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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『まなづるとダァリヤ』36。(了)

2015-01-18 06:54:36 | 宮沢賢治
「どこへいらっしゃるのよ。どこへいらっしゃるのよ。あたしにつかまって下さいな。どこへいらっしゃるのよ。」二つのダァリヤはもたまらずしくりあげながら叫びました。
 遠くからかすかに赤いダァリヤの声がしました。
 その声もはるかにはるかに遠くなり、今は丘のふもとのやまならしの梢のさやぎにまぎれました。そして黄色菜ダァリヤの涙の中でギラギラ野太陽はのぼりました。


☆化(形、性質を変えて別のものになる)字には教(神仏のおしえ)の恩(ありがたみ)がある。
 積(つみかさねられた)正しい照(遍く光があたる=平等)が掩(かくれている)。
 混ぜて究(つきつめる)章(文章)の構(くみたて)の私記である。
 累((次々重ねて)注(意味を書き記す)他意が、要(重要)である。

『城』1854。

2015-01-18 06:10:26 | カフカ覚書
あのときも、ふしぎにおもったのだが、お父さんは、みんなが騒がしくしているあの欲情と洗濯場をかねた部屋の悪い空気のなかに、病気のお母さんをほったらかしておいて、自分は大声でまくしたてるのをすこしもつつしもうとはしない。


☆あの時も奇跡だとおもったけれど、お父さんはみんなが乞い願う中で、響き(音)を無力(弱く)にさせておいて、自分の発言は小舟を留め置き、保つように命じている。

〔意欲とは何か〕

2015-01-17 06:27:32 | 日常
 ロゴスドンの次の小論文、テーマは〔意欲とは何か〕である。

 意欲につける動詞は(沸く)であって、意欲するなどとは言わない。沸くという言葉を考えてみると、水が湯になり沸騰する場合や、観衆が興奮して声をあげる場合などに「沸く」と表現する。
 つまり、冷静、沈着、平明を逸した状態を沸くというのかもしれない。してみると、意欲というのは、冷静沈着・平明を動かす状態ということになる。

 気持ちが動く。落ち込むというようなマイナーな動きではなく、前向きな心の動きである。何かを為そうとする向上心への働きかけである。強い響きが隠れていると言ってもいいかもしれない。
 意欲は自己内に発生するものであれば他者には図れないが、その行動に現れる側面があるので他者の眼が感知することは大いにありうるし、仲間で一つの目標を目指すなどと意欲を共有することもあり、相乗効果でより高められることも少なくない。
 基本的に、意欲は自己内に留まるものであるが、共通の目的達成としての共有はありうるに違いない。

 逆に目的のない意欲というものは存在しない。何かに対する意欲なのである。
 意欲に懸ける行動には熱意があるが、意欲に欠ける行動には冷めた諦念の消極性がある。

 誰でも意欲を持って生き、生活の糧にしたいと考えているが、それを不可能にする様々な障害が日常の中にはあふれていて、目標だけに向かう意欲的な生活というものは条件が整わない限り難しい。

「意欲はある、しかし・・・」と、心が折れて嘆く前に、秘めた意欲を主軸に置き、しっかり強く育てて意欲を味方につければ、怖いものはないかもしれない。

《意欲は脈打つように自己内で沸き立っている》という活気が欲しい!

『まなづるとダァリヤ』35。

2015-01-17 06:22:54 | 宮沢賢治
「あっこれだ。これがおれたちの親方の紋だ。」
 そしてポキリと枝を折りました。赤いダァリヤはぐったりとなってその手のなかに入って行きました。


☆真(まこと)の法(仏の教え)を問う。
 詞(ことば)を接(つなぎ)釈(意味を解き明かす)趣(考え)は、新しい構(しくみ)である。

『城』1853。

2015-01-17 05:55:59 | カフカ覚書
お父さんになくても、お母さんのほうにあるにちがいない。なぜお父さんは転地をさせないないんだろうか。まさかこういう病気を軽く見すぎていらっしゃるわけではあるまい。きみのおかあさんにはちらりとお会いしただけだが、びっくりするほど顔色が悪いし、衰弱しきっていらっしゃるので、つい言葉をかけてみたくなったんだ。


☆なぜ砦を失なったのか、このような苦悩を軽く見ているわけではないだろう。きみのお母さんはちょっと見ただけだけれど、目立つほどに蒼白で虚弱に見えるので、つい言葉をかけてみたんだ。

