わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

胸に抱いた愛の花

2011-03-10 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

松田聖子「チェリーブラッサム」

本日は松田聖子さんのお誕生日ということでアップしました。

昨日取り上げたとんねるずの木梨さんに続き、40代最後の誕生日を迎えましたが、最近では着物姿で白戸次郎と博多弁丸出しな居酒屋トークやそう思わせない制服姿のCMは萌えるような要素のある内容でありますが、それまではスキャンダルなことでマスコミに叩かれつつも第一線で活動し今に至っている状態ですが、

この曲は1981年4枚目にシングルとしてリリースしたナンバーで、前作「風は秋色」に続き2枚目の首位になった。


作詞は松田聖子をはじめ、早見優、河合奈保子、工藤静香、吉川晃司、沢田研二、八神純子、TUBE、上戸彩など手がけている三浦徳子、

作曲は福岡から上京し和製ビートルズとして人気のあった「チューリップ」のメンバーで、同じ福岡出身の松田聖子にはこの曲、「夏の扉」、「白いパラソル」、「野原のエチュード」を手がけている財津和夫、

編曲は福岡出身で、1970年後半のニューミュージック全盛ではだいたいのナンバーの編曲を手がけ、海援隊、八神純子、中山美穂、佐野元春、吉川晃司、渡辺美里、大沢誉志幸、大江千里など担当、松田聖子とは良き音楽的相談相手だった大村雅朗。

当時のアイドルの曲の主流のスタイルはAメロ(たまにBメロ)があってサビ、そしてブリッジがあり、またAメロへという流れの構成が主流であるが、本作はサビのメロディのリフレインを中心に構成された珍しいタイプの楽曲である。

リリースされて間もなくオリコンの2位に初登場した。翌週には田原俊彦「恋=Do!」を抜いて2作連続の1位を獲得するなど、1981年の年間第9位に輝いた。また松田聖子の歴代4位のセールスである。

アップしたのはかつて彼女がアイドル全盛期にCM出まくっていた会社「グリコ」の工場を訪れた時の思い出を編集したものです。



オペロン

2011-03-09 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

とんねるず「一気!」


野球、サッカーなど全国大会に出場する強豪東京帝京高校の野球部所属の石橋貴明、サッカー部所属の木梨憲武が高校卒業後結成し31年になり、本業のお笑いでなく、歌、俳優など広い範囲で才能を発揮し今に至っていますが、

本日は木梨さんのお誕生日ということでアップしました。

彼らの看板番組「みなさんのおかげでした」で、木梨さんのお誕生日企画がありましたが、綾小路翔の店にて、高橋英樹夫妻のまじめに言っているのか天然なのかわからない発言がありつつ、相方の石橋さんが登場し、大盛況に終わりましたが、

とんねるずのシングルとしては通算3枚目であるが、一般的に本作がデビューシングルとされている。

この曲は、作詞はとんねるずの楽曲を手がけ、彼らの番組では構成作家として活躍し、彼らを人気お笑いコンビに押し上げた一人である秋元康、

作曲は一風堂メンバーだったが解散後は秋元康と組んでとんねるず、おニャン子クラブ、細川たかし、美空ひばりなど手がけることとなる見岳章。

テレビ朝日・あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 話題賞 受賞

レコードジャケットにもみられるが、応援団を想起させる「学ラン(長ラン)」姿で唄っていた。

この曲の大ヒットを受けて石橋貴明は「こんな俺らの曲買う人いるんだな」とつぶやいたそうで、お笑いタレントとして彼らが頭角を現し始めた直後のリリースなど諸々のタイミングが良かったとはいえ、オリコンチャートでは最高19位までのし上るという、予想外の売り上げだった。

しかしながらこれを機に『カリスマ』(もしくは『高卒のカリスマ』)と彼らは名乗り始める。

カラオケで、歌詞が違う別バージョンも存在し、冒頭部分に文化放送で放送されていたラジオ番組「決定!全日本歌謡選抜」のパロディが再現されている。

別バージョンの楽曲は、New Versionとして「成増」、Long Versionとして「自画自賛/ザ・ベスト・オブとんねるず」にそれぞれ収録されている。

「オールナイトフジ」で「一気!」を歌った際、石橋貴明が突然テレビカメラに抱きつき、カメラを倒して壊してしまうという事件があった。この「テレビカメラ転倒パフォーマンス」の詳細は、とんねるず#生放送でのハプニングを参照。

歌番組に露出し始めた頃、「オレたちひょうきん族」の1コーナー『ひょうきんベストテン』に出演。しかし、かつて「ひょうきん族」の真裏で放送していた日本テレビの番組に出演していた事から、司会者から「他局の方々」という扱いを受けてしまう。そして唄い始めるや否や、「ひょうきん族」の出演者から、ビール瓶で殴られる、ケーキを顔面にぶつけられる、狭い透明の壁に押し込まれ諸々のゴミをかけられるなど、石橋・木梨の両者とも散々な目に遭う演出であり、いつものように暴れまわるパフォーマンスは出来ず、

ついに二人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ!」「フジテレビ命(いのち)だよ~」と音をあげてしまった。

「うたばん」での『うたばん歌謡祭』では、石橋が上述の「テレビカメラ転倒パフォーマンス」のパロディをした。

そんなとんねるずも木梨さんが40代最後の誕生日を迎えましたが、石橋さんは今年人生半世紀を迎える。


注目は新宿2丁目のオカマになりきる憲さんに注目です。

またつまらぬものを斬ってしまった…あちちち

2011-03-09 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

簪「河原の石川五右衛門」

この曲は1978年に大瀧詠一が当時人気のあったピンクレディ「渚のシンドバット」の替え歌として発表したが、この曲の作詞を担当した阿久悠先生からのダメ出しで、音源はカットされ、歌詞のみのクレジットとなったが、2009年ピンクレディのナンバーをトリビュートしリリースしたアルバムタイトルは2007年に楽曲のすべてを手掛けた阿久悠先生がお亡くなりになった追悼の意をこめて彼の名の由来「悪友」から「Bad Friend」になった。

簪メンバーは、このアルバム内の「渚のシンドバット」を歌っている渡り廊下走り隊メンバーと元祖ピンクレディの未唯が参加している。

本日は未唯さんのお誕生日ということですが、二人あわせて106歳になりましたが、2010年に解散30年を機に、AKB48、少女時代、KARA、Perfume、SPEED、MAX、モーニング娘。などにライバル心むき出しに正式に活動再開宣言しましたが、1980年解散宣言後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動。

ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。

二人でテレビ出演する際の衣装は、増田がピンク、未唯(mie)はブルーで登場することが多い。

これは、現役の頃から今までも増田恵子(kei)がピンクが大好きだということの表れである。
2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。

二人ともソロでも実力をみせ、働く女性路線で、結婚したのは共に40代、
未唯は離婚し、現在独身である。最近の情報ではパチンコを出すそうです。


新たなる道 輝く未来へ

2011-03-08 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
今回の冬は極寒でいきなり多量に雪が舞い降り、積もって積もって走行中の車が立ち往生したり、雪が降らずとも北風が吹き最高気温が10度以下の日が多かったりもしましたが、冬から春に聴きたいナンバーの一曲を紹介します。


お届けするのは

Mr.Children 「CROSS ROAD」

本日はボーカル&時たまギターの桜井和寿さんのおたんじょうびということであっぷしました。

昨年3月8日「わしやま音楽祭Vol.6」の「ちょっと待ってと言われたって」というタイトルで、ラジオ番組、ネット配信だけでO.A.な状態だった曲で映画「ONE PIECE-Storong World-」の主題歌「Fanfare」(この曲は2010年リリースアルバム「Sense」に収録)を取り上げましたが、

その一年後の本日、彼らにとってデビュー2年目としてはじめてチャートTOP10入りし、売り上げ100万枚以上を果たした出世作を紹介します。

前作「Replay」から約4ヵ月ぶりのシングルで1993年TVドラマ「同窓会」の主題歌としてこの年の秋にリリースした。

初回版はジャケット写真の「CROSS ROAD」の文字が金色だが通常盤は黄土色。また、初回盤は中のプラスチックが黄色、通常盤は白という極めて僅かに違いがある。

オリコンチャート初登場9位を獲得し、Mr.Childrenのシングルでは初のTOP10入りを果たした。

1993年の末から94年前半にかけて『ミュージックステーション』や『ポップジャム』にメンバーが初出演。ドラマのタイアップ効果などもあり、94年1月24日付で最高順位の6位を記録。その後も20位台を推移し続け、Mr.Childrenのシングルでは最長の50週ランクインした。

94年4月18日付のオリコンチャートで累計売上が100万枚を突破し、シングル・アルバムを通じて自身初のミリオンセラーとなった(1992年に発売された2ndアルバム『Kind of Love』も100万枚を突破しているが、達成年は1996年)。

エピソードとして、桜井がドラマ「同窓会」の第一話分の台本のみを読んで曲を作った。桜井は曲完成後に「100万枚売れる曲ができた」と発言したエピソードがある。また歌詞にビートルズの楽曲「Ticket To Ride」というフレーズがある。


