この人も、林紘義氏の“ご学友”の一人である。
われわれ赤星マルクス研究会が2年前に、「われわれは敢然と過去と決別して、未来に生きる」といった時点から、日本の過去の左翼運動はわれわれにとってあまり意味のないものになっている。
では、なぜわれわれは、われわれがある意味でどうでもよいものと規定している、林紘義氏とその“ご学友”たちに関わり続けているのだろうか?
それは西部氏が、『正論』でいみじくも言ったように、この人たちのあいだでは「鬼籍に入る日が近くなって」、このままでは死んでも死にきれないという満たされない思いが充満しているからであろう。
もともと生きながら「化石」となった人々だから、生にたいする執着心はあまりないと思っていたが、自らの意志で「化石」となった人々の、死ぬ前にどうしても言わなければならない、という「たましいの叫び」を聞くたびに、大きな違和感を感じないわけにはいかないからである。
もちろん、彼らの満たされない思いは、彼らが人生でもっとも輝いていた(と彼ら自身が考えている)時期に行われた彼らの闘争(ブントの60年安保闘争)が実は中身があまりないものであり、彼らの半世紀はその空疎を埋めるために費やされた時間でもあったのだが、埋めようとして埋めきれない満たされない想いだけが彼らには残ったのである。
今回登場した青木昌彦氏(ペンネームは姫岡玲治氏)は、そういうブントの空疎を代表する人物であり、その彼はめずらしく某新聞で当時のことを回顧している。
青木氏の回顧が貴重なのは、彼がまるで他人事のように当時を振り返っているからである。それだけ客観的に当時を振り返ることができるのはこれまであまりいなかった。
特に、印象的だったのは「ブントがつぶれたのは自分が経済理論を知らなかったからだ」と島成朗書記長が語るところである。
その前に、1960年7月(つまり安保闘争直後)の第5回大会の様子が描かれているが、この大会はすでにブントが、プロ通派(『プロレタリア通信』)、革通派(『革命の通達』)戦旗派(『戦旗』)への分裂含みであり、統一した団体ではなくなりつつあることを露呈した大会であり、それこそ青木氏が言うようにヤジと怒号のなかで開かれ、何も決められずに散会したが、その時、島成朗氏が「ブントはおれがつくったと思っていたけど、お前がつくったんだな」と姫岡玲治氏に言ったことを青木氏は書いている。
なかなかいい場面だ。人望はあるが戦略のない指揮官と戦略はあるが人望のない参謀が敗色濃厚な戦況を前になすすべを知らずただ嘆くことすらできないでいるのである。
ところで、島成朗氏が「ブントはおれがつくったと思っていたけど、お前がつくったんだな」と姫岡玲治氏に言ったことは本当だろうか?
もちろん、経済理論を知らないと島成朗氏自身がみとめており、姫岡玲治氏はブントの理論家だったからブントの理論の多くは姫岡氏に負っていたという点で島成朗氏の発言は妥当であろう。また「姫岡国独資論」(姫岡玲治氏の国家独占資本主義論)はブント(共産主義者同盟)の綱領草案でもその基調をなしている。
青木昌彦氏(姫岡玲治氏)の国家独占資本主義論の特徴は独占資本の「自己金融」論であるが、それは国家によって補完されているがゆえに国家独占資本たり得うる。(「この自己金融の蓄積の様式は、租税などによって集中された莫大な社会的資金を、低利長期の国家資金として重要産業部門に供給したり、あるいは内部留保金にたいする免税策や、低金利政策、消費者信用の拡大などの経済政策によって、独占利潤を維持し、もしくは蓄積を促進するなどの国家機関によっの動員によってはじめて可能とせられるものである。」ブントの綱領草案より)
この「自己金融」による蓄積様式を当時の姫岡玲治氏は、「世界史の一段階」を画するものとまでいうが、実は、彼が見ていたのは朝鮮戦争時のほんの数年の日本資本主義でしかなかった。
周知のように、日本資本主義は朝鮮戦争の“特需”によって復活し、拡大再生産軌道に乗っていったが、その最初の頃は、銀行を中心とした財閥が解体し、銀行も戦後復興を遂げたばかりで産業資本に資本を貸し出すだけの余力を持っていたかった。だから、日本の多くの資本は、「自力更生」というか、朝鮮特需でボロ儲けした利益のほとんどを設備投資に回さざるをえなかった。つまり、「自己金融」による蓄積が優勢とならざるをえなかったのは、当時の日本資本主義がまだ若く、社会の蓄積された資本の多くを戦争で失ってしまい、それを回復する過程であったからにすぎなかったのである。
だから、1960年代にはいって本格的な高度成長が始まると、外部資金(銀行の貸し出し)は急増し、オーバー・ローンと呼ばれる貸し出し超過が恒常化、慢性化することになるし、資本が新株発行によって株式市場から資金を調達することも増加してくることになる。
