『祖父母交流会』のイベントに相模大野まで出かけた昨日。
それぞれのクラスの園生の歌唱と手作りの千歳飴の袋を披露してくれました。
津軽三味線の栗原武啓さんの「津軽じょんがら節」、アコーディオン奏者の桧山学さんの「パリの空の下」「リベルタンゴ」の演奏、ステキでした。
楽奏者の方と園生たち、そして祖父母の総勢で「里の秋」を歌った後、手作りのおやつタイム。
小さな椅子に腰かけ、孫(春一朗と恵一朗)とのおやつタイム。短いひと時を切なくも淡く過ごして夕暮れの道を急いだわたし、小田急・相鉄と乗り継ぎ、横浜で京急に乗り込んだときは安堵。
混んだ車内も何のその、と思っていたら美しいお嬢さんが立ち上がり、「!!」なんとわたしに席を譲ってくれたのです。恐縮のあまりドギマギ…そのお嬢さん、北久里浜駅でも降車せず、ずっと遠方だったのに「わたくし十分座りましたから」と言ってくださいました。
孫たちに会えた嬉しさもひとしおながら、外へ出ると嬉しいことが待っているんですね。
(お嬢さん、ありがとう)そして、文京ののはな保育園の先生方、奏者の方々…本当にありがとうございました。
『急速な裸体に囲まれた王と王女』
(急速な)という言葉は変化など動いている状態にかかる形容詞であり、比較すべき視点がないこの場合、急速な裸体という表現はありえない。(有りそうで無い表現である)
囲まれたというのは、王と王女の周りを裸体が猛スピードで走り回っているということだろうか。
王と王女(最高位/権力者)の周りを裸体(無産者)が包囲しているということである。急速ということは認識が困難な状態であり、見えているが見えないということかもしれない。
(裸体)vs(王と王女)の図は、時間に大きな差異がある。忙しく目まぐるしく疲労困憊な裸体(無産者)に対し、何もしない優雅な時間を持つ王と王女(所有者)。王と王女の目には、裸体の屈辱が見えない。
と、考えたところで作品を凝視してみると、これら描かれた物の構造は崩壊を予想されるような個別の接合であって関連性に欠け、強固な結合に見えるが、存在の核ともいえる支柱が確認できない。
支配者と従属者の関係が脆いことを暗示し、又同質(平等)であるとしている図である。あたかも機能しているような見せかけの構造は、(急速な)という言葉に促されて見るが、静止状態であり、むしろ急速な解体を予期させるような、立脚点の希薄な構造であることに気づく。
デュシャンは君主制を揶揄している。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。
☆定めは真(まこと)である。往(人が死ぬこと)は果(結末)の幻である。
兼ねて現れる二つを運(めぐらせている)。
きのうの祭典にしても、この人のかがやかしい活躍がなければ、あるいはあれだけの成果をとてもあげられなかったかもしれません。ところが、ほかでもなく、この活躍ぶりが、お役所の注意をひどく惹いてしまったのです。
☆父(先祖)の輝く仕事なしでは、過去の古い要塞は遠くに行かねばならなかった。実行は職務上注意深く惹き起こされたのです。