池田ナントカという人の文章について感想を求められておりますので、簡単にお答えします。
この人は正社員採用人数の減少が1991年から始まったことをもって、「小泉改革」とは無縁であるといっています。(正確には日本経済が停滞局面に入った1992年です。)
このこと自体はまったく正しいです。相対的過剰人口(失業者、半失業者、不定期雇用者、ルンペン・プロレタリアート等の数)は資本の蓄積によって規定されており、好況で新しい資本がつぎつぎに誕生したり、既存の資本が追加資本を投下して規模を拡大するような時期には新規の労働力需要は大きい(したがって相対的過剰人口は縮小する)し、反対に不況で資本が過多になっているときには新規の労働力需要は小さい(したがって相対的過剰人口は増加する)。
こういうことは戦後の経済循環のなかでつねに見られたことですが、1992年からの「就職氷河期」の特徴は、それ(企業の新規雇用の減少)が単年度だけのことではなく、かなりの期間継続したことにあります。
その原因について池田氏は、建設業における就業人口の増加をあげて、「ハコモノ公共事業」に労働力が吸収されて「労働生産性が低下した」からであると答えています。
これはまったくヘンな話です。われわれが「ブルジョア経済学」と呼んでいるアチラの経済学では、労働生産性というのは労働者一人当たりの「(価値の)産出量」のことであり、簡単に言えば労働者一人がどれだけ稼ぐことができるのかということです。
そういう点からするなら、建設業を生業(なりわい)として、家を造ったり、橋を造ったりして金を儲けている会社は「不生産的」ということにはならないし、それが誰も利用しない赤星村博物館であったとしても、建設業者がそれを赤星村から受注して、一億円儲けたとしたら、建設業者にとってそれはじゅうぶんに「生産的」な仕事であったというべきでしょう。(この場合、「不生産的」なのはだれも利用しない博物館に何億円もの村民の税金を注ぎ込んだ赤星村なのです。)
またアチラの経済学では、企業の儲けが大きければ大きいほど生産性は高いということになっていますので、たとえばマイクロソフト社のような、特別の地位(自社のOSが事実上の世界標準になっていること)を利用して、6000円程度のOSを4万、5万円程度で売りつけている場合、労働の生産性は高いというべきでしょう。つまりアチラの経済学では独占資本が独占価格を設定することは生産性の高い行為と見なされるべきなのです。
ですから、同じ規模(労働者数が同じ)の土建屋でも、A社は談合をやって、高い落札価格で工事を受注し、税金をぼったくっているのにたいして、B社は堅実に、競争入札をやって、低い工事価格で落札して商売をやっているという場合、労働の生産性が高いのはもちろん、談合をやっているA社ということになります。
このようにアチラの経済学では、労働の生産性はアウトプット(産出量)/インプット(投下資本量)×労働者数であらわされますので労働の生産力を上げるためには、分子(アウトプット)を増やすという方法だけではなく、分母(投下資本量、労働者数)を減らすというやり方もあります。
労働者の数で見るならば、同じ仕事をするにしても労働者の数を減らせば、一人当たりの産出量は増えるので、労働の生産性は向上したということができます。そういう点からするならば、池田ナントカという人の社会の労働生産性を向上させるためには「労働市場を流動化させて生産性の高い部門に移さなければならない」というのは、ヘンな話です。
生産性の低い部門から労働者を排出(数を減少)させれば、当然、その部門の生産性は上がるのですが、その排出された労働者を生産性の高い部門に移せば、生産性の高い部門の生産性は低下するのではないですか?そして、「労働市場の流動化」によって、生産性の低い部門の生産性が高くなり、生産性の高い部門の生産性が低くなるとしたら、ある国の労働の生産性を全体としてみれば変わらないという結論こそ導き出されるべきでしょう。
したがって「労働市場を流動化」させることによって、ある国の労働の生産性を高めるためには、生産性の低い部門から労働者を排出はするが、この排出された労働者はどの部門にも行かない、つまり失業者、もしくは無職としてどこかに滞留もしくは沈殿する必要があるということです。
こうすれば生産性の低い部門は高くなり、生産性の高い部門はそのままなのですから、全体としてみれば、その国の労働生産性は高まったということができるはずです。