「アラッ」という間もなく。

2015-01-16 11:29:36 | 漫画
 二人の孫は元気。息子が(もしかしたら障子を破るかもしれない、うちの方も破いて来たから・・・)と注意されていたけど。
 油断・・・「あっ」という間もなく、4枚の障子は手の届く限り、びりびり(まぁ仕方ないか)と足の不具合を押して張り変えた昨年暮れの出来事。

見ているし、見られてもいる。

2015-01-16 06:23:58 | 日常
 生活圏、隣近所・・・どこかへ出かけるのに、目的地へ一っ飛びというわけにはいかない。必ず左右に道のどちらかを選択して徒歩で行く。

 だから何気なく出会う人を風のように感じながらも、潜在意識の中でそれぞれの情報として集積されていく。まして至近の人であれば何気ない日常の触れ合いがあるので、しばらく会わなければ(どうしているかしら)と、気になる。

 ごく眼と鼻の先だけれど、一年を通してほとんど会わない人がいる。その人は身体が弱いらしく、どこへ出かけるにもご主人の車での移動。色が白く眼がパッチリしていてフランス人形のような趣がある美人。(もう50年以上前中学生の時、「フランス人形のような人がいる」と友人に誘われて一級上のクラスへ見に行ったことがある。片足が少し不自由で交互に肩が揺れる歩き方を見て、あの時の少女だと確信している)

 ほとんど口を利いたことがないけれど(そう言うわけで)どことなく親しみを勝手に感じている人。
 先日、サークルからの帰り、背後に車の停車音・・・振り向くと彼女。
「久しぶり」と、挨拶したら「ずいぶん長いこと、うちの前を通らないから心配していたの」と、ビックリするようなことを言った。
「でもね、あなたの家の前を通るとき布団が干してあると安心するの。ああ、元気なんだなぁって」

 び、びっくり!
 線が細くて虚弱に見えるあなたを、わたしの方がそれとなく心配していたつもりなのに・・・太って元気そうに見えるわたしの方を心配してくれていたなんて(嬉しいわ)。


 自分は見ている一方で、(あの人は?)なんて不遜にも気を回しているけど、地味で目立たない存在だと思っているわたしの事を気にしていてくれたなんて!
 見ているけれど、見られてもいる。地域社会はそんな風にそれとなく成り立っているものなのかもしれない。

 かつて「俺の顔を知らない奴がいる」と嘆いた古顔の町内会長さん。田畑が住宅地になってからの新住民も、知らないようで知っている、そういう空気が熟成してきたようです。もう30余年にもなりますから。

『まなづるとダァリヤ』34。

2015-01-16 06:16:31 | 宮沢賢治
 そのとき顔の黄いろに尖ったせいの低い変な三角の帽子をかぶった人がポケットに手を入れてやって来ました。そしてダァリヤの花を見て叫びました。


☆信仰の講(はなし)を宣(広く知らせる)で、呈(差し出す)。
 遍くSun(太陽)を覚(感知する)ように謀(計画する)。
 詞(ことば)の図りごとで趣(考え)を新しく記している。
 果(結末)を現わし、匡(ただす)。

『城』1852。

2015-01-16 05:53:38 | カフカ覚書
これっぽっちの転地費用ぐらい、お父さんにしたらなんでもないだろう。だって、きみのお父さんは、ここでいちばん大きい靴屋さんなんだからね。お父さんにしたって、お母さんをよろこんで迎えてくれるような親戚や知人がきっと城にあるにちがいない。


☆かかる出口(旅立ち)ぐらいお父さんにしたら恐れることもないだろう。だってきみのお父さんはここでは一番の大きな保護者だし、お母さんを喜んで迎えてくれるような知人が尊厳たる城(終末/死)には、あるにちがいない。

虫の冬越し。

2015-01-15 06:37:30 | 日常
 何という虫だろうか・・・わが家の植木鉢の中にずっと留まっている。
 ずうっと・・・秋の頃からほとんど移動しない。天気のいい暖かな日中などは壁に張りついていることもある。けれど、ほとんど移動しない、ここを冬越しの場所と決めているらしい。

 昆虫は興味がないというか、ちょっとキミが悪くて触れない。それでも時々蝶や何かの幼虫(美しいものもある)を見つけては写真に撮ったりするけれど、しばらく見て、削除してしまう。
 
 けれど、この虫・・・ずうっと、小さな植木鉢の中に潜んでいる。10,11,12,1月、一体何を食べて生き続けているのだろう。小さな身体で、じっと動かない。この様子を見ているうち何だか愛おしくなってきた。

 水を掛ける時にも、虫さんにかからないように配慮している。