労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

「就職氷河期」はなぜ起こったか?

2007-10-05 01:51:53 | 経済
 池田ナントカという人の文章について感想を求められておりますので、簡単にお答えします。
 
 この人は正社員採用人数の減少が1991年から始まったことをもって、「小泉改革」とは無縁であるといっています。(正確には日本経済が停滞局面に入った1992年です。)
 
 このこと自体はまったく正しいです。相対的過剰人口(失業者、半失業者、不定期雇用者、ルンペン・プロレタリアート等の数)は資本の蓄積によって規定されており、好況で新しい資本がつぎつぎに誕生したり、既存の資本が追加資本を投下して規模を拡大するような時期には新規の労働力需要は大きい(したがって相対的過剰人口は縮小する)し、反対に不況で資本が過多になっているときには新規の労働力需要は小さい(したがって相対的過剰人口は増加する)。
 
 こういうことは戦後の経済循環のなかでつねに見られたことですが、1992年からの「就職氷河期」の特徴は、それ(企業の新規雇用の減少)が単年度だけのことではなく、かなりの期間継続したことにあります。
 
 その原因について池田氏は、建設業における就業人口の増加をあげて、「ハコモノ公共事業」に労働力が吸収されて「労働生産性が低下した」からであると答えています。
 
 これはまったくヘンな話です。われわれが「ブルジョア経済学」と呼んでいるアチラの経済学では、労働生産性というのは労働者一人当たりの「(価値の)産出量」のことであり、簡単に言えば労働者一人がどれだけ稼ぐことができるのかということです。
 
 そういう点からするなら、建設業を生業(なりわい)として、家を造ったり、橋を造ったりして金を儲けている会社は「不生産的」ということにはならないし、それが誰も利用しない赤星村博物館であったとしても、建設業者がそれを赤星村から受注して、一億円儲けたとしたら、建設業者にとってそれはじゅうぶんに「生産的」な仕事であったというべきでしょう。(この場合、「不生産的」なのはだれも利用しない博物館に何億円もの村民の税金を注ぎ込んだ赤星村なのです。)
 
 またアチラの経済学では、企業の儲けが大きければ大きいほど生産性は高いということになっていますので、たとえばマイクロソフト社のような、特別の地位(自社のOSが事実上の世界標準になっていること)を利用して、6000円程度のOSを4万、5万円程度で売りつけている場合、労働の生産性は高いというべきでしょう。つまりアチラの経済学では独占資本が独占価格を設定することは生産性の高い行為と見なされるべきなのです。
 
 ですから、同じ規模(労働者数が同じ)の土建屋でも、A社は談合をやって、高い落札価格で工事を受注し、税金をぼったくっているのにたいして、B社は堅実に、競争入札をやって、低い工事価格で落札して商売をやっているという場合、労働の生産性が高いのはもちろん、談合をやっているA社ということになります。
 
 このようにアチラの経済学では、労働の生産性はアウトプット(産出量)/インプット(投下資本量)×労働者数であらわされますので労働の生産力を上げるためには、分子(アウトプット)を増やすという方法だけではなく、分母(投下資本量、労働者数)を減らすというやり方もあります。
 
 労働者の数で見るならば、同じ仕事をするにしても労働者の数を減らせば、一人当たりの産出量は増えるので、労働の生産性は向上したということができます。そういう点からするならば、池田ナントカという人の社会の労働生産性を向上させるためには「労働市場を流動化させて生産性の高い部門に移さなければならない」というのは、ヘンな話です。
 
 生産性の低い部門から労働者を排出(数を減少)させれば、当然、その部門の生産性は上がるのですが、その排出された労働者を生産性の高い部門に移せば、生産性の高い部門の生産性は低下するのではないですか?そして、「労働市場の流動化」によって、生産性の低い部門の生産性が高くなり、生産性の高い部門の生産性が低くなるとしたら、ある国の労働の生産性を全体としてみれば変わらないという結論こそ導き出されるべきでしょう。
 