そういう点では青木昌彦氏(姫岡玲治氏)はいいとき(自分の理論が決定的に破産する前)に左翼活動から足を洗ったとも言えるが、彼の理論がブントで重用されたのは、実は、後者の部分、すなわち資本の「自己金融」は国家によって補完されなければならないという部分である。
つまり、国家独占資本主義は高度に発達した資本主義であり資本主義の前夜なのであり「このように国家機構との結合を強めた『公的性格』の強化のなかで、社会主義の物質的準備は、完全に熟し切っている」(ブントの綱領草案より)のであるから、「プロレタリアートの決然たる行動と、政治権力の奪取こそが、すべての可能性をきりひらく」からである。
国家独占資本主義のもとでは、資本は国家と結合し『公的性格」を強めているのであるから、労働者が資本の政府を転覆すれば、そこには社会主義社会が待っているであろうというのは、政府を転覆することがすべてであるという小ブルジョア急進主義の立場そのものであろう。
ところが青木昌彦氏(姫岡玲治氏)は一方で、政府を転覆すれば社会主義になるのだから、安保闘争で岸内閣を倒せばいいのだといいながら、他方で「安保闘争はロシアの1905年ではない。同盟のすべてをかけるのは誤りだ。」というのであるから、何を言っているんだ」ということになる。(政府の転覆がすべてであるといいながら、政府の転覆にすべてをかけるのは誤りだという理屈は誰も理解できない)そういう点では、ブントの安保闘争論を形作ったのは青木昌彦氏(姫岡玲治氏)だが、同時にブントの内紛を準備したのも青木昌彦氏(姫岡玲治氏)なのである。
こうした混乱のなかで青木昌彦氏は姫岡玲治氏であることをやめたのだが、それを「経済学至上主義」の東大系が雲散霧消したのは当然であったと総括する。
われわれがいう林紘義氏とその“ご学友”とは青木昌彦氏のいう“東大系”のことであるが、彼らはむしろ島成朗氏がはっきりと認めているように、「経済学至上主義」を掲げながら、経済学を何も知らなかったがゆえに雲散霧消したといった方が正確であろう。
われわれ赤星マルクス研究会が2年前に、「われわれは敢然と過去と決別して、未来に生きる」といった時点から、日本の過去の左翼運動はわれわれにとってあまり意味のないものになっている。
では、なぜわれわれは、われわれがある意味でどうでもよいものと規定している、林紘義氏とその“ご学友”たちに関わり続けているのだろうか?
それは西部氏が、『正論』でいみじくも言ったように、この人たちのあいだでは「鬼籍に入る日が近くなって」、このままでは死んでも死にきれないという満たされない思いが充満しているからであろう。
もともと生きながら「化石」となった人々だから、生にたいする執着心はあまりないと思っていたが、自らの意志で「化石」となった人々の、死ぬ前にどうしても言わなければならない、という「たましいの叫び」を聞くたびに、大きな違和感を感じないわけにはいかないからである。
もちろん、彼らの満たされない思いは、彼らが人生でもっとも輝いていた(と彼ら自身が考えている)時期に行われた彼らの闘争(ブントの60年安保闘争)が実は中身があまりないものであり、彼らの半世紀はその空疎を埋めるために費やされた時間でもあったのだが、埋めようとして埋めきれない満たされない想いだけが彼らには残ったのである。
今回登場した青木昌彦氏(ペンネームは姫岡玲治氏)は、そういうブントの空疎を代表する人物であり、その彼はめずらしく某新聞で当時のことを回顧している。
青木氏の回顧が貴重なのは、彼がまるで他人事のように当時を振り返っているからである。それだけ客観的に当時を振り返ることができるのはこれまであまりいなかった。
特に、印象的だったのは「ブントがつぶれたのは自分が経済理論を知らなかったからだ」と島成朗書記長が語るところである。
その前に、1960年7月(つまり安保闘争直後)の第5回大会の様子が描かれているが、この大会はすでにブントが、プロ通派(『プロレタリア通信』)、革通派(『革命の通達』)戦旗派(『戦旗』)への分裂含みであり、統一した団体ではなくなりつつあることを露呈した大会であり、それこそ青木氏が言うようにヤジと怒号のなかで開かれ、何も決められずに散会したが、その時、島成朗氏が「ブントはおれがつくったと思っていたけど、お前がつくったんだな」と姫岡玲治氏に言ったことを青木氏は書いている。
なかなかいい場面だ。人望はあるが戦略のない指揮官と戦略はあるが人望のない参謀が敗色濃厚な戦況を前になすすべを知らずただ嘆くことすらできないでいるのである。
ところで、島成朗氏が「ブントはおれがつくったと思っていたけど、お前がつくったんだな」と姫岡玲治氏に言ったことは本当だろうか?