このドラマは、当時偏見な目で見ていた「同性愛」を取り上げたドラマで、内容が男同士が抱きつく場面で話題となった。

内容として、

恩師の上京をきっかけに行われた同窓会に集まったメンバーの人間模様を描く。

同性愛を真っ向から捉え、過激で大胆な描写や台詞、一歩間違えれば滑稽に見えてしまいそうなほどの荒唐無稽な展開が大きな話題となったが、その真の目的は「人間愛」を描くことであった。

出演者たちも果敢にタブーに挑戦し、真摯な姿勢で演技に取り組んだ。こうした番組作りが、偏見に苦しんでいた同性愛者の共感を呼び、連続ドラマという時代性のあるものにもかかわらず、現在でもなお語り継がれている稀有な作品である。

あらすじとして、

中心となるのは、西伊豆・土肥の高校時代の同級生同士であるヒロイン折原七月(斉藤由貴)と、同性愛者であることを隠している安藤風馬(西村和彦)の夫婦である。風馬が定期入れの中に大切にしまっている男性の写真を意味深に見つめるところから、全てが始まる。

風馬は同性愛者であることを自分自身で認められず、そのセクシャリティと高校時代から想いを寄せていた親友であり、七月の前の交際相手である中康介(高島政宏)への気持ちを隠したまま、七月に結婚を申し込む。

しかしその前に自分の恋心を断ち切るためと、同性愛の世界を覗いてみたいという気の迷いから、新宿二丁目で声をかけてきたバイセクシャルの少年・嵐(山口達也;TOKIO)と関係を持ってしまう。

風馬自身は面識がなかったため知らなかったが、実は嵐は七月や風馬たちの高校の後輩・丹野唯子(田中美奈子)の弟だった。

一方、結婚後間もなく風馬が同性愛者であることに気付き自暴自棄になった七月は深夜の新宿二丁目を彷徨い、売春目的の嵐に声を掛けられてビルの建設現場で肉体関係を持つ。

高校時代から長年交際していた七月と康介、夫婦となった七月と風馬、七月と風馬の夫婦二人と関係を持った嵐、究極の友情の証として一線を越えてしまう風馬と康介、康介と交際するも彼が同性と関係を持ったことが許せない唯子…。

七月は風馬から女として愛されないことに苦悩し、嵐に嫉妬しながらも、これまで一人傷つき悩んできた風馬を懸命に受け入れようとし、男と女の愛情と憎しみが複雑に絡み合う。

やがて、七月が嵐との一度きりの関係で妊娠してしまったことが発覚。一度は中絶を考えた七月だったが、女性を抱くことは出来ないが七月のことは人として愛しており大切に想っているという風馬の言葉と、幼い頃無理心中をさせられそうになった母(高田敏江)との確執が解消したことがきっかけで、風馬と嵐と自分の三人の子として出産することを決心した。そして…。


エピソードとして、

ドラマの制作現場には、「スキャンダラスに取られるだろうが、これは愛の物語。そこを踏まえて、ストイックなまでに生真面目に創って欲しい」という異例の檄が脚本家の井沢満から飛ばされた。

風馬と嵐が全裸で抱き付き合うシーンが多い。また風馬と男のキスシーンは多く、かつ本当にキスをしている。一方で、女性である七月との唯一のキスシーンでは、カメラワークによって巧くキスをしているように見せているだけで、実際にはしていない。

ゴールデンタイムに放送される作品としては、前例が無い、初挑戦である題材であったため、井沢も当初は「おっかなびっくりで」慎重に筆を進めていた。しかし、撮り上がる都度、バイク便で届けられる未編集のビデオで風馬と嵐のキスシーンを確認した際、二人がカメラアングルでごまかさず本当にキスしているのを見てスタッフも役者も本気で取り組んでいることを知り「ふっきれた」。それからの執筆に迷いはなくなったという。

脚本は奇をてらった意図のものではなく、一般視聴者をメインターゲットに書かれたものだったが、同性愛者やBLを好む女性からも多くの支持を集めた。特に男性同性愛者からの反響は大きく、放送日には新宿二丁目の人影がまばらになったとも言われている。そのため、井沢はその手の店の人たちに「恨まれた」という。ゲイカルチャーの中で「同窓会以前・以後」という言葉も使われ、それまで罪悪感を感じて隠れていた同性愛者がカミングアウトする機会も増えたという。二丁目に一人で訪れる若者も増え、二丁目の地図が塗り替えられたと一部で囁かれた。

日本とアメリカの大学教授が「同窓会」を題材に論文を書くという、非常に珍しい出来事もあった。また、東大では上野千鶴子教授の主催でシンポジウムが開かれた。平均視聴率は17パーセントで「大ヒット」とまではいかなかったが、連続ドラマのテーマとしてはたいへん特異な内容で、各方面に与えた影響力は多大であった。

同性愛者の役で出演した国分太一がナビゲーターを務める番組『国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉』に高嶋政宏がゲストで出演した際、美輪明宏が「当時としては素晴らしく斬新で刺激的なドラマだった。毎週見ていた」とコメントし、江原も同様に頷いていた。それを聞き、高嶋も国分も照れくさそうな表情を浮かべていた。

2010年の「24時間テレビ 愛は地球を救う33」の深夜企画「朝までしゃべくり007」に、メインパーソナリティーのTOKIOが出演した際、山口と国分の恐怖映像として、本作の映像が流れた。

現在のミスチルはアルバム「Sense」ツアーの真っ最中で、ツアーが終われば新作を待ち望んでいるファンが多いはず。待ってみよう。

ピンクのシャツを着て歌う桜井さん、最高です!

ゲゲる松崎

2011-03-08 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

熊倉一雄「ゲゲゲの鬼太郎」

本日はこの曲の作詞を担当し、この曲が使われた作品「ゲゲゲの鬼太郎」の作者水木しげるさんのお誕生日ということであっぷしました。

2010年NHK紅白歌合戦でのミニコーナーで水樹奈々&AKB48の「プリキュア」、白組司会を担当したグループ「嵐」の大野智扮する怪物くんとしてリリースした「怪物くん」を披露しましたが、何より印象深かったのは2010年新語流行語大賞で今年の言葉として選ばれた「ゲゲゲの・・・」で、その元となったNHKドラマ「ゲゲゲの女房」の出演者を交え、象徴するかのように本家の80代のおじいさん熊倉さんがステージに立ち歌っている姿でした(ほかに桑田佳祐さんの復活もありましたが)。


この歌はそもそもはアニメ用に作られたものではなく、最初のアニメ化以前、『週刊少年マガジン』で原作が連載中の1967年7月20日にキングレコードとのタイアップで発売された児童向けレコード『少年マガジン・マンガ大行進』SKK(H)-354のために作られた楽曲だった(同年10月10日に『ハリスの旋風』とのカップリングでシングル化されている)。この曲がテレビアニメの企画を推進したと言われている。


ゲゲゲの鬼太郎(ゲゲゲのきたろう)は言うまでもなく、幽霊族の少年鬼太郎(きたろう)を主人公とする漫画作品で、それを原作とした一連の作品群の総称。 主人公が妖怪達と繰りひろげる物語。題名の由来は作者の『しげる』が、幼い頃自分の名前を「しげる」と言えずに「ゲゲル」「ゲゲ」と言っていたことから着想し、もう一つゲをつけて、ゲゲゲの鬼太郎となった。

そんなAKB48メンバーの渡辺麻友と同じ潜在能力の水木さんですが、

ペンネームは、紙芝居作家時代に、当時経営していたアパート「水木荘」から周りに名付けられた。

兵隊として戦争を体験したのち、終戦後より紙芝居、貸本漫画などを執筆。1964年に『ガロ』にて商業誌デビューし、妖怪を扱った作品により人気作家となる。代表作『ゲゲゲの鬼太郎』は5度TVアニメ化。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任、調布市名誉市民にも選ばれている。水木しげる記念館は境港市にある。そんな水木さんは89歳になる。

また、アジアンの馬場園梓と同じ潜在能力の熊倉さんですが、

来歴と経歴を紹介すると、

東京府東京市麻布区(現・東京都港区)出身。旧制東京府立第8中学校(現・東京都立小山台高等学校)卒業。旧制都立高等学校理科(現・東京都立大学理学部)在学中、記念祭で催した芝居をきっかけに演劇に興味を持ち始め、同校卒業後の、1949年に劇団感覚座を設立。しかし多額の負債を抱え込み1年で解散。

1950年東京演技アカデミー楽劇科に入学し、ミュージカルを中心に学ぶが、学校が1年後に倒産。その後劇団東芸等で俳優活動をしていたが、俳優は向かないと思うようになり、俳優活動を休止する。

1953年開局間もない日本テレビに入社。スタジオ班に配属され、主にテレビドラマの大道具を担当。当時は放映されるドラマの数が少なく、セットが完成すると次のドラマの準備まで時間が空くため、その合間に通行人等の端役でドラマにも出演していた。このドラマ出演をきっかけに再び俳優業に興味を持つようになり、劇団東芸に戻り、俳優活動を再開する。

1956年9月、テアトル・エコーへ入団。翌1957年に日本テレビで放映された『ヒッチコック劇場』で、元社員であった縁でキャスティングプロデューサーとして声優のキャスティングを担当(アルフレッド・ヒッチコックは放映開始当時、スーパーインポーズで吹き替えはなし)。担当ディレクターに、ヒッチコックの吹き替えに適当な役者がいないと相談したところ、熊倉本人に吹き替えを担当するように指示。これが熊倉の声優としての最初の成功作となる。以後数々の作品に声優として出演する。

