わしやま

実験的に楽しく、まじめに書き込んでいるブログです!以上書き込み責任者:やましたじゅんいち

ミヨちゃんペ。

2011-03-01 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

ザ・ドリフターズ「ミヨちゃん」

本日はドラムス担当の加藤茶さんのお誕生日ということであっぷしました。


いうまでもなく、今までないハチャメチャなことを仕掛けつつも、ひとりひとりの個性があり、お笑い、俳優、音楽に通ずる才能を発揮した実力派のエンターテイメント集団であり、

一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは音楽バンドとして活動していた。楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。


メンバー構成として、

前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかったが、新生ドリフになってからはメンバーはほぼ固定され、5人の構成が取られるようになった。

初期のメンバーには、現在、催眠カウンセラーの吉田かずおが在籍していた。ただし、荒井注の脱退宣言の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書にも記述されているように、すわしんじ(現・すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なす解釈もある。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることは無い。

さらには、人形ながらもジャンボマックスがメンバー扱いされる記事も見受けられる。いかりや没後には新メンバーを加入させる予定は無く、現在4人の構成となっている。

いかりやの著書によれば、いかりやは自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続することを計画していた。

芸名由来は

新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー、ハナ肇でアメリカの黒人コーラス・グループのドリフターズから拝借し命名。

ドリフのメンバーにしてみると、ハナの独断に満ちた判断で適当に名付けられた感じがしたが、逆にインパクトがあり、今でも各人の名が覚えられる結果となった。なお、後に加入した志村は自分の父親の名前より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた。


この曲は1969年2枚目のシングルとしてリリースされたもので、オリジナルは1950年代後半、日劇ウエスタンカーニバルを拠点にロカビリーで人気を博した平尾昌晃のナンバー。

そんなともさかりえと同じ潜在能力の加トちゃんでありますが、

人物像として、

ドリフターズを辞めようとした事がある。いかりやに反旗を翻した小野ヤスシらがドンキーカルテットを結成する際に加藤を誘うが、プロダクションといかりやの慰留の説得によって残留した。

加藤がこの時のことを語る際、いかりやから「お前、どうするんだ!!」と凄まれたため、あまりの怖さに「残ります!」としか言えなかった、と面白おかしく紹介するのは、あまりにも有名である。

ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、この頃はプロダクションには所属しておらず、前リーダーの桜井輝夫がオーナーとして関わっており、前出の「お前、どうするんだ?」と説得したのは桜井とされている(いかりやは加藤を直接は説得していない、また桜井も普通に「どうするんだ?」と尋ねたにすぎない)。また、ドンキーカルテット側からも「加藤はドリフに残った方がいい」と進言されたとされている。

荒井注のドリフ脱退の際、加藤も一緒に脱退しようとした事がある。だが荒井が先にドリフ脱退を発表してメンバーのみならず世間も大騒ぎになってしまい、結局脱退を言い出せなかった事があり、加藤本人も笑い話としてテレビで度々この話を披露する。

スピード狂のところがあり、1970年に交通事故を起こしたり、1987年には首都高速をランボルギーニカウンタックで80キロオーバーの時速143kmで走るなどのスピード違反で数回処分歴があり、ドリフ大爆笑のもしものコントでこの事がネタにされた事があった。後の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』でも、カーアクションシーンでの運転(実際のアクション部分はスタントか代用人形だった)はだいたい加藤である。ただし、これは志村が運転免許を持っていないため志村の運転だとリアリティに欠けるというのも一因である。その上、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が放送期間中で交通事故を起こし、それが新聞に載った上に放送日の土曜だったため、探偵コントのセットで番組冒頭で1分ほどの加藤本人による謝罪に近い映像が流れた事もある。

少年時代には平泳ぎが得意であった。中学生の時の全校水泳大会の自由形では、他の選手が全員クロールの中、加藤だけが平泳ぎだったにも関わらず、加藤が1着だったという(『6年の学習』1979年9月号より)。

