わたしはどこへ行くのだろう。煩雑な日常…炊事・洗濯・掃除…ねばならないことの脅迫は日々繰り返される。どこかへ行きたいが、怠慢と衰弱しつつある身体に拠って道は塞がれている。陽気に見えるらしいわたし、実はとてつもなく陰気である。
『VALLEYS』
この作品が他の彫刻と決定的に異なるのは(彫刻作品の内部から見る)という点である。内部に入りこむという条件は、そのまま作品を転換させるということであり、内でありながら外であるという矛盾を孕んでいる。矛盾というより同一性、合致、あるいは総合というべきかもしれない。
《世界の究極の内側=個のなかの深淵である》と、同時に《世界を共有する》という表裏性がある。
『VALLEYS』を通過するときの冷え冷えとした虚無感は、緑や海や空など自然へと開かれた開放によって目的意識に変わる。両壁の角度は昇降が困難である、不可能といってもいいカーブは束縛であり、抑圧であるが、突き抜ける光の開放(出入口)は約束されている。
『VALLEYS』を通る時のわたしは、常に《個》への帰還、人生の途中という息苦しいまでの現実を実感するのである。
(写真は横須賀美術館/若林奮『VALLEYS』より)
恋と病熱
けふはぼくのたましひは疾み
カラスさえ正視ができない
あいつはちゃうどいまごろから
透明薔薇の火に燃される
ほんたうに けれども妹よ
けひはぼくもあんまりひどいから
やなぎの花もとらない
☆悉(すべて)に有(存在する)照(あまねく光が当たる=平等)な死。
生(生きる)道の平(平等)悉(すべて)を問う。
冥(死後の世界)の私記である。
微(わずかな)化(教え導くこと)の念(思い)を、毎(そのたびに)加(重ねている)。
「測量師さん、測量師さん!」と、だれかが路地から呼ぶ声がした。バルナバスだった。彼は、息を切らしてやってきたが、忘れずにKのまえでお辞儀をした。
「成功したんです」とバルナバスは言った。
「なにが成功したんだ」と、Kはたずねた。「おれの請願をクラムに伝えてくれたかね」
☆「土地がないことに気づいた人、土地がないことに気づいた人」だれかが路地から呼ぶ声がした。バルナバス(北極星《死の入口/転換点》の至近を回っている人)だった。Kのまえに身をかがめた。「成功です」と彼は言った。「成功したって?」と、Kはたずねた。「わたしの願いをクラム(氏族)に伝えたかね」