続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『臨床医』

2015-07-31 06:38:32 | 美術ノート
 そもそも臨床医とは病人の床を訪ね直接手当を施す医者を指すのではないか。

 しかし彼の内部は空っぽである。杖を持つ左手とバックを持つ右手、そして鳥かごを置くために両足が描かれているのみ。腰を掛けた草に覆われた岩塊と水平線、頭を想起させる帽子と着衣を思わせるマント(布地)。

 重要なのは、鳥かごの開かれたままの開口部に逃げもせずに留まっている小鳥。開口部から外部へ出ている止まり木(板)は見たことがない。中にいる鳥は卵を温め、外にいる鳥はそれを外敵から守っているという想像も可能であるが、中の鳥が飛び立とうとしているかのように見えるのに対し、外の鳥は緊張感もなく寛いでいるようにも見える。

 
 自由を保障されているのに飛んで行かない不可解。
 自由の意味を理解していないと、《このようである》と言っているのだろうか。
 杖とバックを持った男、遠く(旅)へ行きたくとも行かれない不自由な足を暗示している。

 遠くへ行きたくても行かれない医者と遠くへ行かれるのに飛んで行かない二羽の鳥。
 臨床医は『自由と不自由』を波静かな自然の中で考える、はたして『真の健康=幸福=自由』とは何かを。そして臨床医は描かれた人物ではなく、作品の外の人間である鑑賞者に委ねられているのではないか。

 解放と束縛の接点、『なぜ?』
 わたし達は大きな枠(たとえば国家、あるいは地球という重力下)の中で生きているけれど、不自由だとか逃亡を図るなどとは考えることは少ない。諦念だろうか、それともその鳥籠である囲いに気が付かないのだろうか。むしろここ(鳥籠=束縛・統制下)にいることが安全だと無意識に悟ってしまっているのだろうか。
 

『臨床医』は問いかけている、否、「鑑賞者は臨床医として問いかけて欲しい」という作品ではないか。


(写真は『マグリット』㈱美術出版より)

『銀河鉄道の夜』33。

2015-07-31 06:29:02 | 宮沢賢治
その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云ひながら、一枚の紙切れを渡しました。


☆尋(聞き出す)法(神仏の教え)は、自由な講(はなし)で運(めぐらせている)。
 逸(隠れているもの)を毎(そのつど)詞(言葉)で接(つないでいく)図りごとである。

『城』2038。

2015-07-31 06:08:42 | カフカ覚書
もちろん、当局の眼をのがれることはできなかっただろう。しかし、そこには、本質的な相違があるはずだ。中央官房か、あのときたまたま電話口にいた役人化は知らないが、とにかくおれのことで真夜中にたたき起こされ、即座の決定を求められた。


☆もちろん当局のやり方ではない。しかしそこには先祖との本質的な相違があり、彼のために死の真っただ中に中央の事務局か精神感応かは知らないが、瞬時の決定を求められたのだ。