ドリフターズメンバー全員の共通の趣味であったクレー射撃は加藤が一番巧く、公式大会での優勝記録も多数残しており、本人曰く「協会からオリンピック代表候補の打診もあったが、ドリフが一番忙しい時期だったので、事務所に行かせてもらえなかった」というほどの腕前であった。なおクレー射撃の銃所持免許は、前出の度重なる交通違反による前歴から取消処分を受けている。

「『全員集合』全盛時代には、クラブの遊興費だけで、1年に1億円は使っていた」と告白したことがある。ただし、普段はリハーサルや本番やほかの仕事で忙しく、これはドリフターズの夏休み期間のみの話である。「そんなお金、ぜ〜んぶなくなっちゃったね」と、あっさり言ってのけた。その発言の場に居合わせたウッチャンナンチャンをはじめ、ゲストたちは驚きを隠せなかった。

ギャンブルは穴狙いで、『木梨サイクル』にて見事的中させる様子が放映された。大量の札束をポーカーフェイスで受け取る加藤に対し、木梨憲武が「加藤さん…」と言ってその後絶句したが、加藤は「え、なに?」と一切興奮した様子を見せなかった。

一時は仲本・高木と3人で競走馬を所有していた(=馬主だった)。加藤曰く「仲本に誘われて初めて大井に行って馬券を買ったところ、いきなり1万5千円(150倍)の馬券が当たり、しかもそれを5千円も買っていたので、勢いに乗ってその金で馬を買っちゃった」という。購入後1年ほど経った頃、仲本の「そろそろ売った方がいい」との意見でその馬を売却するが、それまでの間に7勝を挙げ「買った額以上には稼いでくれた」らしい。

それ以来競馬にどっぷりはまり、日本国内だけでなく海外でも競馬場に足を運んでいる。過去にはロサンゼルスに行った際に近隣の競馬場(名前は忘れたとのこと)に行き「英語がわからないので見た目だけで馬を選んで、12レース中7レース馬券を的中させた」こともあるという。

プロ野球・読売ジャイアンツファンである(現在ラミネス選手が「加トちゃんぺ」をしている)。

2003年離婚後に犬(トイ・プードル)を飼いはじめ、今では犬の服を数十着も着せてるほど溺愛してる。



そこんとこ世露死苦!

2011-03-01 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

中山美穂「JINGI・愛してもらいます」

本日は中山美穂さんのおたんじょうびということであっぷしました。

この曲は、1986年6枚目のシングルで、オリコンチャート4位、ザ・ベストテン10位、歌のトップテン8位を記録している。

この曲は作詞松本隆、作曲小室哲哉、編曲大村雅朗という豪華メンバーで作られた。

表題作は自身主演の東映映画『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』主題歌。

後にCDデビュー前の浜崎あゆみがフジテレビ系『TK MUSIC CLAMP』で歌唱した。


で、「ビー・バップ・ハイスクール」について。

1983年から20年間週刊ヤングマガジンに掲載していたきうちかずひろによる作品で、

ツッパリダブリコンビのヒロシとトオルがケンカに恋に明け暮れる様を描く。主人公が突出して強い存在ではない点や、不良高校生の日常が伝わってくる初期の描写が人気を博した。20巻位までは登場人物達の恋愛話や他校との抗争などがメインだったが、20巻台以降は小咄的なギャグ短編が多くなった。きうちによれば、ケンカの話を進めていくと最終的には日本一、ひいては世界一・宇宙一強い不良との対決を描かざるを得ない事になり、そうした展開にはしたくなかったからと話している。

本作は当初「少年ジェッツ」にて連載をする方向で進められていたが、編集からのタイトル変更、及びパンチラなどの要求をきうちが拒否、結果「少年ジェッツ」からは原稿を引き上げ、講談社のちばてつや賞に投稿されたという経緯がある。

