あさやん通信

おいらの日記、徒然なるままに!

熊本城

2009-01-31 16:29:27 | 歴史探訪
コッコ2号が熊本城に行ってきました。修学旅行ですけどね。おいらも熊本城は大好きで、これまで5~6回行ってますが、ここ10年くらいは残念ながら行く機会がありません。懐かしかったので紹介します。

現在の熊本城はかつて茶臼山と呼ばれた肥後熊本の丘陵地に、慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、加藤清正が築いたお城です。見どころは天守閣の他にやはり石垣でしょう!これは「武者返し」と言って、石垣の上部になるにつれて反り返し、簡単には登れないような構造となっているもので、見た目にもとても美しいものです。明治初期には西南戦争における官軍の重要拠点であると同時に西郷どんの重要攻略目標となるなど、会津の鶴ヶ城と同様に戦国期から明治期にかけて数多くのドラマを生んだ天下の名城です。

<エピソード>
江戸時代の大部分熊本を治めたのは細川氏ですが、明治10年の西南戦争で谷干城の守る熊本城を落城できなかった西郷どんは「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公(せいしょこ)に負けたとでごわす」と言ったといいます。やはり熊本は加藤清正(清正公)ですね!
ちなみに、谷干城は西南戦争の功績により陸軍中将に昇進しました。

いい話(3)

2009-01-31 13:36:57 | いい話
山崎拓巳さんの話です。
なんか精神論のような話に聞こえるけど、おいらはこの話は宇宙の法則(この世の仕組みや理)を語っているホントの話だと思うね


「凄いことはアッサリ起きる」
凄いことを起こすには、相当な努力や苦労が必要だ。
そう思い込んでいる人は、もし目の前にツルツルとうまくいくチャンスがあったとしても、気づかないし、目に入らない。
「凄いことはアッサリ起きる」とつぶやくと、今まで目に見えてこなかった、いい方法を見つけることができる。
チャンスを受け入れる準備ができた瞬間から、素敵なことがどんどん集まってきて、今までやりたかったことや欲しかったものが、まわりが驚くほど簡単に実現し、手に入るだろう。


うまくいかない人の口癖や、考える癖はたいていよく似ている。
どうしてうまくいかないんだろう?
どうして、どこにも頼れる人がいないんだろう?
どうしてワクワクしないんだろう?
どうしてがんばっているのに成果が上がらないんだろう?
どうして面白くないんだろう?

そういう人はひらめくことができない。
理由は、「無いものは無い」からである。
どこを探したって「無いもの」は出てこない。

インターネットと同じ。
「山崎拓巳」はヒットするが、「山崎拓巳では無いもの」はヒットしない。

しかし質問を「答えが存在する質問」に変換してみれば、無意識は答えを探し始める。
どうしたら・・・
うまくいくんだろう?

頼れる人と巡り会えるんだろう?
ワクワクするんだろう?
もっと成果が上がるんだろう?
面白くなるんだろう?

こんな風に「どうしたら・・・」から始まる疑問形に書き換えることで、とたんに答えがヒットするようになる。

紀尾井坂

2009-01-31 09:41:57 | 歴史探訪
明治11年5月14日、午前8時頃、大久保利通(当時参議兼内務卿)は、霞ヶ関の三年坂(現在の文部科学省と財務省の間の坂)の自宅から赤坂御所へ参内の途中、この地、紀尾井坂で石川県士族島田一良など6名に襲われて暗殺されました。で、明治21年(1888)5月に明治政府の官僚たちによって、暗殺現場の周辺である清水谷公園内に「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられました。とても大きな碑です。
紀尾井坂は、現在は赤坂プリンスホテルとホテルニューオータニに挟まれていますが、江戸時代は周りに紀伊徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家(直弼さん)の屋敷があり、一文字ずつとってこの界隈を「紀尾井町」と呼ぶようになったようです。今は大都会で全然当時の面影を感じません。

大久保利通 文政13年(1830年)、8月10日生まれ 月日がおいらと同じだ!
      享年49(満47歳没)  墓所は東京の青山霊園  
      明治34年(1901年)5月22日:贈従一位