声優としての当たり役にはヒッチコックのほか、TVドラマ版『名探偵ポワロ』の名探偵エルキュール・ポアロ(デヴィッド・スーシェ)の吹き替え等がある。NHK総合テレビ『ひょっこりひょうたん島』のトラヒゲ、NHK教育テレビ『ばくさんのかばん』のばくさんでも知られる。1968年にはアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌い、キングレコードのヒット賞を受賞した。またディズニーの長編アニメの吹き替えも複数担当している。

テアトル・エコーでは演出家を兼ねて指導的立場となり、1969年には『ひょっこりひょうたん島』『ブンとフン』などテレビ・ラジオでの協業が多かった放送作家・井上ひさしにデビュー戯曲(実際はこれ以前に雑誌掲載のみの習作もある)『日本人のへそ』の執筆を依嘱。ブレヒト風の歌入り芝居に風刺と推理劇を盛りこみ、二重三重の劇中劇が入り組む前代未聞の作となり、主演と演出を兼ねての公演はセンセーショナルな成功を収める。以後、作・井上ひさし、演出・熊倉一雄のコンビは数年にわたって話題作を連打し日本の演劇界の話題を集め続けた。1977年には『日本人のへそ』映画版にも出演したが、ハナ肇と共に原作にない劇中劇の照明係兼(そのため出番が少ない)という扱いでのゲスト出演であり、熊倉が演じた役はなべおさみに譲られた。井上が大劇場へ転じてからはニール・サイモンなど翻訳喜劇を多く取り上げている。

1990年代初頭に『あどりぶランド』(毎日放送)の「よってたかってインタビュー」に出演した際には、「近年海外ドラマの放送が減ったせいで、我々の吹き替えの仕事も減って困っているんですよ」と嘆いていた。

そんな熊倉さん、現在84歳になられます。

あさズバッ!!と

2011-03-07 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

水木一郎「地獄のズバット」

この曲は1977年東京12チャンネル(テレビ東京)で放送された特撮ヒーロー作品のひとつ「怪傑スバット」のオープニングテーマで、作詞は「怪傑ズバット」の原作者石森章太郎が担当している。

この作品は、

科学者の飛鳥五郎(岡崎二朗)は、妹の勤める幼稚園へ地域掌握のため現れた暴力団・地獄組と対峙、命を狙われることとなる。しかしそこに妙な風来坊が現れた。その男は飛鳥の子供の頃からの親友であり、何をやっても日本一の私立探偵で本編の主人公・早川健(宮内洋)。

地獄組の用心棒を追い払った早川は、さらに幼稚園バスに爆弾が仕掛けられているのを発見。

園児たちを無事に避難させ、飛鳥は独りバスを安全な所まで運ぶが爆発で重傷を負ってしまう。

さらに姿無き敵の魔手は飛鳥の入院先の病院にまで伸び、再び爆発が起きる。

混乱の中、飛鳥は軽機関銃の銃撃で蜂の巣にされてしまい、早川の腕の中で息を引き取った。

早川は飛鳥の残した設計図を頼りに、開発途中の宇宙探検用強化服「ズバットスーツ」、そして飛行能力を備えたスーパーカー「ズバッカー」を自力で完成させ、地獄組組長・地獄竜を倒す。

しかし地獄竜は、飛鳥を殺したのは自分ではないと言う。では一体誰が? 友を殺した真犯人を突き止めるため、早川の復讐の旅が始まった。。。

本作の流れとして、

放浪する早川の行く手を悪の組織ダッカーの各地域のボスと、その手先である用心棒が阻む。用心棒は何らかの特技(早撃ち、居合、釣り、吹き矢、料理など)を持っており、自分がその分野で一番であると自負している。

早川は「○○の達人、××。だがその腕前は日本じゃ二番目だ。」と言って用心棒を挑発する。

「ならば日本一は誰だ!?」との用心棒の問いに、

早川はキザな舌打ち・深く被った帽子の鍔を押し上げる仕種とともに

“オレさ”

と自身を指差す。

それに怒った用心棒は技を披露するが、早川はそれ以上の技を見せつける。それを見た用心棒は早川に敬意、もしくは畏怖を表して一旦退散する場合が多い。

最後は用心棒およびボスと、変身したズバットとの戦いになる。勝利したズバットはボスを組み伏せ、

「飛鳥五郎という男を殺したのは貴様か!?」

と問い詰める。

シリーズ後半になると、これに対してボス自ら「違う、その頃俺は○○にいて、××をしていたんだ・・・」などとアリバイを語って釈明する描写が付与された。

ボスが飛鳥五郎殺害犯でないことがわかると、ズバットはボスにズバットアタック(一種の飛び蹴り)をくらわせ、気絶させる。

基本的に自ら悪人を殺してしまうことはほとんどなく(死んだとしても用心棒のみ。)、立ち寄り先のボスが飛鳥の仇でないことが分かると戦闘能力を奪って失神させた後に「この者○○(今回の悪事の内容)犯人!」などと記したカードをボスの傍らに置いて立ち去り、しばらくして警察(東条)が駆けつけることが多い。

犯人が荒縄で縛られて警察に突き出されるというパターンもあった。

通常のヒーローものと違い、早川は敵組織ダッカーの存在を全くつかんでおらず、飛鳥の仇を捜し求めて旅を続け、その先々で偶然出会うならず者が偶然ダッカーの手先であるという、当時のヒーロー特撮作品のパターンとは異なる設定である。

ダッカー配下の組織は、毎回同じコスチュームの戦闘員が登場するものの、早川がダッカーの存在を認識するのは最終回間近だった。


何をやっても日本一の早川が白ギターを肩にのせ、カントリー風なルックスで、敵を挑発する時の口笛がたまらないものである。

そのことはTVバラエティ番組「SUPERジョッキー」でたびたび紹介された記憶がある。


そんな名取裕子と同じ潜在能力の「Z」な水木さんですが、

作詞家、作曲家、声優、俳優、お笑いまでこなし、音楽活動して43年、歌った曲数は1200曲にのぼり、周りからアニキの愛称で知られ、アニメソング界の帝王とも称されている。また、変名として「松本茂之」「山本一郎」「早川としお」「たつきよういちろう」「ミズキング」名義でも歌唱している。世田谷学園高等学校卒業。現在は鎌倉市の鶴岡八幡宮の近くに居住している。

歌手になるまで、

実家がレコード店を経営していたため音楽環境には恵まれ、幼少期からジャズなどを聴いていた。特にアメリカの音楽には強い影響を受けていたという。だが本人は当初「どうせ日本人なんだから落語でもやるか」ということで落語家を目指し、学生時代には「落語会」を開いていた。

『徹子の部屋』に出演したとき、落語をするさい「水中亭ゲンゴロウ」と名乗っていたことで黒柳徹子を笑わせたうえ、有名な落語家に電話で弟子入りを頼んだこともあると言っていた。記憶は定かでないが、弟子入りを頼んだのは多分、柳家小さん師匠で、高校生だと言ったら、卒業してからにしなさいと言われたそうである。

しかし地元歌手の活動に影響を受けて歌手の道を志すようになり、老人ホームでギターを奏でながら歌を聴かせるなどの活動をしながら歌の勉強を続けた。ACB会館(当時新宿区歌舞伎町に存在した総合娯楽遊興施設。1960年代半ば〜1970年代初頭の人気絶頂期にはジャズ喫茶のニューACBやゴーゴークラブなどを備えていた)で催されたコンクールでの優勝が本格デビューのきっかけとなる。

1968年に歌謡歌手として『君にささげる僕の歌』でレコードデビューするものの、売り上げが芳しくなかった事やマネージャーとの不仲も災いして一時歌手を退く。

『徹子の部屋』に最初の出演をした際語ったところによると、同じレコード会社の先輩歌手・九条万里子(現夫人)と結婚することになったため、新人の水木が身を引いたという。

その後、生活のためナイトクラブやキャバレーで歌い始める。 1971年、堀江美都子の担当だった日本コロムビア・木村ディレクターの勧めでアニメ『原始少年リュウ』のオープニングテーマ『原始少年リュウが行く』を歌唱。

以降、活動の中心をアニメソングへと移していく。水木は「最初の歌がつまらない歌だったら、以後アニメソングを歌うつもりはなかった」と述懐しているとのこと。

それからはアニメ番組、特撮番組のテーマ曲に欠かせない歌手として、またNHK教育の「おかあさんといっしょ」でうたの兄貴として抜擢されたりし、子供たちにとって名は知らなくとも一度は聞きなじみのある存在となる。。。


水木さんの近況として、

2010年、プロデューサー・塚田英明からのオファーを受けて『仮面ライダーW』23・24話へ顔出し出演し、久々に仮面ライダーシリーズに関わることとなった。また6月には中国にて行われている上海万博のジャパンウィークにて、中国でもよく知られているアニメソングを歌唱し、会場を大いに盛り上げた。

現在は歌手活動を続ける一方、「水木一郎ヴォーカルスクール」を主宰し、後進の育成に力を注いでいる(卒業生として貴日ワタリをはじめとする「ザ☆カインズ」メンバー、平山佳代子をはじめとする「アップルパイ」メンバー、菊池志穂、小西寛子などがいる)。

