足腰、耳も確かでおしゃべりにもさほどの支障は見られない。何よりどんどん歩く姿は《勇姿》とでも呼びたいほど・・・。でも先日の会話には違和感がありました。
通帳、大事な通帳を隣家に持って行くはずがないのに・・・。
『VALLEYS』
VALLEYSは、私的空間、私的視野の物量化である。見えない圧迫、見えない時間、見えないストレスが、小さなつぶやきとなって反響(こだま)するような硬質な両壁である。
歩く事、前へ進み出ることで微妙に景色が変わる。近視眼的に不連続に現れるそれは、眺望であれば同質(均質)なものとして処理される単純さを有している。
真っ直ぐに見える道(通路)である。しかし、微妙な凸凹(傷/点描)が、代わるがわる表出する。それは時間であり、自然の営み(経由)であり、私的な履歴でもある。
彩られることなく不愛想なVALLEYSは閉じている。この谷底は虚空であり、共存を受け付けないように見える。
しかし、それは(思い込みに過ぎないのだ)とでもいうように、天空へは大きく開き、常に出入口は開け放たれたままである。
この矛盾こそがVALLEYSの基本構造を成すものである。
(写真は横須賀美術館(若林奮『VALLEYS』より)
春と修羅
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらややぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
琥珀のかけらがそそぐとき
☆真(まこと)の照(あまねく光が当たる=平等)は普く続く。
悉(すべて)二つを展(ひらく)玉(美しい)模(ありさま)は、曜(ひかり)である。
照(あまねく光が当たる=平等)の語(ことば)に換(入れ替わる)学びがある。
「それは、だめでした。ずいぶん骨を折ったのですが、うまくやれませんでした。わたしは、まえのほうにでしゃばって、呼ばれもしないのに一日じゅう机のすぐそばに立っていました。
☆それは、だめでした。非常に尽力したのですが、できませんでした。わたしは前のほうに進み出て、全く一日中、先祖の書記の机の側に呼ばれることもなく立っていました。