あさやん通信

おいらの日記、徒然なるままに!

正法眼蔵

2011-01-26 01:46:49 | いい話
曹洞宗の開祖、道元禅師の正法眼蔵の中から一節を・・


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生というは、たとえば人の舟にのれるときのごとし。

この舟は、われ帆をつかい、われ舵をとれり、われさおをさすといえども、舟われをのせて、舟のほかに我なし、われ舟にのりて、この舟をも舟ならしむ、

この正当恁麼時を、功夫産学すべし。

この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし、天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。

このゆえに生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。

舟に乗れるには、身心・依正、ともに舟の機関なり、尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。

生なる我、われなる生、それかくのごとし。

------------------------<訳>-----------------------------------------

生ということは、たとえば人が舟に乗って動かしている時のようなものである。

この舟を、この私が帆を使い、舵を取り、棹を指しているのではあるが、舟が私を乗せているのである。

つまりこの動いている舟の他に私はなく、私が舟に乗って初めてこの舟を舟たらしめているのである。

まさにこの、二つが一つとなっている、大切な瞬間のあり方に思いをめぐらし、学ぶべきである。

まさにこの瞬間においては、あらゆるものが舟でないということがない。

空も水も岸も、みな舟との時期となっており、この瞬間においては舟と一体となっていない時の他の時期とは、全く様子を異にしている。

この摂理から、生はわたし自身が生たらしめているのであり、一方で生がわたし自身をわたし自身たらしめているのである。

舟に乗っている場合は、わたしの部分である肉体とか精神、客観とか主観とかは、いずれも舟の中心的な部分である。

またわたしの外にある一切の大地、一切の空間もまた、舟の中心的な部分である。

生きている自分も、自分の生も、元来このようなものなのである。

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分かりやすそうで、深い話ですねぇ。

私というのは、まさしく生きている私自身であって、舟とは宿命とか運命とかいうことなのか・・ いや社会や環境ということなのか・・・

じゃ、この話に出てこない川の流れはなん何なんだ? それが運命か。 川も含めて舟と言っているのか。

とにかく、私があって、舟があって、川がある。
全て三位一体で私ということだろう。私だけが私でないということを悟れれば楽なんだろうけど、舟は私でないと思うから苦があるのかもね。





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