あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえました。
☆詞(ことば)はっ教(神仏のおしえ)である。
科(過失)の非(あやまち)を、償う果(結末)を運(めぐらせている)。
真(まことのこと)は隠れている。
アマーリアの罰
「さて、わたしどもの手紙の一件で四方八方から質問攻めになったのは、それからすぐのことでした。友人も敵も、知っている人も知らない人も、押しかけてきました。
☆しかしながら、わたしたちの書状類のために四方八方から質問攻めになったのはその後すぐでした。味方も敵も知っている人も他国の人もやってきました。
Oさんは、夏になると山へ行く。山と言っても行楽地まがいの低い山ではなく、切り立った崖を登る冒険家のコースである。
「天童荒太の小説に錆びたチェーンを頼りに山頂へ行くシーンがある」と話したら、
「チェーンはね、当てにしちゃあダメなのよ。もうどうしようもない時、片足だけ掛けるの。そうして残りの二本の手と足の三か所の支えで登って行くの」という。
「・・・」あまりの凄さに応じる言葉を失ったほど。
「でもね、上へ行くのはどんな絶壁でも夢中で登るから、そんなに怖くないの。下りる時よ、本当に怖いのは・・・。でもでも、行きたいの。来年の山の予約もしてあるわ、ほんの十分で締め切られるほどの人気なのよ」
切り立った山、断崖…鷹取山のほんの短い断崖(鎖場)も、上るのはともかく下りるのはもうこりごりのわたし、とても彼女の話には呆然とするばかり。
「わたしもあと二、三年てとこね」と笑った彼女に、ただただ憧憬と畏怖の念を抱いた情けないわたしでした。
『Fresh Widow』(なりたての未亡人)
不思議なタイトルである。Freshとdieの共存、新しいことは死滅と同時に発生する?誕生と死は表裏だろうか。
なりたての未亡人、夫が死んだ刹那を(Fresh)と呼ぶ…確かに客観的事実である。
そしてこのミニチュアのフランス式窓を『Fresh Widow』と名付ける。(この窓は日本の仏壇もしくは位牌に似ている)
窓には、こちらと異なる世界があるような幻想を抱かせる開閉の仕組みがある。
すでに夫である死者はこの世の人ではない、残された妻の哀しみをフレッシュ(新)と括る感性は、むしろ物理的状況判断であり、黒い革で覆われた窓は空気(世界)の遮断である。
葬送の窓だろうか、死者の魂を留めておきたい閉じた窓なのだろうか。
死は惜別の時である、窓には開く仕掛けがあるが、閉じるものでもある。
窓の持つ魔力、宇宙にも遠くを望む〈宇宙の覗き窓〉と呼ばれるエリアがある。
《ずっと向こうへ逝く魂》と《残された魂》、この離れゆく魂の刹那。窓は一つの象徴かもしれない。
静観の眼差しである。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。
☆鬼(死者)の赦(罪や過ちを許すこと)を注(書き記す)目(ねらい)を等しく弐(二つ)に留めて記している。
わたしたちは、だまっていました。そのころまだ子羊のように若かったバルナバスは、なにか特別ばかばかしいとか、突拍子もないことを言いました。それから、べつの話題になり、この一件は、忘れられてしまいましたの」
☆わたしたちは、だまっていました。当時子羊のように若かったバルナバスは、全くバカバカしい大胆なことを言いました。でも、それからこの事件は忘れられてしまいました。
まだ生きている!って、誰が?
わたしは、まだ生きていることに驚いている。
夢でも幻でもないわたしが、ここにまだ生きている。
生きているというか、生かされているというのか…。
69才、まだまだ生きねばならないのだろうか、明日のことは分からないけど、まだ続きがあるなんて!
これからどのくらい生きるの?
予定が立たない、立てようがない予定だけれど小さな手帳に予定を書き込んでいく。
(もうこれっきりかもしれない)
不穏な空気が胸にうずく。
とりあえず元気出して今日も頑張りましょう、今日あることに感謝して。
(永遠の挑戦者であり続けるために)
『急速な裸体たちに横切られた王と女王』
急速な裸体たちの意味が不明である。裸体たちは二人以上、あるいは群衆であるが、急速という形容に結びつかない。すでに言葉の結合が壊れている。
王と女王を横切るという意味も不明である。一つ一つの言葉(単語)は理解できるが、その羅列には目的も結果も見出せない。
つまり作品も、そういうことなのである。
描かれた線描は意味ありげであり、少なくとも何かの形を想起できないこともないというものの接続である。
鑑賞者は作品の意味を見出そうと思考する。この場合すでに耽美的領域を外し他の概念を当てはめようと試みるかもしれない。しかし、行き着く合意に至ることは不可能である。
なぜならそのように意図して描かれているからで、デュシャンの目的は描いたものを肯定的に鑑賞する眼差しを拒否しているからである。
デュシャンが、作品(タイトル共)を描く、あるいは鑑賞者の前に提示するのは作品そのものを鑑賞させるためではない。鑑賞者と作品の間の亀裂ともいうべき《空気、空虚感、困惑、混沌など》を感知させるためなのではないか。
微妙な虚脱、断絶ともいうべき見えない壁、デュシャンは作品と鑑賞者の間に生じる空気《非存在であるが存在している》を差し出したのだと結論する。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
「さあもう支度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」
あゝそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木といふ風にかかってゐるのでした。
☆詞(ことば)で図る。
現れ転(物事が移り変わること)を、詮(あきらかにする)。
千(たくさん)の化(形、性質を変えて別のものになる)章(文章)は祷(祈り)の講(はなし)である。
自由に弐(ふたつ)を課(割り当てること)が逸(隠れている)。
翻(ひっくり返すこと)は黙っている。普く千(たくさん)の註(意味を書き記す、解き明かす)を、留めている。
常に照(あまねく光が当たる=平等)を運(めぐらせ)換(入れ替わる)互の講(はなし)である。
しかし、なにも紛失物なんかあるわけがありません。そこで、さっきブルーンスヴィックがなにか使者だとか、手紙がやぶられたとかとおいう話をしていたが、おまえたちはその話を知らないか、だれのことなのだろう、どういうことなのだろう、とたずねました。
☆しかしながら、罪科のことは言わず、ブルーンスヴィックが先祖の小舟や証明書を引裂くという話でしたが、あなたたちはその話を知っているのか、どういう関係なのだろう、それによってダメになったのだろうか、と訊ねた。