妹から大量の茄子が送られてきた。
忙しさに紛れて近所へのおすそ分けの時間を逃してしまったので、止む無く浅漬けに挑戦。
クックパットで見たレシピを参考にして、ミョウバン・塩の量を測り、洗った茄子のへたを取り~。
夜遅く眠たい目をこすりながらの作業・・・果たして今朝、丸ごとの茄子一本にかぶりついたら、これが思ったより美味しい。
何でも手をかけると美味しいのかもしれない。一昨日は花豆を煮てみた。
結果から言えば(豆は買った方がお得)という感想だったけど、甘さ控えめの柔らかい仕上がりになり上々というところ。
ただ、大量に作って誰が食べるの?
小鳥が啄んでいるとしか思えない小食の夫と二人きりの生活。大量に作り、大量に余り~。冷蔵庫の中には金柑の煮たのやニガウリの佃煮が大量に手付かずのまま眠っている。(恐ろしくて開けられない)
そうしてある日、大量に処分する日がやってくる。食べねば、食べねば・・・この強迫観念が、わたしをより一層太らせていく。
食材のサイクルを計算できない。
今日からわたしの茄子との会話が始まる。茄子味噌、天ぷら、味噌汁~楽しく感謝して頂くつもり。
『プロフィールの自画像』
横顔の自画像、自身の紹介であり、この作品にはデュシャンの思考の分析がある。
黒い紙面(無)に、色紙の切り抜き(無/抽象)を被せている。二つのものはそれだけでは意味をなさないが、黒を背景とし、横顔を意図して切り抜かれた色紙をのせると、横顔であることが明白になる。
色紙の切り抜きは、それが横顔と知る前には紙を縦横斜めにしても、空がバックでは横顔を想起することは困難であリ、横顔を切り抜いたという意図は伝わらない。差異の大きい色調の組み合わせによってその意図は伝達されるのである。
現象を確認するには、異なる状況設定との比較が無ければ成立しない。
レディメイドを使用不可な位置に置く、展示という《場》に設定することで、意図を明白にしている。しかし多くの場合、鑑賞者の日常の概念がそれを阻止し、疑念を抱かせる結果になっていることはデュシャンにしてみれば心外なのではないか。
思考の尺度は、確信をもって積み重ねられてきた概念であり、それを覆すことには少なからず抵抗がある。しかし、あえてそれを取り外し、尺度自体を原初の感覚に立ち戻らせることで、何かが見えてくる。
何か、とは《無》であり、《有》への新たな認識である。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ俄かにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込みました。
☆鬼(死者)の赦(罪や過ちを許すこと)を注(書き記す)。
判(区別する)部(区分)は、違う章(文章)の句(言葉)の画く符(記号)から推しはかり、顧(かえりみること)である。
ゼーマンは、体躯こそ偉丈夫に見えるのですが、すこし猫背で、胸をわずらい、いつも謹厳居士で、どうしても笑うことのできない人なんです。これまでは父にとても感謝し、うちとけたときなどには、消防団長代理の地位まで約束してくれていたのです。
☆ゼーマンは大きく強く見えるのですが、光を屈折し長く澄んでいます。いつも厳格でどうしても復讐などできない人です。これまでは父(先祖)の思うままだったのです。
アイクルで「吊るし雛」の講座を受講している。
手縫いが好きなわたし、吊るし雛には大いに関心を抱いて、西公民館、福祉会館、そしてアイクルの三度目の受講である。何とかその手法を自分のものにしたいけれど、肝心の布地は入手できない。
ところが昨日サークルの帰り道、30円の石鹸を見つけ3個ほど手に取ってレジに向かったリサイクル屋で、レジの脇に見つけました。
女児の鮮やかな着物を見た時の動悸、嬉しくて飛び上がりたいほど。
家に帰るなり、解いて洗い、アイロンをかけました。約3時間の行程、苦も無くルンルン気分。
明後日の講座、七宝毬の宿題も済んだし、つぎは桜・・・楽しみ!