恐妻家としても有名であり、それについてのエピソードを『踊る!さんま御殿!!』『行列のできる法律相談所』(日本テレビ系)等に出演した際に度々披露していて、「行列~」2011.1.2放送の気の毒な夫グランプリ(気の毒な夫;ノッチ、河本準一、宮迫博之、大友康平など)に出演、熱きアニキとして歌う姿とは裏ハラに、4つ上の妻(所属レコード会社の先輩ということもあって)には頭が下がらず、居間のソファでは隅っこな存在、家族旅行では妻と子供たちだけで、置いてけぼりなご主人の水木さんは家でお留守番、飼っている亀と愚痴を言って発散することが日課とのことが紹介され、その妻が出演した時、水木さんは急に弱々しくなり、妻から「Zは飽きたよ」と言われ、さらに弱々しくしゃべっていた。

そんな水木お父さんは、2011年3月6日現在、ウィキペディアに項目の立てられた日本人の中で言語間リンクの数が最も多い(92言語)人物である(2位は黒澤明、3位は昭和天皇)。

その一覧

日本語、Afrikaans、 Ænglisc 、العربية、 Asturianu、 Azərbaycanca、 Žemaitėška、 Беларуская ‪、Беларуская (тарашкевіца)‬、 Български 、বাংলা、 Brezhoneg、 Bosanski、 Català、 Chavacano de Zamboanga、 Cebuano、 Чӑвашла 、Cymraeg、 Dansk、 Deutsch、 Ελληνικά 、English、 Esperanto、 Español、 Eesti、 Euskara、 فارسی 、Suomi、 Føroyskt、 Français、 Frysk、 Gaeilge、 Galego、 עברית 、हिन्दी、 Hrvatski、 Hornjoserbsce、 Magyar、 Հայերեն、 Bahasa Indonesia、 Ilokano、 Ido、 Íslenska 、Italiano、 Basa Jawa、 ქართული 、한국어 、Kurdî、 Latina、 Lëtzebuergesch、 Lumbaart、 Lietuvių、 Latviešu、 Македонски 、മലയാളം、 Bahasa Melayu 、Plattdüütsch、 Nederlands、 ‪Norsk (nynorsk)‬、 ‪Norsk (bokmål)、‬ Occitan、 Pangasinan 、Kapampangan、 Polski、 Português 、Runa Simi、 Română、 Русский 、Sicilianu、 Srpskohrvatski / Српскохрватски 、Simple English、 Slovenčina、 Slovenščina、 Shqip 、Српски / Srpski、 Basa Sunda、 Svenska 、Kiswahili、 தமிழ் 、ไทย、 Tagalog、 Türkçe、 Українська 、O'zbek、 Tiếng Việt、 Walon、 Winaray、 中文 、Bân-lâm-gú、 粵語


それは頭の中にある。

2011-03-07 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

Kenny Loggins「This Is It」

曲のタイトルといえば、いまや2009年に他界したマイケル・ジャクソンが自身久々のコンサートツアータイトル「This is it」(リハーサル中に他界、その後このタイトルでなくなる前に収録したコンサートリハーサルの模様が映画、DVD化された。)を思い浮かべるが、

この曲は1979年3枚目アルバム「Keep the Fire」に収録されたナンバーで、AORファンにはたまらないメロディラインが印象的で、コーラスには彼が楽譜に絡んだドゥービーブラザーズ「What a Fool Believes」のドゥービーメンバーマイケル・マクドナルドが参加している。

ロギンスとマイケル・ジャクソンとは1985年40もの音楽アーティストが集結したグループ「USA for AFRICA」のメンバーとして、「We are the world」を歌っている。


そんな、皆藤愛子と同じ潜在能力のロギンスでありますが、


1948年1月7日ワシントン州エベレット生まれ。カリフォルニア州アルハンブラにて育つ。

音楽出版社に勤める傍ら作曲家としても活動、ジム・メッシーナとともにデュオを結成する。1972年にロギンス&メッシーナとしてデビュー。アコースティックでさわやかな典型的な初期ウエストコースト・サウンドで、「プー横町の家」、「ママはダンスを踊らない」などのヒットを飛ばす。

ロギンズが作曲した「ダニーの歌」や「愛の歌」は、カナダの女性歌手、アン・マレーが取り上げ全米ナンバーワンヒットを記録したことでも有名である。

1977年からはソロとして活動を開始し、1978年スティーヴィー・ニックスと共演した「二人の誓い」がヒットした。引き続き作曲家として、ドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーブス」をマイケル・マクドナルドと共作しグラミー賞を受賞するなど、高い能力を示している。

転機となったのは1980年代。1984年には映画「フットルース」の同名主題歌が全米1位、1986年には映画「トップガン」の主題歌「デンジャー・ゾーン」が全米第2位の大ヒットとなり、映画とともに世界中でヒットを記録した。

また、「デンジャー・ゾーン」は同年に近藤真彦出演の「日産・マーチスーパーターボ」のCM曲にも起用され、同車が生産終了する3年後の1989年まで放送された。

また、2010年にトヨタ・ラクティスのOEM車である、スバル・トレジアのCM曲にも採用された。1985年のUSAフォー・アフリカの「ウィー・アー・ザ・ワールド」でも2小節リードボーカルをとっている。

流行サントラ歌手としてピークを迎えてしまったために、アーティストイメージに色がついてしまったが、1990年代以降も着実にアルバムを出し続けている。2005年にはロギンス&メッシーナを再結成して全米コンサートツアーを行い、人気を集めた。その際には、Loggins and Messina Sittin' in Againというアルバムをリリースした。現在も活動中で、ホームページによれば3月から8月まで本国アメリカでツアーを行う。


お金は大事だけど、のめり込むと時として狂気となる・・・

2011-03-06 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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Pink Floyd 「Money」

本日はボーカルとギターのデヴィッド・ギルモアのお誕生日ということであっぷしました。

この曲は1973年アルバム「狂気」に収録された代表的なナンバーで、発表されるや全世界で大ヒットを記録し、日本においてもオリコンチャートで最高2位まで上昇した。プログレッシブ・ロックというジャンルを超え、アメリカビルボードアルバムチャートでは15年間TOP200入りする前代未聞ロック史に残る名盤として現在も君臨している。

ピンク・フロイドの作品の中でも、『ザ・ウォール』(1979年)、『炎*あなたがここにいてほしい』(1975年)と並ぶ代表作である。また、本作をきっかけにアメリカでの人気が決定的となった。コンセプト・アルバムの代表作としても名高い。

このアルバム以降、ロジャー・ウォーターズが全作詞を手掛けるようになり、バンド内でのバランスに大きな変化が生まれたという点でも、重大な意味を持つ作品となった。人間の内面に潜む「狂気」を描き出すというコンセプトを考えたのもロジャーである。

2006年に発表された「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500」において43位にランクインしている。

内容として、哲学的な歌詞に加え、それを際立たせる立体的な音作りで、極めて完成度の高い作品に仕上がっている。特に、アラン・パーソンズが編集したSE(効果音)の巧みな使い方によって、うまくストーリーを演出している。笑い声、会話、爆発音、時計の針、レジスター、心臓の鼓動(実際はニック・メイスンのドラム)等が使われている。サンプラーは無かったため、録音した音をひとつひとつテープに貼り付けるという原始的な手法で組み立てられた。アラン・パーソンズによれば、マネーの冒頭で聴かれるレジスターの音は編集に30日要したと言う。

基本的にアルバムの最初から最後まで曲と曲がつながっており、複数の曲があたかもひとつの作品のようになっているのが最大の特色である。その中で主人公の誕生から苦悩、葛藤などを描き出している。作品中では主人公はYouと記されているだけだが、狂気の人となってしまったシド・バレットの姿も重ねられていると言われている。エンディングでは、Gerry O'Driscollによる「There is no dark side of the moon really. Matter of fact it's all dark(本当は月の暗い側なんて存在しない。何故なら、すべてが闇そのものだから)」という台詞が入っており、核心的な一言でアルバムは終わりを告

セールスとして、

本作はアメリカのビルボードチャート1973年4月28日付けで1位を獲得、ピンク・フロイドにとっては初の全米チャートでの1位獲得となる。

また、ビルボードチャートの200位以内に15年間(741週間)に渡ってランクインし続け、さらにカタログチャートでは30年以上(1,600週以上)に渡ってランクインするというロングセラーのギネス記録を打ち立てた歴史的なアルバムである。

キャッシュボックスでは233週、全英オフィシャルチャートでも354週に渡ってランクインしている。

なお、2009年12月5日付けのビルボードチャートより、「カタログに載った作品はBillboard 200にチャートインさせない」という制限が廃止された。その翌週には早速189位で再ランクインしており、それまで741週とされていた記録が更新され、2011年現在も記録更新中。

イギリスではオフィシャルチャート(OCC)で最高2位(1973年3月31日付)、ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)では最高1位(1973年4月7日付)となっている。OCCのデータでは、2009年までに395万枚以上を売り上げており、イギリスにおけるアルバム売上枚数では歴代6位の記録となっている。

アメリカではRIAAが1973年度最大の売上があったアルバムに認定しており、通算1,500万枚の出荷が認定されている。全世界での売上枚数は4,500万枚とされている。

この曲の歌詞の内容は、拝金主義批判をユーモラスに描いている。「金は諸悪の根源さ」という一節にすべてが集約されている。メロディーも非常にポップで、ピンク・フロイドの数ある楽曲の中でも、最もキャッチーな曲と言える。

そんなAKB48メンバーの河西智美と同じ潜在能力のギルモアですが、バンドの活動以外でもポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、リンゴ・スター、B.B.キングなどのバンドセッションなど腕利きのあるギタリストとして活動もしている。

彼の変貌を紹介すると

Before

After


Beforeでは「BECK」(ハロルド作石の漫画)に出てくるギタリストの南竜介並にロン毛なびかせてギター奏でている印象があり、背も183cmと長身でイカしていた。

Afterでは、年とともに毛が薄くなり、体格はごっつくなりつつもギターの腕は衰えることなく奏でている印象があります。

そんな彼も本日で65歳になります。

アップしたのはオリジナルメンバーがそろった「LIVE8」より。

慎吾ままのバゴーン!!