   
清水谷公園内にある碑です。かなり大きいよ。

今の紀尾井坂です。赤坂見附方面に向かってとりました。暗いですね。相変わらず写真がいい加減です。

これは清水谷公園前にあった、江戸時代の紀尾井坂の古地図です。
地図上には、「紀伊中将慶福」「尾張中納言慶勝」「井伊掃部頭直弼」の文字が見えます。幕末のそうそうたるメンバーですね。



いい話(2)

2009-01-31 00:04:35 | いい話
斎藤一人さんの本からの抜粋です。
いろいろ感じるところがあるいい話です。


ある男の人が浜辺に横たわり、ぼんやりと空を見上げていました。そのとき、今まで自分は人生の道をどうやって歩いてきたかが、走馬灯のように浮かんできました。そして、男の人が今までの道のりを振り返り見たとき、そこに二つの足跡があることに気づきました。男の人は、こう思いました。「自分は、神様と一緒に歩いてきたんだな ところが、道のところどころで、足跡がひとつになっていることに気づきました。足跡がひとつになっているのは、自分が苦しんでいたとき、悲しい思いをしていたときでした。男の人は、空を見上げて、こういいました。「神様、どうして私がつらいとき、悲しいときにお見捨てになったのですか」 そのとき、空からこんな声が聞こえてきました。「子よ、それは違う。お前が苦しいとき、悲しいときに、私はお前を背負って歩いていたんだよ。だから、足跡がひとつなんだ」





崎陽軒のシューマイ弁当

2009-01-30 22:51:11 | 日記
1月29日に崎陽軒のシューマイ弁当を初めて買いました。駅弁としてです。おいしいから食べてみたらと勧められていたいたので、今日こそはと思い上野駅の3Fコンコースの「膳まい」という弁当屋さんで購入しました。当然あらかじめ売っている場所はHPで調査済みです。新幹線内で早速食しましたが。やはり人気の弁当ですね、冷めてはいますが旨いです。シューマイもうまいですが、それ以外の品がけっこういいんです。あとごはんも旨いですよ

   

安岡正篤先生

2009-01-30 00:31:02 | いい話
BOOKメンターその2。今回は安岡正篤先生です。難しい内容の書物が多いのですが、なんか物事の本質を見切っているような人物だと思って、良くわからないままにも繰り返しペラペラとページをめくったりしています。以下には分かりやすくて、参考になりそうな言葉も一部記しておきまーす

[プロフィール]
明治31年、大阪市生まれ。東洋政治哲学・人間学の権威。陽明学者。
吉田茂、岸信介、佐藤栄作、中曽根康弘等の昭和歴代首相の指南役を務めるとともに昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物。
また、昭和20年8月15日の昭和天皇による玉音放送「終戦の詔勅」の草案作成にもかかわりました。さらには「平成」の元号の考案者でもあるなど、まさに日本の歴史をつくられた大碩学です。

[先生の言葉]
◎悪戦苦闘のときほど人間の真価は養われる。
◎人間は真っすぐだったら倒れてしまう。屏風のように曲がっているから倒れないでいる。
◎一頭の羊に率いられた100頭の狼の群れより、1頭の狼に率いられた100頭の羊の群れの方が強い。
◎大衆によって歴史が動いたことはかつてない。歴史を動かす者は個に徹しなければならない。人間は群衆になると駄目になる。
◎個人が集団に与える影響よりも、集団が個人に与える影響が強いと、どうしても堕落する。
◎人間の本質的要素は、徳・徳性。知識・技術はあればあるほど結構だが付属的要素でしかない。徳とは人を愛する、人のために尽くす、人に報いる、清潔、まじめ、質実である等
◎六然
 ・自処超然(自分のことは世俗にとらわれない)
 ・処人藹然(人と接しては楽しませ、心地よくする)
 ・有事斬然(事があるときはぐずぐずしないで、きびきびやる)
 ・無事澄然(事がないときは水のように澄んだ気でいる)
 ・得意澹然(得意のときは静かで安らかに)
 ・失意泰然(失意のときも泰然自若)



 


 