 したがって「労働市場を流動化」させることによって、ある国の労働の生産性を高めるためには、生産性の低い部門から労働者を排出はするが、この排出された労働者はどの部門にも行かない、つまり失業者、もしくは無職としてどこかに滞留もしくは沈殿する必要があるということです。
 
 こうすれば生産性の低い部門は高くなり、生産性の高い部門はそのままなのですから、全体としてみれば、その国の労働生産性は高まったということができるはずです。
 
 さらに、投下資本量は原料、設備費、労働者の給料等からなっていますから、労働者の数を減らさないまでも、その給料を半分に減少させることが可能であるならば、労働者の数を半分にしたと同じ効果を得ることができるわけです。そのためには正社員を臨時雇用、アルバイト、契約社員といった労働者と入れ替える必要があります。
 
 こういうことはあまり言いたくはないのですが、アチラの経済学というのは基本的に資本家が金を儲けるためにはどうすればいいのかという学問ですので、資本家の立場からするなら、労働者の数を減らして、なおかつ、一人当たりの労働者に支払う金が少なければ少ないほど、労働の生産性が向上する(お金が儲かる)ということになるのは、ある意味では、“お約束”の結論ではないかと思うわけです。
 
 ですから、池田ナントカという人も、余剰人員の滞留、沈殿はまずいと思ったのか、余剰人員は「労働需要の大きいサービス業に移動」させるべきと言い換えています。
 
 流通はサービス業ではありませんが、流通(とくに小売業)、福祉、介護、ヘビーシッター、メイド、清掃、人材派遣といった部門は低賃金で、このような部門で働く人々はワーキング・プア(労働しても生活できない人)の中核をなしていますから、同じことです。
 
 問題は、世界中の資本家たちがこのような「資本家の千年王国」を夢見ているのですが、特別の場合を除いて、このような露骨な「労働の生産性向上運動」というのは行われないだろうということです。それはいうまでもなくこのような施策は労働者の生活を破壊し、大きな困難をもたらすからであり、労働者や学生の大きな反対運動に直面するからです。
 
 少し前にフランスでも、「労働市場を流動化」させようとしましたが、労働者や学生の多くな反対運動に直面して、頓挫しています。
 
 そういう点では、この「特別の例外」というのは日本の90年代が当てはまるのではないですか。
 
 池田ナントカという人は、90年代に日本では建設業が増加しているといっていますが、これは正しい指摘です。
 
 つまり、90年代の初頭にバブルが崩壊して、土地、株の価格が暴落(短期間に半値以下になったのですから暴落という表現が正しいです)して、それとともに莫大な不良債権(返済不能となった債権)を企業と金融機関は抱え込み、日本は長期的な不況に突入しました。生産は低下し、莫大な遊休設備と余剰人員を企業は抱えてしまったのです。
 
 したがって、リストラや倒産によって街頭に投げ出される労働者の数も増え続け、失業者の数も年々増えていきました。こういう情況では、新規の正社員の雇用数だけではなく、中途採用も減少せざるをえません。
 
 これが長期化したのは、資本が巨額な後ろ向きの資金需要(借金を返済しなければならないという必要性)を抱えてしまったために、前に向かっての資本投下、すなわち、新規事業を行うとか、既存の設備を拡大するとかして新規の労働者を雇用することができなかったし、むしろ、利潤を確保するために、事業を縮小再編成する必要性があったためです。
 
 このため政府は不況対策として伝統的なケインズ主義の立場に立ち返り、公共事業を拡大して失業対策をおこなっています。
 
 しかし問題は日本資本主義の真ん中に「不良債権問題」という巨大な氷山が出現してしまったことであって、この氷山を何とかしないかぎり、まわりで少々たき火をしても、気温が上がることはないし、『就職氷河期』というものは終わらないだろうということです。
 