さらに、投下資本量は原料、設備費、労働者の給料等からなっていますから、労働者の数を減らさないまでも、その給料を半分に減少させることが可能であるならば、労働者の数を半分にしたと同じ効果を得ることができるわけです。そのためには正社員を臨時雇用、アルバイト、契約社員といった労働者と入れ替える必要があります。
こういうことはあまり言いたくはないのですが、アチラの経済学というのは基本的に資本家が金を儲けるためにはどうすればいいのかという学問ですので、資本家の立場からするなら、労働者の数を減らして、なおかつ、一人当たりの労働者に支払う金が少なければ少ないほど、労働の生産性が向上する(お金が儲かる)ということになるのは、ある意味では、“お約束”の結論ではないかと思うわけです。
ですから、池田ナントカという人も、余剰人員の滞留、沈殿はまずいと思ったのか、余剰人員は「労働需要の大きいサービス業に移動」させるべきと言い換えています。
流通はサービス業ではありませんが、流通(とくに小売業)、福祉、介護、ヘビーシッター、メイド、清掃、人材派遣といった部門は低賃金で、このような部門で働く人々はワーキング・プア(労働しても生活できない人)の中核をなしていますから、同じことです。
問題は、世界中の資本家たちがこのような「資本家の千年王国」を夢見ているのですが、特別の場合を除いて、このような露骨な「労働の生産性向上運動」というのは行われないだろうということです。それはいうまでもなくこのような施策は労働者の生活を破壊し、大きな困難をもたらすからであり、労働者や学生の大きな反対運動に直面するからです。
少し前にフランスでも、「労働市場を流動化」させようとしましたが、労働者や学生の多くな反対運動に直面して、頓挫しています。
そういう点では、この「特別の例外」というのは日本の90年代が当てはまるのではないですか。
池田ナントカという人は、90年代に日本では建設業が増加しているといっていますが、これは正しい指摘です。
つまり、90年代の初頭にバブルが崩壊して、土地、株の価格が暴落(短期間に半値以下になったのですから暴落という表現が正しいです)して、それとともに莫大な不良債権(返済不能となった債権)を企業と金融機関は抱え込み、日本は長期的な不況に突入しました。生産は低下し、莫大な遊休設備と余剰人員を企業は抱えてしまったのです。
したがって、リストラや倒産によって街頭に投げ出される労働者の数も増え続け、失業者の数も年々増えていきました。こういう情況では、新規の正社員の雇用数だけではなく、中途採用も減少せざるをえません。
これが長期化したのは、資本が巨額な後ろ向きの資金需要(借金を返済しなければならないという必要性)を抱えてしまったために、前に向かっての資本投下、すなわち、新規事業を行うとか、既存の設備を拡大するとかして新規の労働者を雇用することができなかったし、むしろ、利潤を確保するために、事業を縮小再編成する必要性があったためです。
このため政府は不況対策として伝統的なケインズ主義の立場に立ち返り、公共事業を拡大して失業対策をおこなっています。
しかし問題は日本資本主義の真ん中に「不良債権問題」という巨大な氷山が出現してしまったことであって、この氷山を何とかしないかぎり、まわりで少々たき火をしても、気温が上がることはないし、『就職氷河期』というものは終わらないだろうということです。
できから、90年代を“失われた10年”というのは、ケインズ主義的な不況対策の限界を露呈した10年であったし、建設業に毎年莫大な公的資金が投入されたために建設業がいびつに肥大し、その資金が赤字国債の発行によってまかなわれたために、国債残高が天文学的に積み重なっていく過程でもあり、日本の財政が破滅的な情況に追い込まれていく過程でもありました。
この“失われた10年”の後に登場した小泉政権に対して、われわれは「市場原理主義」という評価をしていません。むしろ「不良債権問題」を解決するためには、「市場原理」以外の原理が必要でした。金融機関を行政の介入によって整理統合させたり、公的資金を注入したり、金利を実質的にゼロの状態にするなどの“社会主義”(われわれが国家資本主義とよんでいるもの)的な政策、つまり国家による金融機関への介入と保護、統制が必要だったのです。
「市場原理」が叫ばれたのは、労働市場に対してであり、池田ナントカという人が主張しているようなこと(労働市場を流動化させて労働の生産性を高めるということ)を、日本の資本は小泉時代より前にすでに先取りして実施していたのですが、小泉時代はこれに「規制緩和」という名目で、人材派遣業の業種を拡大したりして制度的に追認したにすぎません。
