そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうたう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。
☆伝える等(平等)は秘(奥深くて計り知れない)尊いものである。
赦(罪や過ちを許す)自由な果(結末)の考えの講(はなし)である。
ブルーンスヴィックも、やってきて、下請け職人をやめさせてもらいたいと申し出ました。一本立ちになりたいのだ、と悪びれずに言いました。機を見るに敏な抜け目のない男なのです。
☆ブルーンスヴィックもやってきて、契約解除を通知しました。自立したかったのです。まったく正直で機敏な知力の持ち主でした。
『イメージの裏切り』
パイプを描いて「これはパイプではない」と書く。(これでタバコが吸えますか)と。
This is a pen…これはペンです。教本にはペンが描かれ、英文字がそれを指す。ごく当たり前に認識してきた視覚からの情報の否定。二次元(平面)に写し取られた画像は現物を浮上させ疑う余地のない一致を確信させる。
しかし、それが違うという驚愕のコメント。
わたしたちが容易く、否、確信をもって信じている画像からの情報。その確信を崩壊(否定)させることとは、どんな意味があるのだろうか。
決して崩壊などではなく、真実を衝いているのかもしれない。
〈絵に描いた餅〉という言葉がある。すでに昔から知られた事実を改めて言っているに過ぎないのだろうか。
そうではない、マグリットは『描かれた〈その物〉は〈その物〉である』という認識そのものを覆したのである。描かれた物には、作者の意図が隠されており、パイプであるように描いたけれども、意味は他に内在している。異なる意味の主張が掩蔽されているこの物は「だから、パイプではない」と。
否定には概して大いなる肯定が含まれていて、肯定を導き出す手段である場合もある。
パイプを凝視してパイプを描いたが、「これはパイプではない」と否定することで他の可能性が表出する。
そして、鑑賞者はこの難問を乗り越えようと思考する。この思考こそがイメージを裏切る鍵なのだと思う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「ハレルヤハレルヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞきみんなはそのそらの遠くからすきとほった何とも云へずさはやかなラッパの声をききました。
☆冥(死者の世界)の精(たましい)は陰に掩(かくれているので)、仮に運(めぐらせている)章(文章)である。
ラーゼマンが出いったので、父は、ほかの人たちをそのままにして、あわてて家の入口のところまで追いかけていきましたが、やがてあきらめました。それは、まるで子供たちの必死の鬼ごっこみたいでした。
☆ラーゼマンが出ていき、ほかの人々も後に急いで振り切って行き、それは、まるで恐ろしい遊びのようでした。
このところの急激な気温の低下により、夜中など寒さで目が覚めたりする。
そして今朝は鼻水とくしゃみが…、もともと花粉症だから、そのせいかもしれない。
風邪は万病のもと、出来る限り用心し、撃退したい。若い頃はよく風邪をひき長引かせたが、40歳になったとき、人生も折り返しと思い、気楽に薬に頼ろうと決断したら、すぐに治ったときには驚いてしまった。
風邪薬を常備しているけれど、息子たちの小さい頃にはまだ富山の薬売りの方が定期的に訪ねてきてくれていた。殆ど薬の減らない我が家には足が遠退いてしまったのだと思っていたけれど、全国チェーンの薬屋の展開で廃業したのかもしれない。
風邪をひいても何が何でも納期に間に合わせなければならなかった下請けの外注、夜を徹して仕上げた日のことを思えば、(風邪気味かな)などという感傷は甘い。
明日は吊るし雛作りに追浜のアイクルに行く。人前で鼻水はないから今日の内に治したい。
『罠』
壁面に眼の高さくらいの位置を測って取り付けるべきコートかけを床に釘づけする。つまり用途の剥奪である。
意味をもって作られた物の意味を消失させる無意味な行為、『罠』と名付けられたこの物は人を躓かせるための罠というわけではない。
思考の罠であり、だますというよりは試す、問答のような罠である。
第一に邪魔である、どかすにも釘づけでは避けて通るしかない代物と化しており、誤って踏んでしまうかもしれず、破損をも危惧される設置である。
この有用なコートかけは床に置かれたことで無用の長物に転落している。
床への設置を見た鑑賞者は、何か他の物を暗示させているのではないかと想像してみる。この物の持つ形態が想起させる波、あるいは連続のイメージ…。しかし、この物には作家の意図を伝える手作り感が欠如している。
だからこそのレディメイドは、本来の使用目的を不可能になるように提示されており、設置場所の奇異な置換によって《無意味》を浮上させたのである。
意味の剥奪、無意味の提示はデュシャンの一貫したテーマである。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるのが見えました。
☆自由な弐(二つ)の果(結末)がある。
想(思いめぐらす)章(文章)には綿(細く長く続く)平(平等)がある。
過(あやまち)を憎み、照(あまねく光があたる=平等)を貫く運(めぐりあわせ)の章(文章)が現れる。
しかし、長くはいないのです。新しい人たちほど
、そそくさと別れを告げていきました。いつもは悠然としてもったいぶっているラーゼマンは、はいってくるなり、部屋の面積をしらべようとでもするかのように、ぐるりとまわりを見まわしたかとおもうと、それだけでもう出ていってしまいました。
☆しかし、長くはとどまりませんでした。一番の友人ほど大至急で別れを告げました。いつもは鈍いラーゼマンも入って来るなり部屋の広がりを調べようとするかのように辺りの先祖の光景を見て素早く出て行ってしまいました。
『旅行者用折り畳み品』
旅行者用のバックなら分かるが、折り畳み品て何だろう。しかも、タイプライターのカバーであり、べつに折り畳んではない。むしろこの形であり続けることの方が困難であり、自然に形を崩していくに違いないが、これを折り畳むというようには呼ばない。
そしてこのカバーを旅行者が持参するとも考えにくい。
旅行者用折り畳み品というものは存在するかもしれないが、レディメイドのタイプライターのカバーではないと思われる。
タイトルと名付けられた物とは一致を見ない。しかし、あえてそう名付けた理由とは何か。
全く異質のものを、そう名付ける。認識のデーターに外れるものであり、明らかに違うのではないかという疑念あるいは断定のもとに、この作品に対する甚だしい距離が開くのを感じてしまう。手で触ってこの中を確認する術はないが、どう見てもカバーである限り、中は空洞であるほかない。それとも中に折り畳み品と名づくようなものが入っているのだろうか。
命名と命名されたものとの違和感は拭いようもなく鑑賞者を混乱させ、この否定を肯定に至らせることは不可能である。
作品とタイトルを併せ見た時の気持ちの低下・・・。
作品とは一般に精神の高揚を意図し、感動・歓喜・称賛に値するものであるが、この場合、真逆ともいえる作品の提示である。
《反発・落胆~空虚・無空》
鑑賞者は向けることの出来ない苛立ちを覚え、やがてバカバカしさを伴う漠然とした虚脱感に陥ってしまう。
鑑賞者は試されている、この詐欺まがいの仕掛けに納得の増幅はない。
しかし、作家はこのような感覚を目的としたのである。無空、マイナスのスパイラルは新しい。 誰も試みることがなかった領域への挑戦である。このマイナスがあってプラスへと転換していく輪廻を考えていたのではないかと思う。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)