新撰組隊士の墓

2009-01-29 00:43:57 | 日記
会津若松に新撰組隊士のお墓が2つあります。ひとつは隊長近藤勇の墓です。
近藤勇は、首を刎ねられた後、首は京都の三条河原に晒され、胴体は三鷹市竜源寺の近藤家の墓に埋葬されたそうです。で、この首を誰かが持ち出して会津の地に埋葬したと伝わっています。このお墓は山の中腹にあって見に行くのは結構疲れます。お墓に刻まれた「貫天院殿純忠誠義大居士」という立派な戒名は松平容保の書のようですから、それ相応に由緒正しいお墓なんですね。東京の板橋とか他にもお墓は数か所あるようですが・・。それと、剣豪斎藤一の墓も会津若松にあります。新選組では三番隊組長で沖田総司や永倉新八と並んで新選組最強の剣士の一人といわれていました。何度も名前を変えていて、斎藤一が一番有名ですが、斗南藩(会津藩が移封されたとこ)に移住してからは、藤田五郎と改名しました。したがってお墓は藤田家の墓となっています。
近藤勇
斎藤一

鶴ヶ城

2009-01-28 00:57:18 | 歴史探訪
会津の鶴ヶ城は、数々の有名な大名が拠点にした天下の名城です。昔は黒川城と言っていましたが蒲生氏郷が入って町を若松に改めたときから、若松城(現正式名称)となりました。最初は葦名氏の城でしたが、1589年に伊達政宗、1590年に蒲生氏郷(この時期に天守閣を作ります)、1598年上杉景勝、1627年に加藤嘉明、1643年に保科正之が入り、そして幕末に松平容保でその歴史を閉じます。北への備えとしての重要な役割を担うがために時代に翻弄され続けてきた、歴史深いお城です。ちなみに日本の名城100選に入っています。八戸の根城も入っているくらいだから、当たり前ですね


日新館

2009-01-27 01:10:35 | 歴史探訪
日新館は、会津藩の藩校で白虎隊の学び舎です。4年ぶりに昨年末に行ってきました。飯森山や鶴ヶ城、武家屋敷など会津は見どこと満載です。何回かに分けて簡単に紹介します。
当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学しました。その後成績優秀者(少数)は日新館内にある大学への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されました。全国に数ある藩校の中でもトップクラスの藩校です。びっくりするくらい広大な敷地で、中には池があって水泳の練習もしていたようです。

<什の掟[じゅうのおきて]>

日新館入学前の六歳から九歳までは地域ごとに組を作り、お互いに武士としての心構えを学びました。「什の掟」はその時の規則で、とても有名ですよね。「ならぬことはならぬものです」小さな子供にはこれでいいのですよね。

一、年長者[としうえのひと] の言うことに背[そむ]いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀[じぎ]をしなければなりませぬ
三、嘘言[うそ]を言うことはなりませぬ
四、卑怯[ひきょう]な振舞[ふるまい]をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人[おんな]と言葉を交[まじ]えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。





斎藤一人さん

2009-01-26 00:55:14 | いい話
斎藤一人さん。ご存じの人も多いと思いますが「銀座まるかん」という漢方薬の会社の創業者で1993年から10年連続で全国高額納税者番付(総合)10位以内。累積納税額日本一。しかも、そのすべてが土地・株以外の事業所得によるものであり、実質上の一位を続けたお方です。今は全国高額納税者番付がなくなったので、最後の公式的な長者様ってことですね。で、この方のものの考え方が面白いんです。初めて偶然読んだ本は「ツイてる」という新書だったのですが、それからいろいろ本を読んだり、CD聞いたりとおいらのBOOKメンターの一人となりました。この方の考え方は、たぶん中村天風先生、小林正観先生、飯田史彦先生の影響を強く受けていると思われますが、それを日常生活の実践レベルまでに噛み砕いて独自の世界を築きあげた大人物だと思ってます。なんか悩んだりしたらこの人の本を読むと救われた気持ちになると思うので紹介しておきます。一人さんの言葉は”たまぁに”「いい言葉」の中で紹介していきたいと思います。また、今後もおいらのBOOKメンターを少しづつ紹介していきたいと思ってます

所持している一人さん本の一部です。