2011-03-06 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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慎吾ママ「慎吾ママのおはロック」

本日はこの曲を歌っている慎吾ママ扮する香取慎吾でなく、苗字が香取のほかに思い浮かぶ苗字で下の名が「慎吾」といえば、そう「柳沢」、本日は「柳沢慎吾」さんのお誕生日ということであっぷしました。


この曲は、SMAPの香取慎吾が、フジテレビ系バラエティ『サタ☆スマ』内で扮するキャラクター、慎吾ママ名義で発売したデビューシングル。同番組の「慎吾ママのこっそり朝御飯」という企画内で登場したキャラクターであり、他局であるテレビ東京『おはスタ』で山寺宏一らが使用する朝の挨拶『おっはー』を随所で使用するなどして人気を得ていた。

香取としては、1997年にサザンオールスターズの原由子とデュエットで発売した「みんないい子」以来となるソロシングル。

楽曲製作に当たり、ピチカート・ファイヴ(当時)の小西康陽がプロデュース、作詞・作曲を担当。歌いだしやサビでこの「おっはー」のフレーズを織り交ぜるポップスに仕上がった。8月にシングルリリースされた際には、香取自身音楽番組で慎吾ママに扮し、TBS系の『うたばん』やテレビ朝日系の『ミュージックステーション』にも出演した。特定の放送局で演じられるキャラクターが、他局にキャラクターのまま出演する例はまれであり、番組内でもあくまでも香取慎吾とは別人であるという設定で出演した。

本作はオリコンチャートの集計上不利となる、通例の水曜日より2日遅い金曜日発売となったが、発売週のオリコンシングルチャートで1位を記録。SMAPメンバーのソロシングルとしては初めて同チャートで1位を記録した。2007年現在でも、SMAPのソロメンバーでは香取と稲垣吾郎(&G名義)のみ記録している。

最終的にはオリコン・日本レコード協会の集計で共にミリオンセラーを達成する大ヒットとなった。2000年にデビューした歌手の中では最大のヒット曲となった。累計売上は130万枚以上。本作のヒットが象徴するように、大流行となったこの「おっはー」は2000年の新語・流行語大賞の年間大賞を受賞した。

ジャケット写真は、番組で行われた「マヨチュッチュ」のキャプチャー画像を使用。放送された映像をはめ込んでいるため、"よい子はマネしないでね"のテロップ付きである。

また、何故かジャケットには”慎吾ママのオハロック”と「おは」が片仮名で表記されている(慎吾ママのサイトなどから推測するに、ロゴマークとしては、片仮名で表記するものと思われる)。

初回限定版はCDジャケットのタイトルロゴがステッカーとなっているが、即完売した。

PVはエキストラの子供たちのほか、SMAPのメンバーを始め、番組の競演などでゆかりのある笑福亭鶴瓶、菅野美穂、萩本欽一、更にはジェームス・ブラウンなど数々の著名人が出演した。このPVにはそれぞれオリジナルの「おっはー」が収録されており、CD音源とは別バージョンとなる。MVA00のBEST POPS VIDEOという賞を受賞した。

歌詞は番組内での企画やキャラクターに関する内容がテーマになっている。また、間奏ではSMAPの各メンバーの名前が登場しているが、マー君のみ弄られる内容になっている。

翌2001年に慎吾ママとして2枚目のシングル「慎吾ママの学園天国 -校門篇-」が発売されたが、こちらは思うようなヒットにはならず、累計売上も本作の1/5程度である(企画物の本作がデビュー作とされているのはこのためである)。こちらには本作タイトル曲のリミックスバージョン「慎吾ママのおはロック音頭」も新たに収録されている。


そんな田中麗奈と同じ潜在能力の彼ですが、高校生時代から芸能界入りし33年になりますが、いったい何者な感じで俳優業、お笑い業をこなし、「お笑い芸人よりもお笑い芸人らしいタレント」として、老若男女を問わず笑いを伝える稀有な存在であり、笑いの伝道師とも言える。ウッチャンナンチャンの内村光良から「この人だけだよ、テレビの音を消してもなんとなく面白いと分かるのは」と言われるほど、その動きと表情の面白さはお笑い芸人顔負けである。また、『行列のできる法律相談所』に出演した際、島田紳助から「お前こそ『劇団ひとり』に改名せえや」とツッコまれたこともある。

みなさんがお茶の間で見ているTV番組を場面場面コピーするネタがありますが、彼の代表するネタのひとつを紹介。


「ひとり甲子園」


高校野球の選手、応援、観客、実況、解説(池西増夫)、阪神園芸の整備士など。柳沢は、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会開催時には仕事をほとんど入れずに観戦に熱中するほどの高校野球ファンである。

『メレンゲの気持ち』(日本テレビ系列)で1998年の延長17回の死闘である準々決勝「横浜高校対PL学園」の再現も披露。なお、その試合でピッチャーだったPL学園の上重聡(現・日本テレビアナウンサー)がサプライズゲストで出演。当時の状況とほとんど同一であると賞賛した。

なお、2002年には『徹子の部屋』でもこの甲子園のものまねを披露したこともある。また独自のシチュエーションをつくり、演じる場合もある。横浜高校に思い入れがあるようで、渡辺元智監督がサインを出す仕草(「腰から下は打つな! 的を絞っとけ!」)や選手を激励する姿までを再現する。

最後には右手をひらひらさせ、校旗掲揚をしながら横浜高校の校歌を歌うのがよくあるパターンである。その他、長い牽制球、内角球をよけピッチャーを睨む選手、途中でNHKニュースが入る様子、NHK総合テレビから教育テレビに中継チャンネルが切り替わる様子、ボークをした投手のリプレイ、終戦の日の黙祷、応援団、チアガール、亡くなった部長の遺影を持つ人、孫を応援するおばあちゃんまで演じたりもする。

2008年7月には、架空の「柳沢商業」の甲子園熱闘を一人20役で“再現”するCDアルバム『柳沢慎吾のクライマックス甲子園!!』をリリースした。開会式に始まり、オリジナルのヒッティングマーチや校歌、決勝戦そして閉会式まで、柳沢がひとりでしゃべりまくる。これは川藤幸三のしゃべりを集めたCD『KAWATO VOICE』と並ぶ野球関連の珍CDと紹介された。

タイトルの意味は彼が20年前に出演していたカップ焼きそばのCMより。

相武キス、だいぶキス

2011-03-05 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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ANDY GIBB「SHADOW DANCING」

本日はアンディ・ギブのお誕生日ということであっぷしました。

ギブ3兄弟からなる「ビージーズ」の弟として、1977年アルバム「Flowing Rivers」で兄たちのビージーズプロデュースでデビュー、このアルバムから「恋のときめき」、「愛の面影」が全米1位と幸先にいいスタートをし、この曲は同じくビージーズプロデュースで2枚目のアルバム「Shadow Dancing」からのタイトルチューンで、7週間全米1位を獲得、1978年度ビルボード年間チャートでは1位、兄たちが手がけたアルバム「サタデーナイトフィーバー」が世界的大ヒットし、総売り上げがギネス認定(マイケル・ジャクソン「スリラー」まで)されるほど超大ヒットで、その中から「恋のナイトフィーバー」、「Stain'Alive」、「愛はきらめきの中に」が1位と年間のTOP10入りとなり、彼自身の「愛の面影」も入り1978年はビージーズファミリーがTOP10の半分を制覇し、このころのディスコブームとともに、彼らも立役者でミラーボールに指をさす(byジョン・トラボルタ)きらびやかな年となった。

この曲が最後の全米1位で、その後はこの曲と一緒に収録されているアルバムからの「永遠の愛」が全米5位、3枚目のアルバムからの「Desire」が全米4位、本業の音楽活動以外でも俳優業まで進出、そのころ付き合っていた女優さんがいたが、1981年夏に、エヴァリー・ブラザースのカバー「All I Have To Do Is Dream」をプリンシパルと共演する頃、彼女との恋愛も終わってしまった。この曲がアンディ最後の公式シングルであり、アメリカのチャートに記録された最後の曲だった。それは最高位は51位だった。

その後はドラッグ中毒で入院し、ようやく病気を克服し、現場復帰し、彼も「ビージーズ」メンバーに入るのではとささやかれた時、1988年3月10日にウイルス感染による心筋炎で30歳の誕生日を迎えたばかりに他界した。

その後は兄3兄弟のビージーズが残り、活動をしていたが、2002年に3番目のモーリスが他界、これがきっかけでビージーズ休止したが、2009年リーダーバリーとロビンで活動を再開した。

ところで余談ですがアンディと同じ潜在能力の彼女とのキスはどんな味ですか?

