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続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

他家の樹ながら・・・。

2016-09-29 07:38:01 | 日常

 ゴオーッと音がした。小高いところにある家の庭の樹が切り倒された音である。
(ああ、あの木…タイサンボク。)

 あの下の家に覆い被さるようになっているのかもしれない。翌日には業者が二人がかりで切り落とした枝葉を括りつけていた。

 タイサンボクの花は白くて大きくて立派、見とれるほどに美しい。遠景ながら、季節ごとにそれを眺めていたわたし、ざっくり伐られ、樹の切り口だけになった裸木にため息をついた。

 小高いところにある家の住人をわたしは見たことがないが、下の空き地で草取りなどをしていると、「もうそろそろ日が暮れるからやめた方がいいんじゃないの」など奥さんの声がし、それに応える旦那さんの声を聴くこともある。一年中草木の手入れに暇がないのかもしれない。

 ムクドリが集結する樹もあるし、わたしが落果を拾う梅の木もある。下から眺めてるだけの樹々であるけれど、伐り落とされたタイサンボクを思うと少し寂しい。


デュシャン『急速な裸体たちに横切られた王と女王』

2016-09-29 06:46:37 | 美術ノート

 『急速な裸体たちに横切られた王と女王』

 急速な裸体とは意味不明である。《急速な》というのは、非常に速い様子を言うのであって、急速な発展、急速に接近するなど状況の変移(激変)を指す言葉である。目にも止まらぬ、あるいは目に見えない、つまり視覚に納まりきれない変化を急速という言葉で表す、いわば心理的な表現である。(急速な、には時間が含まれているが、経過を含めた結果的な状況を指す)

 裸体たち、何も身に着けていない…無産階級というよりも、単に《無》である人たちが、王と女王を横切るという。
 王と女王は、トップ(頂点)であり、多くの物を手に入れている所有者であリ、支配者である。

 急速な裸体たちに横切られた王と女王は、急速な王と女王に横切られた裸体たちでもある。究極の《無と有》の関係は急速なという形容によって意味不明な状況を作り出している。

 瞬間、何が起きたか分からない。急速という修飾によって裸体たち(無)と王と女王(有)の関係を無に帰している。有るかもしれないが無かったようでもあるという幻惑である。

 描かれた作品に、王と女王の肉体を想起させるものはなく、多少の暗示はあるが、無機的である。確かに斜めの線条が走り、急速というイメージを醸し出しているが、題名なしには到底『急速な裸体たちに横切られた王と女王』に結びつく要素はない。

 つまり、あたかも無と有が接触するかの空気感を漂わせて、むしろその関係を粉砕しており、有るかもしれないが、無いのである。 


(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)


『城』2438。

2016-09-29 06:09:30 | カフカ覚書

「わたしたちを軽蔑している人たちをみんな宗旨変えさせようというお考えでしたら、それこそ大仕事ですわ。と言いますのは、すべては、お城から出ていることなんですから。わたしは、あの朝につづく午前中のことをいまでもよくおぼえています。


☆わたしたちを眠らずに過ごすようにという試みなのは、先祖の過酷な現場不在からです。すべて(死)は、終末(推論)から出ていることですが、わたしは、あの朝につづく調停のことを今でもよく覚えています。