 できから、90年代を“失われた10年”というのは、ケインズ主義的な不況対策の限界を露呈した10年であったし、建設業に毎年莫大な公的資金が投入されたために建設業がいびつに肥大し、その資金が赤字国債の発行によってまかなわれたために、国債残高が天文学的に積み重なっていく過程でもあり、日本の財政が破滅的な情況に追い込まれていく過程でもありました。
 
 この“失われた10年”の後に登場した小泉政権に対して、われわれは「市場原理主義」という評価をしていません。むしろ「不良債権問題」を解決するためには、「市場原理」以外の原理が必要でした。金融機関を行政の介入によって整理統合させたり、公的資金を注入したり、金利を実質的にゼロの状態にするなどの“社会主義”(われわれが国家資本主義とよんでいるもの)的な政策、つまり国家による金融機関への介入と保護、統制が必要だったのです。
 
 「市場原理」が叫ばれたのは、労働市場に対してであり、池田ナントカという人が主張しているようなこと(労働市場を流動化させて労働の生産性を高めるということ)を、日本の資本は小泉時代より前にすでに先取りして実施していたのですが、小泉時代はこれに「規制緩和」という名目で、人材派遣業の業種を拡大したりして制度的に追認したにすぎません。
 
 時間がなくてうまくまとめられなかったようにも思いますが、以上です。

 
   

ウクライナの東と西

2007-10-04 01:47:59 | 政治
 現在ウクライナで選挙が行われている。結果は“オレンジ派”(親欧米派)と「地域党」を中心とする親ロシア派がほぼ互角で、“オレンジ派”がやや優勢といわれている。
 
 ウクライナの選挙で興味深いのは、選挙の度にウクライナの東と西の対照的な性格が現れることだ。
 
 基本的に東部は穀倉地帯で、西部は工業地帯という違いが現れているのだが、この傾向はロシア革命以来続いている。
 
 ロシア革命に続く内戦の時代、ウクライナは最初、ドイツ軍が、続いてフランス軍とポーランドが、そして最後にはデニキンの白軍が支配していた。
 
 彼らがウクライナの占領にこだわっていたのは、当然ながら豊かな穀倉地帯を手に入れるためでしかなかった。したがってスコパルスキーを支援したドイツ軍もペトリューラを支援したポーランド軍も白軍のデニキン軍もウクライナの穀倉地帯を徹底的に収奪し、そのためウクライナの東部は長い間ソビエト・ロシアの手の届かない地域だったぐらいであった。(この間、わずかにアナーキスト系のマフノ農民軍だけがウクライナの農民のために闘っていたが、マフノは決定的な瞬間に白軍のウランゲル軍の側についたために、ウランゲル軍とともに滅亡するしかなかった。)
 
 1919年にようやくウクライナを拠点としていたデニキン軍に対して反撃が開始されようとしたが、この時赤軍内部では、トロツキーとスターリンの確執が表面化していた。
 
 軍事人民委員トロツキーはデニキン軍への反撃をソビエトに親近感を持つ労働者が多数居住している西部から労働者を巻き込みながら行いたいと考えていた。
 
 これに対して、スターリン派のカーメネフ赤軍総司令官(政治局員のカーメネフとは別人)は東部からデニキン軍を攻撃することを主張していた。
 
 このスターリンとトロツキーの確執は、スターリンの勝利に終わり、トロツキーの意見は採用されなかった。落胆したトロツキーは軍事人民委員の辞任をレーニンに求めたが、レーニンはそれを拒否した。
 
 それでトロツキーは辞任を撤回して、ウクライナ東部へと向かいウクライナそこからデニキン軍を迎撃しようとしたが、結果は惨憺たるもので、赤軍はデニキン軍指揮下のマモントフ騎馬軍団にいたるところで打ち破られた。
 
