左右は固体であるが中央には空洞がある。俯瞰では決して見えない在るが無い空洞であり、潜んでいると言ってもいいかもしれない。
無いものは有るものよって隠されているが、無いものは、そのまま無いのではない。
社会における亀裂、隠されたものの存在。
物(景色)の在り様を精神性に置換して考える、あるいは見るならば、硬質のざらつきや連続性は、本来通過すべき時空を妨げている。そしてむしろ、挟まれた不明な空間、暗渠によって救われているとさえ思われる。
この大胆なモデルは、町であり社会であり世界へとつながっていく。具体性を排除した端的な形態は沈黙しているが、静かに発信している。存在の深い闇は、作品と鑑賞者の眼差しの間に刻まれるので、確定の根拠を見いだせない。すなわち、『不明確性について』の論拠である。
写真は『若林奮ーVALLEYS』(横須賀美術館より)
「あゝさうか。おれのセロの音がごうごうひゞくと、それがあんまの代りになっておまへたちの病気がなほるといふのか。よし。わかったよ。やってやらう。」ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合わせてそれからいきなりねずみのこどもをつまんでセロの孔から中へ入れてしまひました。
「わたしもいっしょについて行きます。どこの病院でもさうですから。」おっかさんの野ねずみはきちがひのやうになってセロに飛びつきました。
「おまへさんもはひるかね。」セロ弾きはおっかさんの野ねずみをセロの孔からくぐらしてやらうとしましたが顔が半分しかはひりませんでした。
野ねずみはばたばたしながら中の子供に叫びました。
☆陰(かくれた)題(テーマ)を描いた記である。
詞(言葉)を号(合図)にした講(話)を注(書き記す)のは、新しい考えである。
描いたことを隠している也。
秘(人に見せないように隠す)談(話)也。
講(話)は信仰を範(手本)とした文(文章)也。
注(書き記すのは)教(神仏のおしえ)である。
しかしですね、仕事が大きくなればなるほど(もちろん、クラムの仕事は、いちばん大きいのですが)外部にたいして身を守る力が、それだけすくなくなる道理ですその結果、どんなに些細な事柄の、どんなに些細な変更にでもこころを乱されることになります。
☆しかし、現場不在が多くなればなるほど(クラム(氏族)の現場不在は明らかに多い)外の世界に対する気力がますます失せ、その結果、全く重要でない変化にも重要でない事情にも本気が失せてしまうのです。