ったロボット・メカニコング
に採掘させるが、強力な磁気によりメカニコングが作動不良を起こして
しまう。そこで彼らはコング自身に採掘させようと考えたのだった。
調査隊の報告によってコングがスーザンに惚れていると知ったマダム・
ピラニアは、彼女らを誘拐してコングを操作させることを提案。しかし
フーは、捕獲したコングに催眠術をかけて操る。作業は順調に進むか
に見えたが、エレメントXの放つ光で正気に返ったコングはフーの秘密
基地を襲撃する。
一方、再調査のためにモンド島に戻ったネルソンたちは、コングが連れ
去られたことを知り、捜索のために一旦日本に向かうが、途中フーの
手下に捕えられ秘密基地に連れて来られる。フーの拷問によって窮地
に陥る彼らだったが、ゲートを突破したコングが基地を破壊したおかげ
で一命を取り留める。そして海に逃げたコングの後を追うフーの船から、
負けを認め観念したマダム・ピラニアの手引きにより脱出する。
コングは東京に現われていた。市街戦を回避するためスーザンが説得
に向かうが、あと一歩のところでメカニコングが現われ、ついに決戦が
始まってしまう。さしものコングもメカニコングには歯が立たず追い込ま
れる。スーザンもメカニコングに捕えられ、絶体絶命。
そして両者の決戦の舞台は、東京タワーへ・・・。


東宝創立35周年を記念した海外合作の大作です。
30周年記念作品が「キングコング対ゴジラ」で、タイトルにも「逆襲」とあり
ますが、別に続編というわけではありません。
馬淵薫の脚本がいいのか、粗も矛盾も無い展開は見ごたえがあります。
「怪獣も出てくるドラマ」といった趣きの、大人が楽しめる作品です。
難を言えば、キャスティングに問題あり。宝田明は相変わらずの大根ぶり
だし、ボンド・ガール(コング・ガール?)浜美枝には悪役は不向きですね。
悪役に徹し切れないところを狙ったのかも知れませんが。
怪獣が20mと小柄に設定されたおかげで、ミニチュアシーンも迫力倍増
です。東京タワーの最終決戦は最高。ただし、何故タワーに昇らなければ
ならなかったのかは不明ですが・・・。

なぜか日本語を解するコング。スーザンの命令に従って、最後はフーの
船を沈めてしまう従順ぶり。国連は怖いもの無しですね。
目がぱっちりで間抜け顔だし、野生動物というより番犬といった感じ。
造型の問題ではなく、コングの位置づけに問題がありそうです。

同時上映は『長編怪獣映画 ウルトラマン』だったそうです。子どもには
こっちのほうが受けたんだろうな。

処暑

2006年08月23日 23時55分19秒 | 日記、雑感
暦の上ではとっくに秋を迎え、今日は二十四節気の「処暑」だそうです
が、厳しい残暑は一向に衰える気配がありません。これからもずっと
こうなのでしょうか。涼しい国に引っ越したいです。
暑さのあまり、「処暑」と聞いて「処暑聞啼鳥」などと、とぼけたことを
考えましたが、聞こえるのは騒がしい蝉の声ばかり。ああ、暑苦しい。

今日も体調不良。午前中で仕事が終わったので、午後は家でぐったり
していました。頭が熱くて痛くて、体がだるくて、でも熱は無い状態。
昨晩録画したドラマ「最後のナイチンゲール」を見ようかとも思いました
が、そんな元気も無く、レンタルしてあった『キングコングの逆襲』を
見ながら布団に横になってました。テープが古かったらしく、巻き戻し
たら切れちゃった・・・。>< (後でくっつけました)
夕方帰ってきた伴侶に症状を訴えたら、「熱中症じゃない?」と言われ
ました。そうか、熱中症ってこんな病気なんだ。

友人のブログのリンク先を見ていたら、同じ大学の同期の人のブログ
がありました。
大学卒業後、米国留学中にクリスチャンになって、宣教師をされて、
今は日本に戻ってミッショナリー起業にチャレンジされてるそうです。
そんな人と同じキャンパスにいたなんて、ちょっとびっくり。
現在岡山在住だそうで、もしかしたらそのうち会えるかも。
神様のなさることは、本当に不思議です。
それに引き換え、私が大学時代にしたことといえば・・・。
一応、聖書研究会とかやってたんですけどね。私の在学中に、2人
の学生が信仰を持ちましたが、私はノータッチ。昔も今も、伝道とか
証しとかは苦手です。幸い、つまづきにもならずに済んだようですが。
まあでも、そんな私にも献身の思いを与えられるのですから、神様の
なさることはやっぱり不思議です。まだ道は開かれませんが、「人生
これから。今までの分も取り返すぞ」という気持ちはずっと持ち続けて
いたいと思います。

ゲゲゲの鬼太郎

2006年08月22日 23時46分10秒 | 映画・ドラマ


福屋広島駅前店の「水木しげるロード展」に行ってきました。
水木しげるロードには、昨年夏に行って、妖怪ブロンズ像を見て
きましたので(夜訪ねたので、記念館には入れませんでしたが。
昨年8月30日の記事参照。)、像や原型の展示にはさほど感動
しませんでしたが、「東海道五十三次」のパロディ画集「妖怪道
五十三次」があまりに素晴らしくて、興奮しました。物販コーナー
に本も置いてありましたが、持ち合わせが無かったので今回は
パス。でもいつか買って手元に置いておきたい一冊です。