1988年度(昭和63年)、第12回講談社漫画賞一般部門受賞。

1985年には仲村トオル、清水宏次朗主演で実写映画化された。以後シリーズ化され、全6作が上映されている。その後、1994年に原作者のきうちかずひろ自ら監督した新実写映画化を皮切りにオリジナルビデオ・OVAも発売され、また2004年、2005年にはTBS系列でスペシャルドラマとして放映された。

なお、1990年にはアニメーションOVAとしても発売されている。2004年にパチンコ機・2006年にはパチスロ機も発売された。

作品としての最終回は存在せず、無期限休載(再開時期未定の休載)という形で連載終了となった。

余談として、仲村トオル・清水宏次朗主演作品については、静岡県静岡市や清水市(現在の静岡市清水区)での撮影が多かった。撮影に関してはJR東海清水駅、静岡鉄道車両内や沿線での撮影を中心に行われた。多数の本物の不良がエキストラとして参加しており、アクションシーンも過激で、出演者の小沢仁志曰く顔面以外は実際に当てて撮影し、中には骨折する者もいたり、カットがかかっても止まらず喧嘩していたという。更に休憩時間が終わっても戻ってこない者がいてスタッフが待っていたところ、警察に逮捕されていたという珍事も発生した。

「別冊ヤングマガジン」にて、本作のキャラクターを使ってそのまま極道漫画やビジネス漫画、さらには成人劇画などのドラマを色々とやった、『ビー・バップ海賊版』なる作品が連載されていた。作者は謎の漫画家「まんひるめめおか」となっている。その正体はきうち本人ではないかとも囁かれたこともある。なお、一度きりだが、本家と海賊版が共演した作品が掲載された事がある。

「アメトーーク」で「ビー・バップ・ハイスクール芸人」を取り上げましたが、その中でペナルティのヒデ氏が映画実写化に伴い、ヒロインがあの「毎度おさわがせします」で人気を博した清純派アイドル中山美穂が演じることに衝撃があったとのことで、(彼女は1作2作)出演実際観てみたらまだ15歳にもかかわらず女優魂がある人だと感じたとのことで、この曲が主題歌の2作目の与太郎哀歌では、髪の毛を切られ、ロングからショートになる場面がある。後々の彼女の芸能活動につながるきっかけにもなった。

この作品のモデルは話によれば、キャラクターは福岡県田川郡にあった田川農林高校(現在は統廃合している)の生徒で、校舎部分はきうち先生の出身校福岡県福岡市にある城南高校とのこと。



そんな藤子不二雄A先生と同じ潜在能力の彼女でありますが、

フジテレビ系オムニバスドラマ『世にも奇妙な物語』の第1回放送・第1話「恐怖の手触り」に主演した。

『毎度おさわがせします』の第1話では、当時中学生だった中山が乳首にニップレスを貼り、下着を脱いで、男性(木村一八)に布団をめくられるシーンがあったが、一時期の再放送では全てカットされた。その後、番組の版権を所属事務所がすべて買い上げたためビデオ版でもカットされた。しかし、DVDにはノーカットで収録されたほか、横浜にある放送ライブラリーでもノーカットで見ることができる。

雑誌『an・an』の好きな女性アンケートでは常に上位に位置し、1997年度調査から小泉今日子以来となる3期連続1位を獲得した。

芥川賞作家辻仁成と結婚の際は2002年日韓ワールドカップ日本初戦と同日であり、各スポーツ紙が表面は試合結果、裏面は中山と辻の結婚の話題とした号外を出した。

俳優の永瀬正敏、作詞家の小竹正人、タレントの網浜直子、歌手の斉藤さおり、森下恵理とはデビュー当時から親交がある。1994年発売のアルバム『わがままな あくとれす』に収録の「Dear My Friends」の歌詞にはそれぞれニックネームが登場している。なお、小竹は中山のファンクラブ会報で連載も担当している。

交友関係が広く小泉今日子、岡本真夜、Every Little Thingの持田香織、野口美佳、北村一輝などと交友がある。

「MOGITATE!バナナ大使」(TBSテレビ)にて山田邦子いわく、近くにいてもいないかと思うくらい物静かな性格と言われている。

女優の国分佐智子や酒井美紀、田中麗奈、内田有紀らは、中山を目標にしている。歌手の華原朋美は、中山に憧れて芸能界入りした

ドラム叩いてミャオ!!