笑顔の魔法教えて

2011-03-04 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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B.B.クイーンズ「ゆめいっぱい」

本日はボーカル担当の坪倉唯子さんのお誕生日ということでアップしました。

この曲はさくらももこ原作のアニメ「ちびまる子ちゃん」のオープニングテーマ曲として起用されたナンバーで、彼らにとってデビュー曲でありながら、超大ヒットした「おどるポンポコリン」(こちらはエンディング)のカップリング曲として収録されている。


作詞は三原順子(じゅん子)「セクシーナイト」など手がけた亜蘭知子、

作曲はオリコン作曲家歴代売り上げランキングでは3位、1990年代前半にはZARD、WANDSなどビーイング系アーティストの作曲や編曲、プロデュースを手がけ、半ばになれば相川七瀬の楽曲のほとんどを手がけ、大ヒットさせ、自身も1992年シングル「いつまでも変わらぬ愛を」で1位を獲得することとなる織田哲郎、

が手がけている。



バンドの流れとして、

1990年、アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「おどるポンポコリン」でデビュー。同年のオリコン年間シングルチャート1位の大ヒットとなり、同年の第32回日本レコード大賞ポップス・ロック部門を受賞。第41回NHK紅白歌合戦にも出場している。1990年頃からのCDプレイヤーの爆発的な普及と相まって、CDの大ヒット多発時代、および一世を風靡したビーイングブームの幕開け的存在になった。1992年に活動休止した。

2011年2月、近藤より復活が宣言され、近藤・坪倉・増崎・宇徳の4人で19年ぶりの復活(残る4人は音楽家活動専念や活動休止・引退などで不参加)。 結成20周年をきっかけに期間限定で再始動。同年の荒吐ロックフェスティバルの出演が決まり、同グループでは初のライブ。また年内にCDをリリース予定。


そんな板尾創路と同じ潜在能力の坪倉さんですが、

実は実力派シンガーであり、


来歴として

1980年、桑名晴子withベーカーズショップに参加。

1981年、第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト大阪代表で出場(グランプリはアラジンの「完全無欠のロックンローラー」)。

1985年、ソロシンガーとしてデビュー。並行して中島みゆきや中原めいこ、渡辺美里などのバックコーラスを務める。

1989年、渚のオールスターズに参加する。

1990年、近藤房之助らとB.B.クイーンズを結成。『ちびまる子ちゃん』の初代ED曲「おどるポンポコリン」がミリオンセラーに。この時期、ランキング番組出演の際、バックコーラスとして出演していた中島みゆきのコンサート会場のそばから、ひとり中継で出演したこともあった。B'zのバックコーラスも務めている。

1992年、KBS京都ラジオはいぱぁナイト木曜日のDJを担当

1993年、日本テレビ系ドラマ『ジェラシー』の主題歌「ジュテーム」、中島みゆきが作詞を手がけた「365日の昼と夜」がヒット。

1998年、ミュージカル『RENT』に出演。

2006年、本田美奈子.の追悼シングルとして発売された「wish」に、福山雅治らとともにINOUE AKIRA & M.I.H.BANDのボーカルとして参加。

『吉田拓郎&かぐや姫Concert in つま恋2006』に吉田拓郎のバッグコーラスとして参加。

2008年、福山雅治のカウントダウンライブ「福山☆冬の大感謝祭 其の九 福山祭りだワッショイ!ワッショイ!」(横浜アリーナ)にバックコーラスとして参加。

2009年、4月20日 Blues Alleyにて、富倉安生、中村哲、江口信夫、三沢またろう、齋藤有太、中山ミサらと共にソロライブ。

2009年、福山雅治の20周年記念ライブ「福山☆イキナリの大感謝祭 〜エッ!してなかったの?初めてだったの?〜愛福山博in武道館!!」、「全国アリーナツアー2009」にバックコーラスとして参加。

2009年、10月20日 Blues Alleyにて、今剛、後藤次利、山木秀夫、重実徹、三沢またろう、牛山玲奈らと共にソロライブ。

2010年、2月4日 Blues Alleyにて、富倉安生、島村英二、古川望、鈴木明男、清岡太郎、斉藤有太、三沢またろうらと共にソロライブ。

2010年、3月4日 Blues Alleyにて、富倉安生、島村英二、古川望、清岡太郎、中村哲、三沢またろう、友成好宏、(Vo)比山貴咏史、 木戸やすひろ、 広谷順子、中山ミサ、杉本和世 らと共にBirthday LIVE。

2010年、2010年4月(平成22年度)の洗足学園音楽大学 ロック&ポップス ヴォーカルの教員に

2010年、9月11日 Blues Alleyにて、富倉安生、島村英二、古川望、中村哲、鈴木明男、清岡太郎、斉藤有太、三沢またろうらと共にソロライブ。

2010年、中島みゆき TOUR2010にバックコーラスとして参加。

2011年、近藤房之助、増崎孝司、宇徳敬子とB.B.クイーンズとしての活動を再始動。

他にもCMソングや、『バブルガムクライシス』、『きまぐれオレンジ☆ロード』、『SAMURAI DEEPER KYO』などのアニメソングも手掛ける。また、ラジオ番組ではKBS京都の『はいぱぁナイト』木曜の4代目パーソナリティーとしても知られる。

この曲はお笑いチックに歌っているのとは違ってまともに歌いこなしているナンバーです。

さちこのおひなさま

2011-03-03 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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安田祥子とひばり児童合唱団「おひなさま」


本日はひな祭りということであっぷしました。

はじまりとして、

「雛祭り」はいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。

平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。

初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。

江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。

もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。

江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。

その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。

しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。

この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。


そんな市川海老蔵と同じ潜在能力の安田さんですが、

小学生時代にひばり児童合唱団に所属。その後コロムビアに所属、童謡歌手として活躍した。東京芸術大学に進学し、卒業後は同大学の大学院に入学、修士課程修了。またニューヨークのジュリアード音楽院、ロチェスターのイーストマン音楽院で音楽を学ぶ。

東京芸術大学講師を18年続けたが、コンサート活動に専念のため勇退した。ボイストレーナーとしての功績も大変大きい。

1987年、文化庁の芸術家特別在外研修員として、ヨーロッパ、アメリカに派遣される。現在は、(財)日本フォスター・プラン協会(プラン・ジャパン)の評議員として、発展途上国の子友だちの支援にも力を入れている。一人娘は、ニューヨークの国連本部、国連人道問題調整部(OCHA)に所属し、世界中で起きている大きな災害の救援活動に奔走している。

1982年に妹・由紀さおりのコンサートに参加したことで、姉妹での活動が始まり、1986年に姉妹でスタートさせた童謡コンサートは国内、海外での公演を続け、2006年11月8日、姉妹としての2,000回達成記念コンサートを開催。2007年5月、21周年のコンサートツアーをスタートさせた。姉妹での音楽活動は後に、岩崎宏美、良美姉妹などに影響を与えた。

本来はマイクを使わなくても会場の最後尾まで聞こえるほどの声量を持つが、最近はテレビ・ラジオなどの歌番組の技術上の兼ね合いによりマイクを使うことが多い。

現在は姉妹でコンサート真っ最中で後のコンサートについては「安田音楽事務所HP」(yuki-yasuda.com)をご覧ください。

三にはアホの世界がある

2011-03-03 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
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大野雄二バンド「ルパン三世のテーマ」

本日は現在ルパン三世のCVを担当している栗田貫一さんのお誕生日ということであっぷしました。

この曲は、説明不要「ルパン三世」の主題歌でおなじみですが、


長年愛されているルパン三世でありますが、


年表として

1967年 8月、「漫画アクション」に漫画『ルパン三世』を連載開始。

1969年 パイロットフィルムが完成するが未公開に終わる。

1971年 よみうりテレビをキー局として、アニメ『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』放送開始。同年「漫画アクション」に漫画『ルパン三世 新冒険』を連載開始。

1974年 実写映画『ルパン三世 念力珍作戦』公開。

1977年 6月、「漫画アクション」に漫画『新ルパン三世』を連載開始。10月、日本テレビをキー局として、アニメ『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』放送開始。

1978年 3月、『ルパン三世 ベネチア超特急』を春の東宝チャンピオンまつりにて併映。12月、TV第2シリーズの高視聴率を受け、初の長編劇場映画『ルパン三世 ルパンVS複製人間』公開。

1979年 1月22日放送のTV第2シリーズ第67話「ルパンの大西遊記」が当時のアニメとしては異例となる視聴率30%以上(32.5%)を記録。12月、劇場映画第二作『ルパン三世 カリオストロの城』公開。

1980年 4月、初のコンピュータゲーム化として『ルパン三世』発売。

1984年 3月、よみうりテレビをキー局として、アニメ『ルパン三世 PartIII』放送開始。夏「漫画アクション」に漫画『SEXYルパン・サード』短期連載。9月、新作劇場映画を製作、翌年公開することが決定。『押井版ルパン三世』を公開が予定される物のお蔵入りとなる。