私は、鬼太郎の第二シリーズ(1971~72年放送の最初のカラー
版)の再放送を見て育った世代です。エンディングの「カランコロン
の歌」は、ある年齢層の人なら一度は耳にしてると思います。
記憶が正しければ、幼稚園の頃から見ていたはずです。覚えて
いるのは、「目目連(もくもくれん)」と「隠れ里」の回です。
白黒版はまだ見たことがありませんが、この第二シリーズは、
原作と同じタッチの画と、同時代の雰囲気がそのままの作風が、
私は好きです。「アンコールワットの亡霊」や「イースター島奇談」
といった冒険譚風の話も結構好きでした。あと、必ずしも「不死身
のヒーロー」でなく、ラストもすっきりしない辺りも。(これは私が
ひねくれてるだけかも知れませんが・・・。)
第三シリーズになると鬼太郎ファミリーの勧善懲悪劇の要素が
前面に出て、なんかつまらなかったんですよね。夢子ちゃんも、
物語をロリータ系に変えてしまったような気がするし。
第四シリーズは、当時テレビを持ってなかったのもありますが、
もう見る気がしませんでした。
現代に妖怪が似合うかどうかはともかく、鬼太郎のキャラクター
や物語は、やはり'70年代までしか通用しないように思います。

居場所

2006年08月20日 23時53分41秒 | キリスト教
今日の教会学校のテキストは、ルカ福音書14章15節以下の「大宴会の
たとえ」でした。

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で
食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは
言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴
会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意が
できましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。
最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼
させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったの
で、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。
また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と
言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は
怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて
来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしました
が、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て
行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者
は一人もいない。』」 (新共同訳)


この箇所は通常、自分の都合を優先して神の招きに応えない者への
警告として読まれるのではないでしょうか。神の愛は無条件ですが、
受け取らなければそれまで。恵みは他の人に与えられてしまいます。
しかし今日の学びでは、最後に招き入れられた「通りや小道」の人々
に焦点が当てられました。
これまで私は、「道行く人」のことだと思い込んで読み流していました
が、実はここで言われているのは、「広場や路地」にいる「貧しい人、
体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」よりももっと
下層にいる、住居も持たずに垣根の辺りにたむろして物乞いする人々
や、町に住むことを許されず城壁の外に寝泊りする人々のことなのだ
そうです。社会から排除され、居場所のない人たちだったのです。
そのような人たちを神様は、強引に招き入れる、と聖書は語るのです。

「衣食足りて礼節を知る」と言います。今日では、豊か過ぎることで
却って心が貧しくなることのほうが問題とされますが、生きることに
精一杯で余裕がない人に信仰が持てるか、伝道して意味があるのか、
という疑問は常にあります。
しかしそれが、彼らを退ける理由にはならないのです。むしろ居場所
の無い人々に新しい居場所を、神の家族という関係性を与えるのが
神様の願い=「御心」です。

彼らは初めから招かれていたわけではありません。彼らは「相応しく
なかった」のでしょうか? そうではありません。
よく「選民思想」と言いますが、イスラエルのそれは元々は「全世界
の祝福の基」としての選びです。イスラエルを通して、世界中の人々
が祝福される。イスラエルは、自分たちだけが恵まれるのではなく、
人々に恵みを分かつために用いられる存在であったのです。
このたとえ話で初めに招かれていた人たちにも、それが期待されて
いたはずです。ところが彼らは、その役目を拒否します。神様からの
恵みを自分たちの所有物と勘違いし、神様への感謝も、互いに分ち
合うことも忘れたがために、彼らは大いなる祝福を失うのです。

選別と排除の論理で成り立つ閉ざされた関係性は、神の御心とは
正反対のものです。排除された人たちだけでなく、排除した人たち、
閉ざされた関係の中にいる人たちもまた、本来あるべき関係を喪失
した、本当の意味での居場所を持たない人たちかも知れませんね。
だから福音は、全ての人に宣べ伝えられなければなりません。
信仰の足りない私は、ため息をつきそうになりますが・・・。
いや、それ以前に、まずわが身を振り返って、神様と隣人との関係
を築き直さなければ。

風邪に

2006年08月19日 23時59分03秒 | ヒロシマ
「お薬博物館」というサイトで紹介されていた、トンデモ薬です。
その名も「ピカトン」(富山県黒部市産。1包40円。)



そして「ピカドン紙風船」 (奈良県高市群高取町産。)



以下、サイトの説明文の引用です。
超過激なパッケージの代表です。時あたかも朝鮮戦争(1950~
1953年)の頃か? 朝鮮半島のあたりで原爆(というより水爆)が
爆発しているデザインでしかも名前が(ちょっと遠慮して)ピカトン。
ちなみに手元にあった広辞苑を紐解くと、ぴかどんとは・ぴかは
閃光。どんは爆発音。原子爆弾の俗称。被爆当時に広島の子供
が使い始めた語。一方紙風船の方はそのものズバリのピカドン。
しかも爆風で髪がたなびいたような絵という、どう見ても広島や
長崎では売れなかった置き薬と思われます。


何とコメントすればいいのやら・・・。

人類総ザンゲの日

2006年08月18日 23時50分25秒 | ヒロシマ
私が広島に住み始めて最初にショックを受けたのは、こんなプレート
を見た時でした。



旧市内の、古い民家が立ち並ぶ町なら、あちこちで見られます。
イデオロギー抜きの、ヒロシマの心です。
靖国にしか興味のない(それとて、本心か政治的打算か分かり
かねますが)小泉首相には、理解できないかも知れませんが。
あ、それ以前に、見てないか。式典が済んだらすぐ帰っちゃうし。