曹洞宗の開祖、道元禅師の正法眼蔵の中から一節を・・
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生というは、たとえば人の舟にのれるときのごとし。
この舟は、われ帆をつかい、われ舵をとれり、われさおをさすといえども、舟われをのせて、舟のほかに我なし、われ舟にのりて、この舟をも舟ならしむ、
この正当恁麼時を、功夫産学すべし。
この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし、天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。
このゆえに生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。
舟に乗れるには、身心・依正、ともに舟の機関なり、尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。
生なる我、われなる生、それかくのごとし。
------------------------<訳>-----------------------------------------
生ということは、たとえば人が舟に乗って動かしている時のようなものである。
この舟を、この私が帆を使い、舵を取り、棹を指しているのではあるが、舟が私を乗せているのである。
つまりこの動いている舟の他に私はなく、私が舟に乗って初めてこの舟を舟たらしめているのである。
まさにこの、二つが一つとなっている、大切な瞬間のあり方に思いをめぐらし、学ぶべきである。
まさにこの瞬間においては、あらゆるものが舟でないということがない。
空も水も岸も、みな舟との時期となっており、この瞬間においては舟と一体となっていない時の他の時期とは、全く様子を異にしている。
この摂理から、生はわたし自身が生たらしめているのであり、一方で生がわたし自身をわたし自身たらしめているのである。
舟に乗っている場合は、わたしの部分である肉体とか精神、客観とか主観とかは、いずれも舟の中心的な部分である。
またわたしの外にある一切の大地、一切の空間もまた、舟の中心的な部分である。
生きている自分も、自分の生も、元来このようなものなのである。
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分かりやすそうで、深い話ですねぇ。
私というのは、まさしく生きている私自身であって、舟とは宿命とか運命とかいうことなのか・・ いや社会や環境ということなのか・・・
じゃ、この話に出てこない川の流れはなん何なんだ? それが運命か。 川も含めて舟と言っているのか。
とにかく、私があって、舟があって、川がある。
全て三位一体で私ということだろう。私だけが私でないということを悟れれば楽なんだろうけど、舟は私でないと思うから苦があるのかもね。