『泉』
陶製の小便器、これを見た時の衝撃(わたしの場合、想像したに過ぎないが)は、いかばかりのものだったろう。
グロテスクである。
一日に何回か向き合うであろう便器を、作品として目の前に展示されたときの嫌悪感。
しかも『泉』と美しいものの命名に転嫁されている。入れることと出すことの生理作用によって生命の維持があるが、出来れば秘密裏に伏したい現象である排尿。
便器に向かう行為は否定できない必然であり、便器は性器を露わにする場でもある。
その現象をありありと見せつけられる作品『泉』を正視せよ!と言っているのである。
万人が同じ行為をするにも関わらず、他人の目に曝すことは断じて拒否せざるをえない個人の秘密。その暴露とも言える『泉』と称した便器。
《無いもの》として隠したい現象を《有るでしょう》と差し出した便器。生命維持の基本である排尿を自然(地球)の摂理としての泉になぞらえたことは、むしろ当然の理かもしれない。
(泉って、地球のおしっこだったの?)デュシャンの含み笑いを感じる。
デュシャンは《無》を熟考しているが、《有》の原理を問い質してもいる。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
女の子はいかにもつらさうに眼を大きくしても一度こっちをふりかへってそれからあとはもうだまって出て行ってしまひました。
☆叙べる詞(ことば)に現れる題(テーマ)の、逸(かくれた)図りごとを推しはかる。
そして、ついに、予期しなかったことではないのですが、消防団長のゼーマンがあらわれました。いまでもあのときの情景が、ありありと眼のまえにうかびますわ。
☆そして、死を予知する、火のような輝き(太陽)に対抗するゼーマン(海/水)があらわれました。
昭和の暮らし、道具・・・。我が家などは昭和を引きずっているが、例えば息子の家などに行くと、洗濯をし終わったら乾燥機、食事の後は食洗機、寒暑はエアコンでというように、時短節約(?)生活である。
ベランダに洗濯物がはためくなどというのは過去の光景と化す日も来るのだろうか。
富山の薬売りの人が大きな荷物を背負ってやってくる、荒縄で縛りつけた氷一貫目を欠き割って口にしたあの暑い夏の日の思い出、固く絞った布巾で洗った食器を拭くなんていう仕事は、むしろ不衛生だと笑われる日が来るのだろうか。
スマホの進化で、みんなが下を向いている。ちょっと道を尋ねようとしても、イヤホンをつけている。
未だ昭和の暮らしの真っただ中にいるわたし、どこを向いて歩けばいいのか、さっぱり迷子状態。《付いていけない》を実感している。
『約一時間片目を近づけて(ガラスの裏面から)見ること』
ガラスの裏面…この作品を実際見たことはないが、表裏どちらからも同じように(逆向きではあるけれど)見えるのではないか。(裏面から見ること)というのは不思議な言い方である。表があって裏を見る、鑑賞者は作品の裏面に回るが、多分同じものを確認するに過ぎないのではないか。
上方に描かれた四角錐の色の濃い部分(三角形)は前に出ているようにも後ろにあるようにも見える錯視がある。
角柱の錐の頂点は、接点を持つ線の支点にも見え、左右の丸(円形)の均衡を保っているような感を抱かせる。そして、今しも落下を予期させる未来の時間を含んでいる。
角柱の立地点は斜めの平面に見え、ガラスの面とは異なる面を見せている。
つまり、経験(情報の集積)からくる錯覚を盛り込んだ作品である。表裏どこから見ても、種も仕掛けもない。しかし、ガラスという平面から飛び出す錯視が鑑賞者の目を否応なく刺激する。しかも、左右の目を片目づつ開けて見ると、物の位置が移動、動くのである。
《見る》とはどういうことだったのか。
見えることは有るということである。
では(錯視・幻視)は、存在だろうか。《無》を《有》と確信する不安定な眼差しを持つ、人間存在の不確かさ…。
揺れ動く錯視もまた現実には違いない。人の目の不確かさの確認のために、『約一時間片目を近づけて(ガラスの裏面から)見ること』を指示したのかもしれない。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)