お使いの帰り道路の向こうにKさんを見た。
話したいこともあり、道路を渡ろうと信号待ちの車の空くのを待っていたら、縦列の車の間から彼女がぬっと顔を出した。(あぶないよ・・・)
対向車の来ないのを確かめると、わたしの前に現れにっこり。
「危ないじゃん」と言えば「平気だよ」と・・・。
「どこへ行くの」と聞いたら「風邪気味だから」と眼の前のクリニックを指さした。
では、わたしもと一緒に中に入った。怪訝そうな顔をする受付の女性に「付添です」と言ったものの、付き添い要らずの96才。「アハハ・・」と笑った。
カウンターの下に紙切れが落ちていたので(あれっ)と指差したら96才のKさん、スックと立ち上がって、それを拾い受付の人に渡した。眼にも止まらぬ速さで、69才のわたしポカーン!
「この前、大矢部の本を買ったらKさんがよく言う〔とうふや〕が出ていたよ」と言ったら、
「ああ、あの〔とうふや〕も死んじゃったよ」とつぶやいた。
「大矢部のことKさんに聞きたいわ」と言えば「そうだねぇ、わたしもここへきて・・・」と指を折って数えた時、計っていた体温計を受け付けの人が確認。
「36度3分ですから、熱はないようですね、では二階の診察室へ行ってください」と言われ、階段に。(エレベーターもあるのに当たり前のように使わない)
元気なKさん、30才近くも年の差があるのに、彼女の方がよほど元気。
年の差にも負けているわたし、Ah・・・。
『目』
ズバリ眼が描かれている。
鑑賞者はその眼に向き合うしかないほどに近く、また対峙の位置関係にアップしている。
鑑賞者は彼女の眼を見るしかないが、彼女の眼(まなざし)にも見られているという関係である。
作品を見て、こちらを向いている人物の眼を意識することはあるが、(瞬時過ることがある)というに過ぎない。しかし、この作品の場合、眼以外に目を反らすことが出来ないほど眼そのものを提示している。
眼という感覚器官は、《見る》という機能の最たるものであり、《眼=見る》は《見られる》とほぼ同義語である。
《見る》という主観的立場は、見られているという客観的立場を忘れがちである。
対象を鑑賞(観察)するということは、物言わぬ作品にある種の優位を抱く。しかし、まさか対象に見られている(観察されている)などということは意識しにくい。
《あなたはわたくし(マグリット)の作品を見ているが、わたくし(マグリット)もあなたを見ているんですよ》というマグリットの不敵な挑戦状である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
すると鷺は、蛍のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしてゐましたが、おしまひたいとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。
☆路(物事の筋道)を計(もくろむ)。
諦(真理)の注(意味を明らかにする)
照(あまねく光があたる=平等)の考えの証(裏付ける)に迫る言(言葉)がある。
ところが、バルナバスは、いつもこの似たところが臭いとにらんでいるのです。そして、あらゆることが、あの子の疑惑を裏書きしているのです。
☆ところが、バルナバス(生死の転換点)は似ていることを疑っています。死を疑っているのです。