 赤軍弱しと見たデニキン軍は西部からモスクワをめざして進撃を開始したので、ようやくトロツキーの戦略が採用されて、赤軍は西部地帯で反撃に出て、デニキン軍を打ち破った。このデニキン軍との戦争において、トロツキーが期待したようにウクライナ西部の労働者は赤軍に合流しデニキン軍を打ち破ってクリミア半島に駆逐した。
 
 そのウクライナ西部のドネツク地方では、今回の選挙で大量の棄権票が出た。ウクライナの労働者は“オレンジ派”(親欧米派)も「地域党」(親ロシア派)のどちらをも選ぶことができなかったのだが、政権を握っている「地域党」(親ロシア派)は姑息にも今回の選挙で大量の棄権者を出した西部の労働者地区で、棄権票を少数派の社会党(親ロシア派)に書きかえているという。
 
 これは社会党(親ロシア派)の選挙での得票数が、2.93%と3%に限りなく近くもう少しで、議席獲得ライン(3%)に達するからであり、社会党が議席を獲得すれば与野党が逆転するからである。
 
 しかし、“オレンジ派”(親欧米派)も「地域党」(親ロシア派)も、今回の選挙ではどちらも選ぶことができないというウクライナの労働者の意志を読み誤っているのではないか?ウクライナという国家自体が広大な国家であり、土地は肥沃ですでに工業もある程度発達している。したがって、欧米かロシアか、そのどちらかに従属しなければならないという議論はまったく根拠のないことであるし、そのような選択を迫る政党のどちらかを選べという選挙は、選挙自体を拒否する者があって当然であろう。
 
 ここにはロシアとヨーロッパの狭間においてつねに両者からのからの干渉を受けて、独自の国民国家を形成できなかったウクライナの悲劇がある。
 
 このウクライナの悲劇をもっともよく理解していたのはレーニンであり、レーニンはウクライナがロシアの一部であると考えたことは一度もなかった。むしろ彼はウクライナは独立すべきであり、そのためにソビエト・ロシアは支援を惜しむべきではないと考えていた。彼は独立したウクライナ・ソビエトとソビエト・ロシアの対等でゆるやかな国家連合をこそ望んでいたのである。
 
 だからウクライナ・ソビエト政府の樹立を誰よりも喜んだのはレーニンにほからなかった。
 
 ところが、1922年末、レーニンが発作で倒れると、スターリンはそれを待っていたかのように、ウクライナをロシアに組み入れてソビエト社会主義連邦共和国を立ち上げてしまい、ウクライナの独立は形式的、名目的なものにすぎなくなった。。
 
 そしてレーニンが死んだ1924年には、スターリンはウクライナ人民委員会議長であったラコフスキーを外交官としてイギリスに追い出してしまい。代わりにスターリンの腹心であったカガノヴィッチを送り込みウクライナの“粛清”(反対派の追放)を推し進めた。
 
 しかし、ウクライナの「地域的排外主義」は決して終息してしまったのではなく、30年代には再びもりかえしている。
 
 これはスターリンがウクライナをロシアに組み入れたこと自体、スコパルスキーやペトリューラやデニキン軍と同じように、豊かな穀倉地帯から農作物を徹底的に収奪するためでしかなかったからである。
 
 30年代のはじめにはこのような強収奪の結果、ウクライナでは深刻な飢饉が起き、1000万人が餓死したといわれる。そしてこのような強収奪がウクライナをスターリンが
「地域的排外主義」と呼んだところの民族主義的傾向へと導いていったのである。
 
 これに対して、スターリンはボスチシェフを全権に任命して、ウクライナの「地域的排外主義」の根絶を命じた。ボスチシェフはゲー・ペー・ウーを使って、ウクライナ共産党の反対派をそれこそ根絶やしにしてしまった。だから彼は「ウクライナの首切り人」と称せられている。
 