時間がなくてうまくまとめられなかったようにも思いますが、以上です。
この人は正社員採用人数の減少が1991年から始まったことをもって、「小泉改革」とは無縁であるといっています。(正確には日本経済が停滞局面に入った1992年です。)
このこと自体はまったく正しいです。相対的過剰人口(失業者、半失業者、不定期雇用者、ルンペン・プロレタリアート等の数)は資本の蓄積によって規定されており、好況で新しい資本がつぎつぎに誕生したり、既存の資本が追加資本を投下して規模を拡大するような時期には新規の労働力需要は大きい(したがって相対的過剰人口は縮小する)し、反対に不況で資本が過多になっているときには新規の労働力需要は小さい(したがって相対的過剰人口は増加する)。
こういうことは戦後の経済循環のなかでつねに見られたことですが、1992年からの「就職氷河期」の特徴は、それ(企業の新規雇用の減少)が単年度だけのことではなく、かなりの期間継続したことにあります。
その原因について池田氏は、建設業における就業人口の増加をあげて、「ハコモノ公共事業」に労働力が吸収されて「労働生産性が低下した」からであると答えています。
これはまったくヘンな話です。われわれが「ブルジョア経済学」と呼んでいるアチラの経済学では、労働生産性というのは労働者一人当たりの「(価値の)産出量」のことであり、簡単に言えば労働者一人がどれだけ稼ぐことができるのかということです。
そういう点からするなら、建設業を生業(なりわい)として、家を造ったり、橋を造ったりして金を儲けている会社は「不生産的」ということにはならないし、それが誰も利用しない赤星村博物館であったとしても、建設業者がそれを赤星村から受注して、一億円儲けたとしたら、建設業者にとってそれはじゅうぶんに「生産的」な仕事であったというべきでしょう。(この場合、「不生産的」なのはだれも利用しない博物館に何億円もの村民の税金を注ぎ込んだ赤星村なのです。)
またアチラの経済学では、企業の儲けが大きければ大きいほど生産性は高いということになっていますので、たとえばマイクロソフト社のような、特別の地位(自社のOSが事実上の世界標準になっていること)を利用して、6000円程度のOSを4万、5万円程度で売りつけている場合、労働の生産性は高いというべきでしょう。つまりアチラの経済学では独占資本が独占価格を設定することは生産性の高い行為と見なされるべきなのです。
ですから、同じ規模(労働者数が同じ)の土建屋でも、A社は談合をやって、高い落札価格で工事を受注し、税金をぼったくっているのにたいして、B社は堅実に、競争入札をやって、低い工事価格で落札して商売をやっているという場合、労働の生産性が高いのはもちろん、談合をやっているA社ということになります。
このようにアチラの経済学では、労働の生産性はアウトプット(産出量)/インプット(投下資本量)×労働者数であらわされますので労働の生産力を上げるためには、分子(アウトプット)を増やすという方法だけではなく、分母(投下資本量、労働者数)を減らすというやり方もあります。
労働者の数で見るならば、同じ仕事をするにしても労働者の数を減らせば、一人当たりの産出量は増えるので、労働の生産性は向上したということができます。そういう点からするならば、池田ナントカという人の社会の労働生産性を向上させるためには「労働市場を流動化させて生産性の高い部門に移さなければならない」というのは、ヘンな話です。
生産性の低い部門から労働者を排出(数を減少)させれば、当然、その部門の生産性は上がるのですが、その排出された労働者を生産性の高い部門に移せば、生産性の高い部門の生産性は低下するのではないですか?そして、「労働市場の流動化」によって、生産性の低い部門の生産性が高くなり、生産性の高い部門の生産性が低くなるとしたら、ある国の労働の生産性を全体としてみれば変わらないという結論こそ導き出されるべきでしょう。
したがって「労働市場を流動化」させることによって、ある国の労働の生産性を高めるためには、生産性の低い部門から労働者を排出はするが、この排出された労働者はどの部門にも行かない、つまり失業者、もしくは無職としてどこかに滞留もしくは沈殿する必要があるということです。
こうすれば生産性の低い部門は高くなり、生産性の高い部門はそのままなのですから、全体としてみれば、その国の労働生産性は高まったということができるはずです。