1985年 劇場映画第三作『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』公開。

1987年 「ルパン三世」初のOVA『ルパン三世 風魔一族の陰謀』発売。同時に劇場映画第四作として公開。

1989年 「ルパン三世」TVスペシャル放送開始。TVスペシャル第一弾『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を『土曜スーパースペシャル』で放送。

1990年 TVスペシャル第二弾『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』放送。このTVスペシャルから『金曜ロードショー』で放送されるようになり、以降、毎年夏休みに新作が放送されるようになる。

1991年 TVスペシャル第三弾『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』放送。

1992年 TVスペシャル第四弾『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』放送。

1993年 TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』放送。

1994年 7月、TVスペシャル第六弾『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』放送。
この作品が山田康雄の事実上の遺作となる。翌年、新作劇場映画の製作が決定し、年内に予告編第一弾が収録される。また、エッソ・スタンダード石油(ESSO石油、現:エクソンモービル)が翌年の年明けから放映するCMにルパン三世を起用することも決定、こちらも年内に収録が行われる。

1995年 1月、エッソ・スタンダード石油のCMがTV放送開始。2月、山田康雄が脳出血で倒れ意識不明となる。そこで製作中の劇場映画には、山田と親交があり、自身のものまねレパートリーとしてルパン三世を演じたこともある栗田貫一が代役をつとめることになる。早期復帰を願っていた山田康雄は意識が戻らぬまま3月19日に永眠。このことを受け、日本テレビは金曜ロードショーで「山田康雄追悼企画」と題してTVスペシャル第一弾『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送。4月、劇場映画第五作『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』公開。8月、TVスペシャル第七弾『ルパン三世 ハリマオの財宝を追え!!』放送。この作品以降、栗田貫一が正式にルパン三世役を引継ぐこととなる。

1996年 4月、劇場映画第六作『ルパン三世 DEAD OR ALIVE』公開。モンキー・パンチがシリーズ史上初めて監督を担当する。8月、TVスペシャル第八弾『ルパン三世 トワイライト☆ジェミニの秘密』放送。

1997年 「ルパン三世」誕生30周年。TVスペシャル第九弾『ルパン三世 ワルサーP38』放送。「ルパン三世 (Shusay版)」が連載される。

1998年 「漫画アクション」に漫画「ルパン三世Y」連載開始。パソコンとプレイステーションのCD-ROM『ルパン三世 D2MANGA』が発売される(原作に彩色、動きと効果音、声をつけたデジタルマンガ)。7月、TVスペシャル第十弾『ルパン三世 炎の記憶〜TOKYO CRISIS〜』放送。11月、ミュージカル『ルパン三世 I'm LUPIN』公演。

1999年 TVスペシャル第十一弾『ルパン三世 愛のダ・カーポ〜FUJIKO'S Unlucky Days〜』放送。

2000年 TVスペシャル第十二弾『ルパン三世 1$マネーウォーズ』放送

2001年 「ルパン三世」TV放送開始30周年。TVスペシャル第十三弾『ルパン三世 アルカトラズコネクション』放送。

2002年 4月、OVA第二弾『ルパン三世 生きていた魔術師』発売。7月、TVスペシャル第十四弾『ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト』放送。

2003年 TVスペシャル第十五弾『ルパン三世 お宝返却大作戦!!』放送。

2004年 季刊誌「ルパン三世officialマガジン」(双葉社)が創刊。同誌に『ルパン三世M』を連載開始。TVスペシャル第十六弾『ルパン三世 盗まれたルパン 〜コピーキャットは真夏の蝶〜』放送。

2005年 TVスペシャル第十七弾『ルパン三世 天使の策略 〜夢のカケラは殺しの香り〜』放送。

2006年 7月、HIP HOP アーティスト・SEAMO(シーモ)がルパン三世のテーマ曲をラップでカバーした「ルパン・ザ・ファイヤー」が発売。9月8日、TVスペシャル第十八弾『ルパン三世 セブンデイズ・ラプソディ』放送。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の特別単行本「超こち亀」に、1994年の『ルパン三世・ALIS PLAUD』以来実に12年ぶりにモンキー・パンチ自身の筆によるルパンがこち亀との合作として発表される。

2007年 「ルパン三世」誕生40周年。7月27日、TVスペシャル第十九弾『ルパン三世 霧のエリューシヴ』放送。

2008年 4月、OVA第三弾『ルパン三世 GREEN vs RED』発売。7月25日、TVスペシャル第二十弾『ルパン三世 sweet lost night 〜魔法のランプは悪夢の予感〜』放送。

2009年 3月27日、日本テレビ開局55周年・読売テレビ開局50周年記念企画として、『ルパン三世VS名探偵コナン』が金曜ロードショー枠で放映。

2010年 2月12日、TVスペシャル第二十一弾『ルパン三世 The Last Job』放映。




豆知識として、

1967年にモンキー・パンチ原作で、双葉社「漫画アクション」にて2年間連載していたが、

当初ルパンは当時人気だったビートルズの長髪にあやかって長髪になる予定だったが、初めて連載する時に原作者のモンキー・パンチが締め切りを忘れていて、長髪だと描くのに手間がかかって間に合わないため、時間を短縮させるためそれまで長髪で描いていたのを修正液で消してまで短髪に変えたというエピソードがある(長髪だと描くのに5分位かかったが、短髪だと30秒位になり、20ページの原稿だと約1時間短縮になったとのこと)。

1983年に子供向け作品として「ルパン8世」がフランスとの合作で製作されたことがある。

第8話まで製作されたが中断、未放映。ルパン三世の子孫であるルパン8世が主役の作品で、この作品ではルパンは表向きは私立探偵で、裏家業が泥棒という設定である。これは一部の海外で版権(この場合、モーリス・ルブランの原作の絡み)や泥棒を主人公といった作品による倫理上の問題により、ルパン三世が泥棒ではなく探偵という設定で放送されていた地域があったからである(モーリス・ルブランの原作でも、ルパンが探偵を営む話がある『バーネット探偵社』)。

なお、時代背景は22世紀で、宇宙旅行が当たり前になっている時代であり、宇宙でのストーリーが中心になっているらしい。次元や五ェ門、銭形の子孫も登場しており、次元は煙草のかわりにポップキャンディーを口に咥え、五ェ門は斬鉄剣のかわりにレーザーソードを振り回し、銭形の子孫はやはり警官で、ルパンの裏家業を確信しつつ彼らを追う。日本においては双葉社の100点コミックスによりコミカライズされた単行本が出版されていた。この作品中ではオリジナルのルパンファミリーと銭形は全員コールドスリープで眠っている事が明かされている。なお、2007年1月に放送されたトリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜でも紹介された。

本作が大ヒットして以降、エピゴーネンとして「文学作品に登場する著名人を祖父母に持つ主人公」が活躍する作品が次々と誕生した。代表的なものでは1990年代に大人気作品となった漫画「金田一少年の事件簿」があり、講談社の編集者が本作をヒントに思いついたという。奇しくも両作は、テレビシリーズが同じ日本テレビ系列で製作されている。
TV第2シリーズ放送中の1979年3月5日の放送では、当時日本テレビアナウンサーであった徳光和夫が実況アナウンサーとして実名で登場した。なお、この日は、徳光が司会を務める「ズームイン!!朝!」が開始された日であった。

TV第2シリーズで二階堂有希子に代わり峰不二子役になった増山江威子は当時、日本テレビに来た視聴者達のキャスト変更に対する批判の投書を数々見せられ、「こんな悲しい事はなかった」と後に語っている。しかしそれが発奮材料になって自らの持ち味を生かし新たな不二子を作り上げたという。

叶バンチョウという漫画家が『ヌスット』というタイトルでルパン三世のパロディ作品を週刊少年ジャンプで連載していた。連載期間は1970年の4・5号から同年38号まで。現在にいたるまで単行本化されていないため、もはや幻の漫画と化している。

TV第2シリーズ101話目で『ベルサイユのばら』のオスカルが登場した。ルパンがマリー・アントワネットの王冠を盗もうとする内容。アニメ『ベルサイユのばら』はこの1ヶ月後に放送開始となった。

1984年に押井守監督による『押井版ルパン三世』が制作が発表されたが、内容がルパンとはかけ離れたものになってしまったお蔵入りとなった。
アルセーヌ・ルパンの孫が「ルパン三世」という名前になるのは厳密に言えば誤りである。2世、3世の名前はファミリーネームには付けないのが欧州での慣習であり、正しくは「アルセーヌ三世」とすべきである。


まさに1960年代から2010年代にいたるまで「こちら葛飾区亀有公園前派出所」とともに世に合わせ支持を受けている代表的な作品といえよう。


そんな川島海荷(お誕生日おめでとう)と同じ潜在能力のクリカンですが、

昭和33年3月3日生まれで、平成3年3月3日に33回目の誕生日を迎えた。それゆえ、「昭和33年3月3日生まれの人は、平成3年3月3日に33歳になった」というフジテレビ系『トリビアの泉』のネタにも出演した。このことは、嘉門達夫のシングル『NIPPONのサザエさん』のカップリング曲『ひねりなさい』でも唄われている。