 「ウクライナの首切り人」の暴政が一段落つくと、今度はファシスト・ドイツがやってきた。ヒトラーはもともとウクライナの廃墟にした後で、ドイツの植民地とするつもりだったから、手当たり次第に、村を焼き、町を破壊し、住民を虐殺した。
 
 そのヒトラー・ドイツが崩壊すると、今度は、再び征服者として乗り込んできたソ連が、ドイツの協力者を掃討すると称して、ウクライナの人々に襲いかかった。
 
 ウクライナはその豊かさゆえに、つねに強国によって踏みにじられてきた。
 
 しかし、ウクライナにはスコパルスキーもペトリューラもデニキンもスターリンもヒトラーもいらないのである。だからウクライナの労働者が“オレンジ派”も「地域党」もいらない、レーニンのような人こそ現れよ、と考えたとしても不思議はないのである。
 

帝国主義は復活したか?

2007-10-02 01:49:18 | 政治
 こういう設問はわれわれ赤星マルクス研究会以外の左翼党派にとっては、まったく無意味な設問である。なぜなら彼らのなかでは帝国主義はレーニンの時代から今日にいたるまで一貫して存在し続けているからである。
 
 しかし、われわれはこれまで帝国主義という言葉を使うことを用心深く避けていた。安倍内閣が誕生したときもわれわれは「帝国主義」という言葉ではなく、政治的に限定された概念としての「ミリタリズム」(軍国主義)という言葉を使っていたし、アメリカのネオコンに対しても「アメリカの軍国主義者」という言葉を使っていた。
 
 われわれが帝国主義という言葉を安易に使うべきではないと考えたのは、レーニンの時代の資本主義に比べて現代の資本主義はかなり変容を遂げているからにほかならない。
 
 レーニンは、帝国主義の時代は独占資本主義の時代であるとして、独占資本主義の主要な現れとして、四つの種類をあげている。
 
 第一は、生産の集積から資本家の独占体が出現するということである。この現在の資本主義が独占資本であるというのは現在でも当てはまる。
 
 第二は、独占は、もっとも重要な原料資源の奪取の強化をもたらしたというものである。レーニンはその代表的な産業として石炭産業と製鉄業をあげているが、石油、ウラン鉱石、希少金属といった資源をめぐって世界的な争奪戦が繰り広げられている現在の情況は当時と変わらないと見るべきであろう。
 
 第三は、「現代ブルジョア社会の、例外なしにすべての経済機関と政治機関の上に、従属関係のこまやかな網の目をはりめぐらしている金融寡頭制、――これこそ、この独占のもっとも顕著な現れである。」というものである。
 
 レーニンは、帝国主義とは独占資本の支配であり、そのもっとも顕著な現れは「金融寡頭制」であると述べているが、20世紀前半の“帝国主義の時代”とわれわれが呼んでいる時代には、このような「金融寡頭制」は確かに存在していた。どこの国にも銀行を中核とする「財閥」しており、レーニンがいうところの独占団体は存在していた。
 
 しかし、現在ではそれは日本赤軍の重信房子氏ら一部の人々の頭の中にのみ存在するだけである。
 
 むしろ逆に、「村上ファンド」と「阪神電鉄」、もしくは「ハゲタカ外資ファンド」と彼らに狙われた「日本の産業資本」の闘争が連日ニュースとなること自体が、現代では、「金融寡頭制の支配」というものは存在していないか、金融資本の産業資本に対する優越性とか支配とかいうものは確立していないか、むしろそれらはある場合には、敵対関係、競合関係にあることを表している。
 
 さらにトヨタ自動車とトヨタ自動車が金を借りている三菱UFJ銀行の関係にしても、レーニンがいうところの産業資本の“従属関係”は存在してはおらず、三菱UFJ銀行にとってトヨタ自動車は大切な顧客という程度の意味しか持っていない。
 