もちろん、経済理論を知らないと島成朗氏自身がみとめており、姫岡玲治氏はブントの理論家だったからブントの理論の多くは姫岡氏に負っていたという点で島成朗氏の発言は妥当であろう。また「姫岡国独資論」(姫岡玲治氏の国家独占資本主義論)はブント(共産主義者同盟)の綱領草案でもその基調をなしている。
青木昌彦氏(姫岡玲治氏)の国家独占資本主義論の特徴は独占資本の「自己金融」論であるが、それは国家によって補完されているがゆえに国家独占資本たり得うる。(「この自己金融の蓄積の様式は、租税などによって集中された莫大な社会的資金を、低利長期の国家資金として重要産業部門に供給したり、あるいは内部留保金にたいする免税策や、低金利政策、消費者信用の拡大などの経済政策によって、独占利潤を維持し、もしくは蓄積を促進するなどの国家機関によっの動員によってはじめて可能とせられるものである。」ブントの綱領草案より)
この「自己金融」による蓄積様式を当時の姫岡玲治氏は、「世界史の一段階」を画するものとまでいうが、実は、彼が見ていたのは朝鮮戦争時のほんの数年の日本資本主義でしかなかった。
周知のように、日本資本主義は朝鮮戦争の“特需”によって復活し、拡大再生産軌道に乗っていったが、その最初の頃は、銀行を中心とした財閥が解体し、銀行も戦後復興を遂げたばかりで産業資本に資本を貸し出すだけの余力を持っていたかった。だから、日本の多くの資本は、「自力更生」というか、朝鮮特需でボロ儲けした利益のほとんどを設備投資に回さざるをえなかった。つまり、「自己金融」による蓄積が優勢とならざるをえなかったのは、当時の日本資本主義がまだ若く、社会の蓄積された資本の多くを戦争で失ってしまい、それを回復する過程であったからにすぎなかったのである。
だから、1960年代にはいって本格的な高度成長が始まると、外部資金(銀行の貸し出し)は急増し、オーバー・ローンと呼ばれる貸し出し超過が恒常化、慢性化することになるし、資本が新株発行によって株式市場から資金を調達することも増加してくることになる。
そういう点では青木昌彦氏(姫岡玲治氏)はいいとき(自分の理論が決定的に破産する前)に左翼活動から足を洗ったとも言えるが、彼の理論がブントで重用されたのは、実は、後者の部分、すなわち資本の「自己金融」は国家によって補完されなければならないという部分である。
つまり、国家独占資本主義は高度に発達した資本主義であり資本主義の前夜なのであり「このように国家機構との結合を強めた『公的性格』の強化のなかで、社会主義の物質的準備は、完全に熟し切っている」(ブントの綱領草案より)のであるから、「プロレタリアートの決然たる行動と、政治権力の奪取こそが、すべての可能性をきりひらく」からである。
国家独占資本主義のもとでは、資本は国家と結合し『公的性格」を強めているのであるから、労働者が資本の政府を転覆すれば、そこには社会主義社会が待っているであろうというのは、政府を転覆することがすべてであるという小ブルジョア急進主義の立場そのものであろう。
ところが青木昌彦氏(姫岡玲治氏)は一方で、政府を転覆すれば社会主義になるのだから、安保闘争で岸内閣を倒せばいいのだといいながら、他方で「安保闘争はロシアの1905年ではない。同盟のすべてをかけるのは誤りだ。」というのであるから、何を言っているんだ」ということになる。(政府の転覆がすべてであるといいながら、政府の転覆にすべてをかけるのは誤りだという理屈は誰も理解できない)そういう点では、ブントの安保闘争論を形作ったのは青木昌彦氏(姫岡玲治氏)だが、同時にブントの内紛を準備したのも青木昌彦氏(姫岡玲治氏)なのである。
こうした混乱のなかで青木昌彦氏は姫岡玲治氏であることをやめたのだが、それを「経済学至上主義」の東大系が雲散霧消したのは当然であったと総括する。
われわれがいう林紘義氏とその“ご学友”とは青木昌彦氏のいう“東大系”のことであるが、彼らはむしろ島成朗氏がはっきりと認めているように、「経済学至上主義」を掲げながら、経済学を何も知らなかったがゆえに雲散霧消したといった方が正確であろう。