ルパン以外でも田村正和、志村けん、桑田佳祐、郷ひろみなど多彩にモノマネをこなしているが、

ものまね王座決定戦に出演の際、ルパン三世を題材としたものまねを繰り広げていたが、「俺はそんなこと言わねえぜ」という声と共に山田康雄が現れた。山田の登場と同時に栗田は山田に対して深々と頭を下げ、その後は二人でルパンを演じていた。このことは山田の追悼本(「ルパン三世よ永遠に-山田康雄メモリアル-」)でも語られている。他にも『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS)などでルパンのものまねを披露したこともあった。   

細川たかしのことを「親父」と呼んで慕っており、本人から名前入りの着物をもらっている。『ものまね紅白歌合戦』(1999年12月放送分)の中で披露した。
番組では正統派のものまねのみならず、思わず笑ってしまうような遊び心のあるものまねも幅広く行う。後者タイプのものまねを披露した際、ものまねされた本人が引き続き登場した場合は土下座をすることが多い。

ジャンケンが非常に弱く、ものまね王座決定戦の同点引き分け時のジャンケンで何度も涙を飲んでいる。そのため、四天王の中で決して実力は後れを取っていないものの、優勝回数は少ない。

1991年(平成3年)3月3日に33歳になったため、それを記念して事務所で何かをやろうかと考えていたが、結局その日は自宅でゆっくりしていたらしい(本人談)。

父親からの教えは「人の真似をして生きるな」であったという(モノマネショーでの本人談。「父から『人のマネをするな。人のマネをすると、笑われるぞ。』と言われてきたが、今はそうなっちゃいました(つまり職業として人に笑われるに到った)」ということを言っていた。)。

デビューした頃、父親の家業を継がなかったため、勘当され親子関係が悪化していたが、有名人となった現在では親子関係は修復している。

同じくものまねタレントのカール北川がルパン三世のものまねをした際に、本人(この時はすでに声優に就任して10年が経過していた)として登場し、ルパン三世の決め台詞「俺の名はルパン三世」の一節を披露した。

『ルパン三世VS名探偵コナン』のアフレコの際、スタジオに予定より早く着いてしまい、ルパンのスタッフがいなくて一人困ってしまったことがある。その栗田にコナンの声優陣の中から江戸川コナン役の高山みなみが話しかけて来た際、「『DEAD OR ALIVE』の時に参加させていただきました」という高山に「今日は何の役ですか?」と聞いてしまったというエピソードを2009年4月出演時の『ライオンのごきげんよう』で話していた。

ルパン三世のモノマネを世間に広めた第一人者でもある。

筋肉爆弾!らいふ

2011-03-02 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

BON JOVI「It's My Life」

本日はボーカルのジョン・ボン・ジョヴィのお誕生日ということであっぷしました。

この曲は2000年7枚目のアルバム「クラッシュ」からのファーストシングルとしてリリースしたナンバーでお笑い芸人なかやまきんに君のネタのテーマ曲として聴きなじみがあるはず。

このアルバムの概要として、

3枚目アルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』の路線であることをアルバムの制作初期段階から公表しており、アップビートで明るい雰囲気の作品となっている。

シングル「イッツ・マイ・ライフ」は全米1位となった「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」の現代版とも言われている。

日本では「サンキュー」がテレビ朝日系ドラマ『29歳の憂うつ パラダイスサーティー』の主題歌に採用された。

また、J-FRIENDSに提供した「Next 100 Years」(日本語詞;稲葉浩志)をセルフカバーしている。


そんな優木まおみ(お誕生日おめでとう)と同じ潜在能力のジョンでありますが、

ガラガラ声や甘いハスキーボイス等のボーカルスタイルが特徴で、綺麗な声や譜面通り歌えることはロック・ボーカリストに必要ないことを証明したと言われている。

また甘いルックスでありデビュー前に映画『フットルース』の主演候補にあがったこともあったほど。

デビュー当時から現在に至るまでルックスはさほど変わっていない。また、BON JOVIはジョンを売り出すためのバックバンドだったがジョンの希望でバンドとしてデビューして現在に至った。

詞と曲は主にリッチー・サンボラと共作、あるいは外部のソングライターと三人で作っている。曲作りはギターを使用し、曲によってはライブで弾き語りをする。

ブルース・スプリングスティーンを敬愛しており、多大な影響を受けた。

本名の苗字はBongiovi(ボンジィオビ)だが、発音のしやすさ、表記の見やすさを考慮して「Bon Jovi」という芸名にしている。バンド名も同様。尚、Bongioviはイタリア系の姓である。

最近、頭髪が薄くなり始めており、そのことを気にしている。

非常に体毛が濃く特に胸や腹の部分が毛深い事で有名で、映画出演の際には一度全て剃り落としたほどだった。

昔からリップシンクで歌う時がある。特に新曲発表直後の時など。

高音の激しい曲などを歌い続けた影響により喉の状態が悪化していったため、少しでも喉の負担をやわらげるためにLiveなどではキーを半音下げるなどをしている。

政治的には長く民主党を支持しており、寄付活動を行っている他、民主党の党大会で歌ったこともある。2010年にはバラク・オバマ大統領から「コミュニティーソリューション評議会」の委員にも任命された。

「ドラゴンボール」とのオリジナルコラボPVとともにお届けします!

可憐なる頂点

2011-03-02 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

カーペンターズ「Top Of The World」

本日は、メインボーカルのカレン・カーペンターのお誕生日ということであっぷしました。

1970年代を中心に、アメリカのトップ40やアダルト・コンテンポラリー・チャートの記録を塗り替え、ソフト・ロックやイージー・リスニング、アダルト・コンテンポラリー・ミュージックといったジャンルにおける主要なヒットメーカーとなった。ビルボード・ホット100チャートで1位となったシングルが3曲、アダルト・コンテンポラリー・シングル・チャートで1位が15曲ある。

さらに、トップ10入りは12曲に及ぶ。カーペンターズのアルバムおよびシングルの総売上枚数は1億枚を上回るとされている。

14年間の活動で、11枚のアルバム(うち『遙かなる影』『カーペンターズ』『ア・ソング・フォー・ユー』『ナウ・アンド・ゼン』『緑の地平線〜ホライゾン』の5枚がトップ10シングル曲を収録)、31枚のシングル、5本のテレビ・スペシャル番組、テレビ・シリーズ番組を1本制作した。アメリカ本国をはじめ英国、日本、オーストラリア、オランダ、ベルギーなど世界各国でツアーを行った。

オリコンチャートブックの集計では1970年から1989年(いわゆるレコード時代)の日本での海外アーティスト別アルバム売上枚数はビートルズに次いで第2位である。シングル売上枚数は第1位。CD時代に入った後も、1995年発売のベスト盤『青春の輝き〜ベスト・オブ・カーペンターズ〜』が300万枚越えるセールスを記録する等、日本においても時代を超越して愛され続けているグループである。

この曲は1972年に発表されたナンバーで、まずは日本からヒットし、それから本国アメリカでリリースとなり、1973年にBillboard Hot 100において1位になり、デュオにとって2曲目のビルボード誌におけるナンバーワンシングルとなった。

カバーした人は、

アグネス・チャン - 1973年のアルバム『草原の輝き』で、「トップ・オブ・ザ・ワールド」と「シング」をカバーした。

スウェーデンのダンスバンド(スウェーデン独自の音楽)、Vikingarnは1974年にラジオ局Svensktoppenにおいてスウェーデン語版の「Pa varldens tak」をヒットさせた。バンドにとって初めてのヒットであった。

1994年、フレンズのマンハッタンが真っ暗!(The One With the Blackout)においてフィービー、モニカ、ジョーイがこの曲を歌う場面がある。

少年ナイフのカバーは1995年の映画「最後の晩餐/平和主義者の連続殺人」のエンディングテーマとして使われ、1998年の「ファミリー・ゲーム/双子の天使」では劇中で使われ、2005年のサントリーの缶入りチューハイ「-196℃」の発売当初ではCM曲として使われている。カーペンターズのトリビュートアルバム及び「ワイルドスピードX3:TOKYO DRIFT オリジナルサウンドトラック」に収録されている 

倉木麻衣、キマグレン、一青窈、持田香織(Every Little Thing)などカバーしている。


そんな東尾修と同じ潜在能力の彼女の音楽的評価として、

カーペンターズ活動初期までは「歌手専任」としてよりも「歌うドラマー」としての活動が多く、ドラマーとしての評価も高いものが多い。

「『Yesterday Once More』の収録時、リチャードが前半だけを録り直したいという要求を出してきた。当時、部分録り直しは収録テープの切り貼りでしか実現することができず、後半ではなく前半を録り直すには、前半の正確な演奏時間と、それを再現して後半に結びつけるリズムキープ力が必要であり、無謀と思われた。

しかし、カレンの正確なクリックによって、前半の演奏時間および後半に結び付けても揺れのないリズムが再現され、録り直しに成功した。

しかも、今聴いてもどこに繋ぎ目があるのか、繋いだ本人すら判らない。」というエピソードを持つほど、リズムキープ力に対する評価が高い。

英語ヒヤリングの基本的なアーティストとして声の美しさに定評があり、ポール・マッカートニーやジョン・レノンも絶賛したという。親日家でもあった。

ぜひ、小学生の子を持つ保護者の方、「カーペンターズ」おススメです!!