コッコ2号が熊本城に行ってきました。修学旅行ですけどね。おいらも熊本城は大好きで、これまで5~6回行ってますが、ここ10年くらいは残念ながら行く機会がありません。懐かしかったので紹介します。
現在の熊本城はかつて茶臼山と呼ばれた肥後熊本の丘陵地に、慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、加藤清正が築いたお城です。見どころは天守閣の他にやはり石垣でしょう!これは「武者返し」と言って、石垣の上部になるにつれて反り返し、簡単には登れないような構造となっているもので、見た目にもとても美しいものです。明治初期には西南戦争における官軍の重要拠点であると同時に西郷どんの重要攻略目標となるなど、会津の鶴ヶ城と同様に戦国期から明治期にかけて数多くのドラマを生んだ天下の名城です。
<エピソード>
江戸時代の大部分熊本を治めたのは細川氏ですが、明治10年の西南戦争で谷干城の守る熊本城を落城できなかった西郷どんは「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公(せいしょこ)に負けたとでごわす」と言ったといいます。やはり熊本は加藤清正(清正公)ですね!
ちなみに、谷干城は西南戦争の功績により陸軍中将に昇進しました。
現在の熊本城はかつて茶臼山と呼ばれた肥後熊本の丘陵地に、慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年)にかけて、加藤清正が築いたお城です。見どころは天守閣の他にやはり石垣でしょう!これは「武者返し」と言って、石垣の上部になるにつれて反り返し、簡単には登れないような構造となっているもので、見た目にもとても美しいものです。明治初期には西南戦争における官軍の重要拠点であると同時に西郷どんの重要攻略目標となるなど、会津の鶴ヶ城と同様に戦国期から明治期にかけて数多くのドラマを生んだ天下の名城です。
<エピソード>
江戸時代の大部分熊本を治めたのは細川氏ですが、明治10年の西南戦争で谷干城の守る熊本城を落城できなかった西郷どんは「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公(せいしょこ)に負けたとでごわす」と言ったといいます。やはり熊本は加藤清正(清正公)ですね!
ちなみに、谷干城は西南戦争の功績により陸軍中将に昇進しました。