さらに、投下資本量は原料、設備費、労働者の給料等からなっていますから、労働者の数を減らさないまでも、その給料を半分に減少させることが可能であるならば、労働者の数を半分にしたと同じ効果を得ることができるわけです。そのためには正社員を臨時雇用、アルバイト、契約社員といった労働者と入れ替える必要があります。
こういうことはあまり言いたくはないのですが、アチラの経済学というのは基本的に資本家が金を儲けるためにはどうすればいいのかという学問ですので、資本家の立場からするなら、労働者の数を減らして、なおかつ、一人当たりの労働者に支払う金が少なければ少ないほど、労働の生産性が向上する(お金が儲かる)ということになるのは、ある意味では、“お約束”の結論ではないかと思うわけです。
ですから、池田ナントカという人も、余剰人員の滞留、沈殿はまずいと思ったのか、余剰人員は「労働需要の大きいサービス業に移動」させるべきと言い換えています。
流通はサービス業ではありませんが、流通(とくに小売業)、福祉、介護、ヘビーシッター、メイド、清掃、人材派遣といった部門は低賃金で、このような部門で働く人々はワーキング・プア(労働しても生活できない人)の中核をなしていますから、同じことです。
問題は、世界中の資本家たちがこのような「資本家の千年王国」を夢見ているのですが、特別の場合を除いて、このような露骨な「労働の生産性向上運動」というのは行われないだろうということです。それはいうまでもなくこのような施策は労働者の生活を破壊し、大きな困難をもたらすからであり、労働者や学生の大きな反対運動に直面するからです。
少し前にフランスでも、「労働市場を流動化」させようとしましたが、労働者や学生の多くな反対運動に直面して、頓挫しています。
そういう点では、この「特別の例外」というのは日本の90年代が当てはまるのではないですか。
池田ナントカという人は、90年代に日本では建設業が増加しているといっていますが、これは正しい指摘です。
つまり、90年代の初頭にバブルが崩壊して、土地、株の価格が暴落(短期間に半値以下になったのですから暴落という表現が正しいです)して、それとともに莫大な不良債権(返済不能となった債権)を企業と金融機関は抱え込み、日本は長期的な不況に突入しました。生産は低下し、莫大な遊休設備と余剰人員を企業は抱えてしまったのです。
したがって、リストラや倒産によって街頭に投げ出される労働者の数も増え続け、失業者の数も年々増えていきました。こういう情況では、新規の正社員の雇用数だけではなく、中途採用も減少せざるをえません。
これが長期化したのは、資本が巨額な後ろ向きの資金需要(借金を返済しなければならないという必要性)を抱えてしまったために、前に向かっての資本投下、すなわち、新規事業を行うとか、既存の設備を拡大するとかして新規の労働者を雇用することができなかったし、むしろ、利潤を確保するために、事業を縮小再編成する必要性があったためです。
このため政府は不況対策として伝統的なケインズ主義の立場に立ち返り、公共事業を拡大して失業対策をおこなっています。
しかし問題は日本資本主義の真ん中に「不良債権問題」という巨大な氷山が出現してしまったことであって、この氷山を何とかしないかぎり、まわりで少々たき火をしても、気温が上がることはないし、『就職氷河期』というものは終わらないだろうということです。
できから、90年代を“失われた10年”というのは、ケインズ主義的な不況対策の限界を露呈した10年であったし、建設業に毎年莫大な公的資金が投入されたために建設業がいびつに肥大し、その資金が赤字国債の発行によってまかなわれたために、国債残高が天文学的に積み重なっていく過程でもあり、日本の財政が破滅的な情況に追い込まれていく過程でもありました。
この“失われた10年”の後に登場した小泉政権に対して、われわれは「市場原理主義」という評価をしていません。むしろ「不良債権問題」を解決するためには、「市場原理」以外の原理が必要でした。金融機関を行政の介入によって整理統合させたり、公的資金を注入したり、金利を実質的にゼロの状態にするなどの“社会主義”(われわれが国家資本主義とよんでいるもの)的な政策、つまり国家による金融機関への介入と保護、統制が必要だったのです。
「市場原理」が叫ばれたのは、労働市場に対してであり、池田ナントカという人が主張しているようなこと(労働市場を流動化させて労働の生産性を高めるということ)を、日本の資本は小泉時代より前にすでに先取りして実施していたのですが、小泉時代はこれに「規制緩和」という名目で、人材派遣業の業種を拡大したりして制度的に追認したにすぎません。
時間がなくてうまくまとめられなかったようにも思いますが、以上です。