
『9つの雄の鋳型』
作品を確かめると確かに9つである。ところが9つである必然性が欠如している、ただ単に任意の数であれば敢えて9つという必要はない。
雄、と明言しているが、根拠が不明である。雄と言ったから雄に違いないという論法である。
鋳型というのは、型の内部に、なにかしらの液体を注ぎ入れ凝固させるものという認識である(鋳物の鋳造)。だから、外観の形態は問題外であり、それらの差異を外観をもって提示するなどというのは、意味不明である。
《9つ、雄、鋳型》という3つの単語は結びつかず、首を傾げるばかりの徒労であり、空中分解せざるを得ない言葉と作品との関係である。
まことしやかに描かれた9つの形、ガラス板、鉛線、鉛箔の使用。無機質/硬質なものの変態(液体~個体)そして破損(ひび割れ)・・・意味の消失。平面化された鋳型に何を見いだせるだろうか。
デュシャンは、言葉の特質である伝達手段の機能を失わせている。
そして、表現されたものは、現実の物にあたかも即した類似性を感じさせるが、以って非なる物へと質を変容させている。
《無への挑戦》である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
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