2011-03-01 22:00:00 | わしやま音楽祭vol.13
お届けするのは

The Who「Who are You」

本日はボーカルのロジャー・ダルトリーのお誕生日ということでアップしました。

原形は、ロジャー・ダルトリーのバンド、The Detours。テレビで同じ名前のバンドが存在するのを知り、バンド名をザ・フーに改めた。

1964年、当時のマネージャー、ピート・ミーデンのアイデアでバンド名をザ・ハイ・ナンバーズに改名する。

同年7月、そのバンド名義でデビュー・シングル「アイム・ザ・フェイス」を発表するが不発に終わり、ミーデンは解任される。バンドはザ・フーに戻り、翌年1月、デッカ系列のブランズウィック・レーベルからシングル「アイ・キャント・エクスプレイン」で再デビューした。

同年11月、「マイ・ジェネレイション」の全英チャート2位のヒットによって現在までの評価を決定づける。この曲中の「年寄りになる前に死んでしまいたい」などの内容が、当時のイギリスの若者、特に労働者階級の不満を代弁したものとして、バンドは以後、同世代の代弁者的な役割を担うことになる。 その後、ピート・タウンゼントはクラシックの楽曲技法をロックに取り入れ、「ロック・オペラ」と称される楽曲を発表するようになる。

1967年6月、モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルに出演。

1969年8月、ウッドストック・フェスティバル及び第2回ワイト島フェスティバルに出演。

1970年8月、第3回ワイト島フェスティバルに出演。

この曲は1978年アルバム「Who are You」のタイトルチューンで、

アップしたのは同年5月25日に英シェパートン・スタジオで行われた、ザ・フーのドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』で、

メンバーとして


水樹奈々と同じ潜在能力のロジャー・ダルトリー(ボーカル)、

高岡早紀と同じ潜在能力のピート・タウンゼント(ギター、ボーカル、キーボード、シンセサイザー)、

IMALUと同じ潜在能力のジョン・エントウィッスル(ベース、ボーカル、ブラス)、

高城亜樹と同じ潜在能力のキース・ムーン(ドラムス)の


オリジナルメンバーであって、和気藹々とレコーディングを行う姿やひとりひとりの腕のある演奏が印象的で、特にドラムスのキース・ムーンが猫ひろしに似ているなと思いました。

しかし、このメンバーがそろったのが最後で、


それからは、

1978年9月7日、キース・ムーンがアルコール依存症を治療するための薬の過剰摂取により他界。

1990年、ロックの殿堂入り。

2002年、6月27日、北米ツアー開始前日にジョン・エントウィッスルが公演予定地の米ネバダ州ラスベガスで薬物摂取に起因する心臓発作で急死。

2004年7月24日および25日、横浜と大阪で開催されたロック・フェスティバル、POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004への出演のため初来日を果たし、

2008年11月に二度目の来日公演が行われた。バンド単独の来日初公演を行った。


その中でダルトリーのお誕生日ということで、

エピソードとして、

バンド初期に於いてダルトリーは小柄な体格にもかかわらず、必要な場合には暴力も使いバンドのリーダーを務めた。タウンゼントによると「ロジャーはすべてを自分の思うようにした。もし彼に反対したら、普通は拳を食らったよ。」。彼はバンドの演奏する曲を、ビートルズや様々なモータウンのアーティスト、ジェームズ・ブラウン、そのほかのロック・スタンダードから選んだとのことです。