 われわれがよくなかったと考えているのは、実はこの問題、社会主義労働者党(社労党)が結成されたときの重要な「綱領問題」であり、社労党の結成大会でわれわれは「金融寡頭制の支配」という概念を、「プロレタリア独裁」の概念とともに放棄している。しかし、この時、それでは現代において「帝国主義」の概念はどうなるのか?ということまで議論が進まなかったことである。
 
 したがってこの問題は、われわれ赤星マルクス研究会に“宿題”として残されたままになっている。
 
 第四は、「独占は植民政策から生じた。金融資本は、植民政策の数多くの『古い』動機に、原料資源のための、『資本輸出』のための、『勢力範囲』のための――すなわち有利な取引、利権、独占利潤、その他のための――、さらに、経済的領土一般のための、闘争をつけくわえた。・・・アフリカの10分の9が奪取されてしまい(1900年ごろ)、全世界が分割されてしまったときには、不可避的に、植民地の独占的占有の時代、したがってまた、世界の分割と再分割のための闘争のとくに先鋭な時代が、到来したのである。」ということである。
 
 レーニンは「植民地の独占的占有の時代」、世界の分割と再分割をめぐって列強が相争う時代を“帝国主義の時代”と呼んでいた。これはレーニンの時代を特徴づけるもっとも特徴的なものである。
 
 この「世界の分割と再分割をめぐって列強の争闘」の結果、人類は第一次世界大戦と第二次世界大戦という二度にわたる世界的な規模での戦争を通過しなければならなかったが、第二次世界大戦後の世界では、かつて列強によって分割と再分割された植民地および半植民地がつぎつぎと独立していった。
 
 インドも、中国も、中近東諸国も激しい反植民地闘争を経て戦後あいついで独立し、60年以降はアフリカがこれに続いた。
 
 ベトナムにおけるアメリカ帝国主義の敗北は、「植民地の独占的占有の時代」は世界史的に終焉を迎えつつあることを教えており、南アフリカの白人政権の崩壊と“最後の植民地”香港の中国への返還は“帝国主義の時代”はすでに過去の出来事になったかのように思わせた。
 
 われわれが社労党の活動をしていた20世紀最後の20年間は、とくにこの植民地体制の地球的な規模での崩壊の時期であったので、「帝国主義」という言葉には何かしら抵抗感があった。
 
 実際、レーニンはアフリカの10分の9までが列強によって分割され、植民地化されたことをもって“帝国主義の時代の到来”と呼んだのであるから、アフリカの10分の9が政治的に独立し、植民地支配から脱したことをもって“帝国主義の時代の終焉”と呼ぶことはある程度根拠のあることであろう。
 
 しかし本当に“帝国主義の時代”は終焉したのだろうか?
 
 「金融寡頭制」は資本主義の時代的な変化のなかで解体していったが、独占資本は依然として存在し続けており、重要な原料資源の奪取の強化は資本主義列強の焦眉の課題であり続けている。
 
 そして「植民地の独占的占有の時代」は過去のものとなったが、重要な原料資源を渇望する先進諸国による後進諸国に対する不当な内政干渉まがいの行為は再び現実のものになろうとしている。
 
 独裁、テロ、“人権侵害”は、他国がその国家を滅ぼすことを正当化しない。そのような政府を打倒してよいのはその国家の人民だけである。そういう点ではわれわれ労働者は圧政と暴政のもとで抑圧され、虐げられている世界のすべての国の人民の友であり、その政府を打倒する闘いの協力者たりうるが、重要な原料資源を手に入れるために、後進国に自国の都合のよい政治体制をうち立てようと画策するのは、うち立てようとする政体がたとえ“民主主義的な”政治体制であっても、その地域の住民の意向を無視し、住民が望んでもいない政治体制を強権(軍事力の行使や経済制裁)によって押しつけようとするかぎりは、一種の侵略行為とみなしうるのであり、これも新しい形態での帝国主義の姿にほかならない。
 
 これがアメリカ一国ではなく、他のヨーロッパ諸国を巻き込んだ形式でおこなわれようとその本質は何も変えない。
 
 アメリカはフセインの圧政を理由にイラクを侵略したが、彼らはいまだにイラクにおいて民主的な政府を樹立することができないでいる。それは彼らのいう“民主的な政府”が真の意味での民主的な政府ではなく、彼らの都合のよい勢力をかき集めて“政府”を構成しようとしているからにほかならない。
 
 実際、ハマスはだめだ、ヒズボラとは話ができない、スンニ派はだめだ、シーア派もだめだ、「イスラム法廷」(ソマリアの民兵組織)は許せない、「ジャンジャウィード」(スーダンの民兵組織)とタリバンは殺すしかない、このようなことをいっていたのでは、話し合い自体が成立しないであろう。これではアメリカとヨーロッパ諸国は中近東・北アフリカの石油資源を独占するためにこれらの国々を再植民地化しようとしているといわれてもしかたがあるまい。
 
 そして紛争調停能力のないものが、自国の利益の確保のために、紛争に介入することによって、これらの地域の“治安情勢”は年々悪化し、地域的な紛争はますますこじれて大規模化しようとしている。
 
 そういう点では帝国主義は21世紀にも姿を変えて存続しようとしているのである。
                         

初日からこの様か?!

2007-10-01 19:32:37 | 政治
 今日午後6時すぎ、家に帰ってみると、集合住宅のエントランスでなにやらゴソゴソ動く影があった。
 
 よく見ると、郵便局のおっさんが集合ポストに必死になって郵便物を配っていた。
 
 わが家は名古屋の僻地だから、もともと一日に一回しか郵便物を配ってもらえなかったが、それを今日からは暗くなってからやるというのである。
 
 初日から、残業を強要されている郵政労働者にはご苦労様というしかないが、常識的に考えれば、郵便物は昼間配るものであろう。これでは、その日のうちに郵便物を受け取りたいという人はわざわざ夜に一階までおりてこなければならないではないか。家の中ではパンツ一枚で酒を飲むときもあるだろうから、そういう人間が腹を出して毎夜ふらふらとエレベーターで一階の郵便受けまで降りていったら、風紀上も好ましくないではないか。
 
 小泉純一郎氏は、郵政が民営化されればサービスがよくなるといったが、あれはまったくのウソだった。
 
 現実には、合理化で郵政労働者に大きな犠牲が強要されるとともに、利用者には大いなる不便しかもたらされてはいない。
 
 過疎地ではもっとひどくて、郵便局が統廃合されて、郵便物の配達も遅れるという。
 
 われわれは郵便局が民営化されるときに、「信書の自由」は「その他一切の表現の自由」に含まれるものであり、この「信書の自由」では郵便物を介してすべての人(日本だけではなく世界中の人々)が意思の疎通をはかることを保障している。この「信書の自由」という基本的人権を保障するために郵便法が制定されており、政府はすべての国民に対して「全国一律、格安の値段」でのサービスの提供を約束しているといった。
 
 この約束は守っても守らなくてもよいものではなく、憲法になかで基本的人権として日本国民すべてに保障している以上、政府が自らの責任で守らなければならないものであることはいうまでもないことであろう。
 
 だからこそ政府は郵政民営化法案が国会を通過するときに、公共サービスとしての郵便事業のサービスの質は落とさないと日本国民に約束したのではなかったか?
 
 ところが初日からこの様だ。日本国政府はこの明白な約束違反をどうしてくれるんだ。約束を守れなくてすみませんでしたですむ話ではないであろう。
 
 守れなかった約束をきちんと履行するにはどうするのかという日本政府の明確な回答が求められているのである。
 
 対策ができるまで小泉純一郎氏は毎日、県営伏屋第一住宅に、暗くなる前に、郵便を配達しに来い。お前にはそれだけの責任があるんだ。